北史卷三十五 列傳第二十三 瓊
字世珍、孝文帝より賜った名。王慧龍の曾孫、寶興の子。典寺令から光州・兗州刺史を歴任するも権臣に阿らず長く不遇であった、奇矯な逸話の多い人物。四子をもうけ、長子の遵業をはじめ子孫は北斉・隋にわたり要職を歴任し、曾孫の劭は『隋書』の著者として知られる。
逸話と最晩年
- 瓊の娘は范陽の盧道亮に嫁いだが、夫の家に帰ることを許さなかった。娘が没すると瓊は哀慟し、別の場所に葬ったが墓を塞がず、しばしば墓穴の中で哭泣した。当時の人々はこれを深く怪しんだ。
- 耳が聞こえにくくなり、僧俗を見ればしきりに物乞いをして人を驚かせ笑わせた。道で太保・広平王懐に出会った際、馬に乗ったまま拝礼せず自らの馬の痩せを訴えると、王懐は誕生した馬とその装備一式を与えた。尚書令李崇を訪ねた際も馬に乗ったまま黄閣に入り、李崇の子世哲に会うと「継伯(李崇の字)はいるか」とだけ尋ねた。李崇が趨り出るとようやく下馬した。李崇の倹約ぶりを好んで紙帖で衣領を留める癖を、瓊は笑って取り去った。李崇の末子青肫が盛装していても寵勢を恨むには及ばなかった。領軍元叉の奴僕が瓊に馬を届けさせた際、瓊は馬とともに奴僕まで留め置いた。王誦はこれを聞いて「東海の風もここまで落ちたか」と笑った。
- 孝昌三年、鎮東将軍・金紫光禄大夫・中書令を除された。当時、子の遵業が黄門郎であったためこの授与があった。没すると征北将軍・中書監・并州刺史を贈られた。王慧龍の帰魏以来、三世にわたり独子であったが、瓊に至って初めて四子をもうけた。
遵業(瓊の子)――経歴と評判
- 長子の遵業、風儀清秀、経史に通じた。著作佐郎として司徒左長史崔鴻とともに起居注を撰した。右軍将軍・兼散騎常侍に遷り柔然を慰労した。代京に赴き遺文を採拾して起居注の欠を補った。崔光・安豊王延明らと服章を参定した。崔光が孝明帝に『孝経』を講じた際、遵業も講義に参与し、弟の延業が記録を担当し、揃って詔に応じ『釈奠侍宴詩』を作った。当時の人々は「英英済済、王家の兄弟」と評した。司徒左長史・黄門郎に転じ、典儀注を監督した。
- 遵業は当時大いに評判を得て、中書令陳郡の袁翻、尚書琅邪の王誦とともに黄門郎を領し「三哲」と号された。当時の政治は門下(侍中・黄門)に帰しており、世は侍中・黄門を「小宰相」と呼んだ。しかし遵業は物静かで、丘園にあるかのような態度を保った。かつて穿角履(角の飾りのある靴)を履いたところ、多くの者が新しい靴を潰してこれを真似た。
- 胡太后の臨朝で天下が乱れようとする中、遵業は避難を図り自ら徐州への転出を求めたが、太后は「王誦は幽州を罷めて初めて黄門になった。卿がなぜ徐州を望むのか、あと一二年待てば良い処遇があるだろう」と答えた。兄弟は当時の俊才と交遊し高く評価された。爾朱栄が洛陽に入った際、兄弟は父の喪中にあったが、荘帝と従姨兄弟の縁があったため相率いて迎えに赴き、河陰でともに殺害された。世論はその人材を惜しみつつ、その軽率さを譏った。并州刺史を贈られた。『三晋記』十巻を著した。
松年(遵業の子)――経歴
- 子の松年、若くして知られ、斉の文襄(高澄)が并州に臨むと主簿に召された。通直散騎常侍に累進し李緯の梁への使者に副使として随行した。帰還後、尚書郎中に至った。魏収が『魏書』を撰し終えた際、松年はこれを謗る発言をした。文宣帝(高洋)は怒り禁錮のうえ杖罰を加えたが、一年余りで赦免され臨漳令を除された。司馬・別駕・本州大中正に遷り、孝昭帝(高演)に給事黄門侍郎に抜擢された。帝はしばしば座を賜り政事を論じ、これを厚く評価した。
