驍勇にして非業に終わった隋の将
- 字は徳本、河東の人。祖の伯鳳は周の汾州刺史、父の定は上儀同。平陳の役で先登の功を挙げ、漢王諒府の親信を務め、諒の反乱に苦諫して囚われたが乱平定後に護軍へ抜擢された。武賁郎将として蛮の向思多討伐・吐谷渾撃破・靺鞨討伐・高麗征討に従い、光禄大夫まで進んだ。
- 李密が洛口に拠ると河南道討捕大使として武牢で対抗したが、臨軍御史蕭懷靜との軋轢から懷靜を殺し、密に帰順して河東郡公に封じられた。子の行儼は絳郡公となり驍勇で知られた。
- 王世充が偃師に決戦を挑んだ際、仁基は「精兵三万で東都を突く」策を進言したが、密は東都軍の三つの強みを説いて按兵持久を主張し、単雄信ら諸将の主戦論に押されて開戦、大敗を喫し仁基は世充に捕らえられた。世充は仁基父子の驍勇を重んじ兄女を行儼に娶らせ、僭号後は礼部尚書・左輔大将軍とした。行儼は「万人敵」と称されるほど戦功を挙げたが世充に猜忌され、仁基は宇文儒童・陳謙・崔德本らと世充暗殺を謀るも将軍張童兒の密告で発覚し、一族すべて世充に殺された。
史評
- 裴駿は業績と器行を代々受け継ぎ、その名声にふさわしい。延儁は器能・位望とも称するに足り、伯茂の才名も一時の良才であった。元化(佗)は文学と修史で美を伝え、讓之ら兄弟は修身厲行、その出処は称賛に値する。矩は経史に通じ幹局に優れ勤勉に公務を尽くしたが、時流に迎合して高昌の入朝・伊吾の献地を促し関右を騒がせた一因ともなった。果と寬は早くから去就を見定めたが、寬が異域に没したのは天命であろう。嵩和(俠)の廉約と忠勤は古の良吏に劣らない。肅は周・隋を歴仕して鯁正の志を貫き、忠誠慷慨に龍鱗を犯した姿は嫠婦・処女の憂いにも似て空言ではない。文舉は絳州で清徳を伝え辞多受少の廉譲の風があった。仁基は武略で知られながら非道に踏み込み身名を損なった、これも時勢というべきか。