北史卷三十七 列傳第二十五 田益宗

光城の蠻帥として節を守る

  • 光城蠻の出で身長八尺、雄果な将略を持ち世々四山蠻帥として斉に属していたが、太和十七年に使者を遣わして魏に帰順、南司州刺史・光城県伯として蛮邑一千戸を食んだ。のち東豫州刺史(新蔡に立州)、安昌県伯に改封。
  • 景明初め梁軍の三関侵攻を撃退し、長風城で大破。梁の建甯太守黄天賜・黄公賞の攻勢も撃退し二城を得た。宣武の義陽攻めに際しては梁の糧運を断ち、郢・豫両州がほぼ梁に没する中、義陽だけは益宗の力で守り抜かれた。梁が車騎大将軍・開府儀同三司・五千戸郡公で誘っても節を変えなかった。
  • しかし晩年は聚斂が過ぎ、子孫も賄貨を貪ったため部内は叛意を抱いた。子の魯生の淮南での貪暴も咎められ、延昌中には済州刺史に転任させられ、反逆を恐れた宣武が李世哲らに広陵を襲わせる事態に至った。魯生・魯賢は梁に投じて招兵し光城以南を奪ったが世哲が撃破し復した。益宗は征南将軍・金紫光禄大夫に進み内地への不満を抱えたまま、熙平初め卒し征東大将軍・郢州刺史を贈られ諡は荘。少子の纂が中散大夫を襲い、卒して東豫州刺史を贈られた。子の随興は弋陽・東汝南二郡太守、兄の興祖は江州刺史。