- 孝昭帝が崩じると、松年は駅馬で鄴都に馳せ遺詔を宣した。言葉を発すれば涙が溢れ、宣読を終えるまでその様は変わらず、辞は諧調を保ったが、宣読を終えると号泣して自ら地に倒れ、百官は皆感慟した。晋陽に戻り侍中を兼ね梓宮を護って鄴に還った。旧臣たちは形跡を避けて哀悼を尽くす者がなかったが、松年だけは哭くたびに涙を流し、朝士は皆恐れ入った。武成帝(高湛)は松年の旧情への執着を憤りつつも、なお彼を重んじた。
- 本官に散騎常侍を加え高邑県の食封を受けた。律令の制定に参与し、大きな獄事の多くを委ねられた。御史中丞を兼ねた。晋陽から鄴に赴く途中で病を得て没した。吏部尚書・并州刺史を贈られ、諡は平。第二子の劭が最も知られた。
劭(遵業の孫)――若年期と『斉書』撰述
- 劭、字は君懋。若くして物静かで読書を好んだ。斉に仕え太子舎人に累進し、文林館で詔を待った。祖孝征・魏収・陽休之らが古事を論じて忘却した箇所があり調べても分からなかった際、劭に問うと出典を具さに述べ、書を取って検証すると一つも誤りがなかった。これにより大いに評判となり博物と称された。のち中書舎人に遷った。
- 斉が滅び周に入るとしばらく登用されなかった。隋文帝の受禅後、著作佐郎を授かったが母の喪により職を去った。家で『斉書』を著したが、当時私的な史書撰述は禁じられており内史侍郎李元操に奏上された。帝は怒って書を没収させたが、読んで気に入り、員外散騎侍郎に起用し起居注を修めさせた。
劭――「変火」の上表と符瑞の言上
- 劭は上古の鑽燧改火(火種を季節ごとに変える古礼)が近代に廃絶したことに触れ、変火の上表を行った。『周官』の「四季に火を変え時疾を防ぐ」との記述を引き、晋代に洛陽の火を代々絶やさず伝えた家の話や、師曠が薪の由来を言い当てた故事などを挙げ、五時ごとに五木から火を採る古法を宮中の食事に適用するよう求め、帝はこれに従った。
- 劭はさらに文帝に「龍顔戴幹」の相があるとして群臣に示した。帝は大いに喜び物数百段を賜り著作郎を拝した。劭はまた符命についての上表を行い、要旨は次の通り。
- 周の保定二年(562年)、黄河が清く澄んだことを斉は瑞祥として「河清」と改元したが、実はこれは隋(文帝の父・武元皇帝が随州刺史となった年)の瑞であり、二十年後に隋が興ったことがその証しであるとした。
- 開皇初年、邵州で得られた石図、永州の石図、汝水の神亀の文、安邑の古鉄板、同州の石亀など、各地で発見された吉祥の文字・図像を列挙し、いずれも隋の受命を示すものと解釈した。
- 建徳六年(577年)の亳州での龍闘、大象元年(579年)の熒陽汴水での龍闘の様子(白龍が黒龍を降して天に昇った)を、隋(楊氏、五行で火徳、白色を配す)が周(黒、五帝の意)に勝つ予兆と解釈した。
- 『坤霊図』『乾鑿度』などの緯書の語句を一つ一つ引き、隋の姓・楊堅の身長・生年(辛酉)・即位の月日などと照合して、すべてが隋の受命を予言していたと論じた。
- 上は大いに喜び物五百段を賜った。まもなく劭はさらに上書し、『易・乾鑿度』の「随卦」、『易・稽覧図』の「坤」「屯」などの卦辞を引いて、隋の建国の月(二月)、文帝の生月(六月)、楽平公主の摂政、周宣帝の崩御からの禅譲までの経緯、文帝が定州総管・亳州総管であった経歴などを、すべて緯書の予言と対応させて詳細に論じた。また『河図・帝通紀』『河図・皇参持』の語句も同様に隋の受命の証拠として逐語的に解釈した。上は大いに喜び、劭の誠を篤く信じ寵愛を深めた。
