北史卷四十 列傳第二十八 程駿

程駿

  • 字驎駒、広平曲安の人(本文では初出時「程逡」と表記される)。六世祖の良は晋の都水使者で事に坐し涼州に流された。祖父の肇は呂光の人部尚書。駿は幼くして孤貧、喪に孝を尽くした。劉延明に師事し聡敏で学を好み昼夜怠らず、延明は「一を挙げて三を反する者、この子はそれに近い」と評した。駿は延明に「今の儒者は老荘を虚誕とするが自分はそう思わない、乖けば偽が生じ性を失えば真を喪う」と論じ、延明はこれを老成と評し声誉が高まった。沮渠牧犍が東宮侍講に抜擢した。
  • 太延5年、涼州平定で京師へ移る。司徒崔浩に知られた。文成帝即位で著作郎、皇興中に高密太守。尚書李敷が駿の史才を惜しみ留任を奏請しこれが許された。献文帝はしばしば駿と『易』『老』を論じ「この人と話すと大いに開ける」と評した。駿61歳と聞き「太公望は文王に遭ったが卿が朕に遇うのは早い」と言われ、駿は「臣は呂望に及ばないが陛下は西伯を超える」と応じた。
  • 延興末、高麗王璉が娘を後宮に納めることを求め、駿は散騎常侍を仮し安豊男を賜り高麗へ迎えに赴いた。璉は魏が燕と婚姻後に伐った先例を恐れ娘の喪と偽り、駿は璉と長く応酬し義方を責めた。璉は怒って駿の従者の飲食を断ち辱めようとしたが害するには至らなかった。献文帝崩御で帰還、秘書令となる。
  • 神主を太廟に遷す際、旧例で執事官に爵位を賜うべきとの意見に対し、駿は独り反対し「未だ宗廟の事に預かって疆土の賞を得た例を聞かない」と上表、これに従われた。文明太后は「事を言うには古典に准ずべきで一時の旧事に依るべきでない」とし、駿に衣一襲・帛200匹を賜い、さらに清慎さを称え帛600匹を加賜、駿はすべて親旧に散じた。
  • 性は介直で時流に競わなかった。太和9年正月に病篤くなり「儉薄を尚び奢厚に葬られるべきでない、時服で斂め明器は古に従え」と遺命した。孝文帝・文明太后は使者を遣わし医薬を賜った。臨終に小子公稱を中散、甥の霊虯を著作佐郎に任じた。死去に孝文帝・文明太后は哀惜し、東園秘器・朝服・帛300匹を賜い兗州刺史・曲安侯を贈り諡は憲。著作は集録がある。