北史卷三十八 列傳第二十六 裴俠

「独立使君」と称された清廉の吏

  • 字は嵩和、河東解の人。祖の思斉は議郎、父の欣は西河郡守。俠は七歳まで口をきかなかったが洛城で烏の群れを指さして初めて言葉を発したという。十三歳で父を喪い、桑東の吉地に葬れとの啓示を得て母に告げ、大桑林の側に葬った。州の主簿から秀才に挙げられた。
  • 魏正光中、義陽郡守などを経て東郡太守。孝武の齊神武との不和に際し、王思政に「宇文泰は三軍に推された者、己の矛を人に授けるはずがない」と関右行きを進言し西遷に従った。清河県伯を賜り丞相府士曹参軍。
  • 大統三年、沙苑の戦で先鋒陥陣の功に周文帝が「仁者必勇」と称え、本名の協から「俠」の名を賜った。玉壁の長史として齊神武の招降書に壮烈な返書を草し「魯仲連にも劣らない」と評された。河北郡守として漁猟夫三十人・力役丁三十人を廃し官馬の市場調達に転用するなど自ら倹約を実践、去職の日は一物も持ち出さず「肥鮮不食、丁庸不取、裴公貞惠、為世規矩」と民に歌われた。周文が居並ぶ牧守の中で俠だけを別立させ「裴俠のごとき清慎の者は他にいるか」と問うても誰も応じなかった逸話も残る。九世伯祖の『貞侯潜伝』を撰し裴氏の清節を後生に伝えようとした。
  • 郢州刺史として梁の竟陵守孫皓・酂城守張建の帰順の真偽を見抜き(皓は不忠、建は無異心と判じ、皓はのち果たして叛いた)、大将軍・拓州刺史を経て雍州別駕。周孝閔帝の代に戸部中大夫として蓄年の官物横領を摘発し数旬で一掃、工部中大夫として自首を促し大司空掌銭物典李貴の五百万銭隠匿を明るみに出した。
  • 病に伏した際も鼓の音を聞くと府への出仕を思い起こして病が癒えたという逸話や、晋公護が「天祐の勤恪」と評した話、貧しい住まいのために帝から邸宅と良田十頃を賜った話などが伝わる。卒すると太子少師・蒲州刺史を贈られ諡は貞。河北郡の旧吏らは俠の遺徳を頌に記した。

子祥とその弟肅

  • 子の祥は理劇の才があり城都令・長安令として権貴に憚られ司倉下大夫に遷った。父俠の死に際し毀してまで悲しんだ。弟に肅がいる。
  • 肅(字は神封)は貞亮で才芸があり、天和中に秀才に挙げられ禦正下大夫、韋孝寛の淮南征討に従った。隋文帝の丞相就任を聞き「武帝が雄才で天下を定めたのに墳土も乾かぬうちに革命とは天道か」と歎じて文帝の不興を買い一時廃されたが、開皇五年に膳部侍郎で復官。仁壽中、廃された皇太子勇・蜀王秀・左僕射高熲の赦免を上書し「二庶人を小国に封じて改心を見よ」と説き、文帝に「肅は我が家事を憂うること此の如し、まことに至誠」と評され召された。太子は不快感を示したが、肅は上に会って直言し、煬帝即位後は疎まれ杜門を貫いたが晩年に永平郡丞として夷人の心を得、没後は鄣江の浦に廟が立てられた。子は尚賢。