北史卷三十九 列傳第二十七 羊烈

「畢氏の帷薄」を斥けた清節の士

  • 字は信卿、通敏で成人の風があり、玄学に通じた。孝昌末、從兄の侃が太山太守の任にありながら反乱を起こした際、烈は深く家禍を懼れ從兄の広平太守敦とともに洛陽に急を告げ、朝廷の厚賞を「兄の敗を幸いに己の利とはできぬ」と固辞した。
  • 天保中、尚書祠部・左右戸郎中を歴任し、陽平太守として蝗害が郡境を侵さぬ善政で褒美を受け、光禄少卿・兗州大中正に遷った。義州刺史ののち老を理由に帰郷し家で卒した。
  • 家学は素業を伝え閨門は修まり、一門の女は再婚しない家風で、太和中には兗州に尼寺を建て寡婦の女を出家させ戒行を守らせた。天統中、尚書畢義雲と兗州大中正の座を争った際、義雲が「畢氏累世の門代・本州刺史、卿の家は代々我が家の記録係だった」と誇ると、烈は「畢軌が誅されて以来人物は絶えて久しく、近年の刺史は境上の得失に過ぎない、我が家は漢の河南尹・晋の太傅に連なり名徳学行は百世に伝う、男は清く女は貞、他は語るに足らぬ」と応酬し、暗に畢氏の閨門の乱れ(義雲の家)を諷した。
  • 弟の修は才幹があり尚書左丞で卒し、その子の玄正は武平末に将作丞、隋開皇中に戸部侍郎として隴西郡贊務で卒した。

史論

  • 薛安都はただの武夫に過ぎず去就は軽率であったが、実際には東南に道を開いた。窮地から局面を変え結局は寵禄を保った点は評価に値する。劉休賓は窮して身を委ね、法武(孝標)は江南で名声重く、房法壽は拓落不羈ながら子孫を興隆させ、房景伯兄弟の儒素な家風は称賛に値する。畢眾敬は土地を挙げて忠誠を示し栄華を極め、一族は代々朝廷に列した。羊祉の剛酷な風は死をもって幸いとすべきほどであった。羊深は才幹をもって事に従い、その事跡は称するに足る。羊敦・羊烈は自らの節を守り抜き、まさに一時の俊彦であった。