酷烈をもって鳴らした御史中丞
- 小字は陀兒、少くして粗俠で兗州北境で行旅を劫掠し州の患いとなったが、のちに官途に折節し尚書都官郎中に累進。齊文襄の代に偽官の勾検を専管し車輻で拷問して大いに成果を挙げたが怨みも買った。訴えられた際は文襄に信任され、訴人の吏を斬るほど強硬だった。
- 文宣の受禅後、書侍御史・御史中丞として勲親をも憚らず弾劾したが自らも豪横で頻繁に訴えられ、汲郡太守翟嵩の弾劾(従兄僧明の官債を巡る私怨や工匠私蔵・機織錦の不正蓄財)で一時拘留されたが釈放され司徒左長史となった。
- 尚書左丞司馬子瑞の弾劾では、皇姨竇氏の弔問を怠り御史に名代させたこと、喪服中の李世安の娘との婚礼を「暗迎」と偽りながら実際は盛大に挙行したこと、拝表の規則を私的に曲げたことなどが列挙され廷尉科罪となったが、赦されて罪は罰金にとどまった。子瑞の従兄消難が北豫州刺史であった際、義雲が密偵を送って探らせたことが消難の周への叛入の一因とされ、義雲は声望を大いに損なった。乾明初、子瑞の台頭で義雲は度支尚書・攝左丞に一時転じた。
- 孝昭の晋陽赴任時、高元海に依附し武成の即位を勧進、兗州刺史を得て軒昂に振る舞ったが、元海への私信が李孝貞の手に渡り疎まれ、高歸彥の逆に際しては私兵を集めた疑いで追還されたが武成の温情で七兵尚書に留められた。
- 豪縦で施恵を好み財を蓄えたが、貴顕になると驕侈を極め邸宅を宏壮に築き閨門は乱れ、酷暴で子孫・僕隷を絶えず折檻した。孽子の善昭が義雲の侍婢と通じたことを厳しく罰し縛って庭木に繋いだ末、義雲は夜中に賊に殺されその佩刀が善昭の庭に遺されていた。善昭は逃走したが調べの結果、義雲の新妻盧氏への疑いから真相が露見し善昭は捕らえられ大逆として獄中で斬られ屍は漳水に棄てられた。
- 祖歸の子義遠は平原太守、義遠の弟義顯・義攜は豪率な性格で梁の使者接遇の饗応を得意とした。祖旋は太尉行参軍で卒し都官尚書・齊兗二州刺史を贈られた。
- 眾敬の弟の眾愛は魏に帰順した勲功で钜平侯を賜り卒し徐州刺史・諡康を贈られた。子の聞慰は爵を襲ぎ(伯に降)、清河内史・広平内史を経て、相州刺史中山王熙の元乂誅殺の挙兵に際し使者を斬り拒んで元乂の信任を得て滄州刺史として善政を敷いたが、元法僧討伐に失敗し劾を受けたが赦免。散騎常侍・兗州刺史・諡恭を贈られた。子の祖彥(字は修賢)は元法僧の監軍として反乱に巻き込まれたが帰還後中書侍郎まで進み尚書右僕射・兗州刺史を贈られた。祖彥の弟の祖哲は秘書郎で、畢氏一族は栄達したが家風の乱れが世に卑しまれた。