北史卷三十五 列傳第二十三 偉

西魏での軍功と気性

  • 先護の子の偉、字は子直。若くして倜儻で大志を抱き、常に功名を自ら期し、騎射に優れ胆力は人に勝った。爾朱氏の滅亡後、梁から魏に帰った。孝武帝の西遷に際し偉も郷里に帰り仕官を求めなかった。大統三年(537年)、河内公独孤信が洛陽を回復すると、偉は一族の榮業とともに州里で挙兵し陳留に集結、数日のうちに一万の衆を得た。梁州を攻略し東魏の刺史鹿永と鎮城守将令狐徳を捕らえ、陳留郡守趙季和も獲得した。衆を率いて西に帰附し、これにより梁・陳の間で次々と降伏する者が続いた。偉は関西に入り周文帝と語り合い、その才を称賛され北徐州刺史・武陽県伯を授かった。河橋の戦、玉壁の包囲解除の戦に従い常に先鋒を務めた。侯景が降ると周文帝は偉に部隊を率いて呼応させ、侯景が叛くと偉も全軍を保って帰還した。滎陽郡守を除され襄城郡公に進み、侍中・驃騎大将軍・開府儀同三司となった。魏の恭帝二年、大将軍・江陵防主・都督十五州諸軍事に進んだ。
  • 偉は性格が粗暴で法度に従わず、些細なことで殺戮に及ぶことがあった。朝廷はその挙兵の功に免じて寛容に扱った。江陵にあっては副防主の杞賓王をほしいままに殺害し除名された。保定元年、詔により官爵を回復された。天和六年、華州刺史となった。偉は前後の在職を通じ威猛によって政治を行い、吏人は禁令を犯さず盗賊も鳴りを潜めた。仁政ではなかったが、この点で称された。州で没し、本官に加え少傅・都督・司州刺史を贈られ、諡は肅。
  • 偉は吃音であった。若い頃、野で鹿を追い見失った際、牧童に尋ねたところ、牧童の応答も吃音であった。偉は自分を真似ていると怒り射殺した、というほどの残忍さがあった。子の大士が跡を継いだ。