北史卷三十五 列傳第二十三 雛

逸話

  • 述祖の族子の雛、識見と操行があり官は膠州刺史に至った。かつて斉の文宣帝が皇太子であった頃、その娘を良娣に納れた。雛は当時尚書郎であったが、趙郡の李祖升兄弟はやや彼を敬い憚っていた。楊愔が雛を趙郡太守に任命すると、李祖升兄弟は皆雛の門に赴き名刺を出して拝謁した。文宣帝はこれを聞いて喜び「これでもう李家の子を殺せるほどになった」と笑ったという。

史論

  • 王慧龍は困難を切り抜けて自ら帰順し、危険の中を渡り歩きながら人を治め衆を督し、強敵にも畏れられた。瓊(世珍)はまことに良い子を得て家声をよく広めた。松年の見送りの際の旧情への執着には古人の風があった。
  • 劭は幼少から白髪に至るまで学を好んで倦まず、あらゆる書物を究め、識者の多くはその博物ぶりを認めた。著述を好み久しく史官にあり、『斉書』を撰し『隋書』も修めたが、詭怪の説を好み委曲な談を尊んだため文辞は卑俗で体裁も煩雑であり、南史・董狐の直筆にも及ばず、司馬遷・班固の才もなかった。徒に筆墨を費やすばかりで見るべきものは少ない。符瑞を経営し妖言を交えたことで、河朔の清流の家柄でありながら栄利に流され家声を頽落させたのは惜しむべきことである。
  • 鄭羲は機知に優れ当時に許された人物であった。懿兄弟の風尚は見るべきものがあり、共に栄遇を得てその美を成した。述祖の徳業は家声を継ぐに十分であった。嚴祖・仲禮は家門の名誉を大いに損なった。幼儒は令聞ながら短命であった。伯猷は賄賂によって徳を損なった。道邕は離散した民を撫寧し仁恵をよく行った。
  • 譯はまさに顧命を受ける立場でありながら、それがかえって身の破滅を招いた。帝の明徳の代に至って忘恩とも言うべき態度を見せ、鹽梅(宰相の要職)を担う器ではなかった。昔日の恩義を語りながら内心に不満を抱き、呉・耿(漢の功臣)の末席にいることを恥じ、絳・灌(前漢の功臣)と伍することを厭った。君に仕えて礼を尽くすことにそもそも欠け、親を愛さない態度も物議を招いた。名教に照らせば、君子の深く咎めるところである。儼は名が『恩倖伝』に連ねられ、前代の恥辱を受けた。偉は豹変するがごとく身を転じたが、それも時勢を察知した士と言えよう。