父薛強の事跡
- 薛辯、字は允白。河東汾陰の人。曾祖の興は晋の尚書右僕射・冀州刺史・安邑公、諡は荘。祖父の濤が爵を襲い梁州刺史となり諡は忠恵。京都(洛陽・長安)陥落の際、皆義烈をもって知られた。
- 父の強、字は威明、幼くして大志を抱き軍国の籌略に長けた。北海の王猛と親交があった。桓温が関中に入った際、王猛は粗末な服のまま謁見した。桓温が「江東にはあなたに比する者がいない、秦国にはまだ多くの奇士がいるはずだ、共に南へ来てほしい」と言うと、王猛は「公が乱を治め時を済う人物を求めるなら、友人の薛威明こそがその人です」と答えた。薛強は自ら商山から訪れて王猛と共に軍謀祭酒に任じられた。桓温に大志があっても成功する見込みがないと見て王猛を止めるよう勧め、まもなく桓温は敗れた。
- 苻堅が立つと王猛は重用された。平陽公苻融が書をもって薛強を招こうとしたが、王猛は屈すべきでないとして止めた。苻堅が河東で張平を討伐した際、自ら数百騎で薛強の砦の下に至り面会を求めたが、薛強は主簿に応対させ、「この城は決して生きて降る臣を出さない、死を選ぶ将のみがいる」と慷慨して宣言した。苻堅の諸将は攻撃を求めたが、苻堅は「私が晋を平定すれば彼は自ずと降る、これを捨て置いて君に仕える者への戒めとせよ」と応じた。
- のち苻堅が晋を討伐し敗れると、薛強は宗族の兵を総べ河輔に威を振るい、慕容永を陳川で破った。姚興はこれを畏れ礼を厚くして招き、右光禄大夫・七兵尚書に任じ馮翊郡公に封じ、左戸尚書に転じさせた。享年九十八で没し、輔国大将軍・司徒公を贈られ諡は宣。
魏への帰順
- 薛辯は幼くして俊爽で大略があり、豪傑が多く帰服した。父の死後、その軍営を継承した。姚興に仕え太子中庶子・河北太守を歴任した。姚氏の運が傾いていることを察し、官を辞して郷里に帰り防衛に努めた。晋の劉裕が姚泓を平定すると相国掾に任じられ、まもなく平陽太守として北道の鎮撫を委ねられた。長安が陥落すると魏に帰った。
- 河際で功を立て、平西将軍・東雍州刺史となり汾陰侯の爵を賜った。その年に参内し、明元帝に深く重んじられ、翌年ようやく鎮に戻れた。帝は「朕は卿を西蕃に委ね、志は関右にある。卿は最後まで良策を尽くし、朕のために長安の主人となってくれ」と語った。任地に戻った薛辯は農耕と軍事訓練に努め、数千の兵で赫連氏の攻勢に対抗し、帝に大いに称賛された。并州刺史に転じ、召されて大羽真を授けられた。泰常七年、官で没した。帝は志半ばであったことを深く惜しみ、并・雍二州刺史を贈った。