劭――続く符瑞の奏上と『皇隋霊感志』
- ある人が黄鳳泉で沐浴した際に得た二つの白石に文様があり、劭はこれに日月・星辰・八卦・五嶽・二麟・双鳳・青龍・朱雀・騶虞・玄武などの図象や「天門・地戸・人門・鬼門閉」などの文字、仙人・玉女の像などが刻まれていると解釈し、いずれも隋の皇帝・皇后・後嗣の吉祥を示すものと上奏した。劭はさらにこの文字を回互させ詩二百八十篇を作って奏上し、帝は誠と信じ帛千匹を賜った。
- 劭はこうして民間歌謡を採り、図讖・符命を引き、仏典をも参照して『皇隋霊感志』全三十巻を撰し奏上した。帝は天下に示すよう命じ、劭は諸州の朝集使を集め、手を洗い香を焚いて目を閉じてこれを読ませ、歌うように節をつけて旬朔をかけて一通り読み終えた。帝はますます喜び手厚く賞賜した。
- 文献皇后(独孤皇后)が崩じた際、劭は仏典の記述(往生の際の光明や妓楽の来迎)と、皇后の崩御前後に仁寿宮で金銀の花が降り、大宝殿後方に神光があり、永安宮北で自然に音楽が鳴り響いたなどの現象とを結びつけ、皇后が妙善菩薩の生まれ変わりであったとする上言を行った。帝はこれを見て悲喜こもごもであった。
- 蜀王楊秀が罪で廃された際、帝が「五子のうち三子が不才だ」と嘆くと、劭は「古の聖帝明王も不肖の子を変えることはできなかった。黄帝の二十五子のうち徳を同じくした者は二人のみ、堯の十子・舜の九子も皆不肖であった。夏には五観、周には三監があった」と慰めた。帝はまた高山に登ろうとして登れない夢を見て崔彭・李盛に助けられた話をすると、劭は「高山に登るのは長寿の兆し、彭祖・李老の名を持つ二人に扶けられたのはまさに長寿の証」と解釈し、帝は喜んだ。その年、帝は崩じ、まもなく崔彭も没した。
劭――煬帝の時代と最期
- 煬帝の即位後、漢王楊諒が乱を起こしたが帝は誅殺を忍びなかった。劭は上書し、黄帝が炎帝を滅ぼしたのは母弟であっても行ったこと、周公が管叔を誅したのも天倫を超えた大義であったことなどの故事を引き、楊諒の姓を改めるべきと進言したが、帝は曖昧な態度で従わなかった。劭はこれにより媚びを売ろうとしたと見られた。のち秘書少監に遷り官のまま没した。
- 劭は著作の任にあること二十年近く、専ら国史を担当し『隋書』八十巻を撰したが、口勅の記録や怪異・巷説の類を多く採り類別して題とし、文辞は繁雑で見るべきものがなかった。そのため隋代の文武名臣の善悪の事跡が埋もれてしまったとされる。初め編年体の『斉志』二十巻を撰し、さらに紀伝体の『斉書』百巻、『平賊記』三巻も著したが、文辞が卑俗であったり不規範であったりして識者に軽んじられた。ただし経史の誤りを指摘した『読書記』三十巻は当時の人々にその精博さを称された。
- 若い頃から老いに至るまで経史を篤く好み世事を顧みなかった。食事の際も目を閉じて考え込み、皿の肉を従僕に食べられても気づかず肉の少なさばかりを咎めて廚人を罰した。廚人が事情を訴えても劭は同じことを繰り返し、ついに廚人を待ち伏せて現行犯を押さえてようやく笞刑を免れさせた、というほど専心する性格であった。
廣業(遵業の弟)――経歴
- 遵業の弟の廣業、性格は沈着で優雅、書伝に通じ太尉祭酒から属官に遷った。太中大夫で没し徐州刺史を贈られた。子の乂は威儀があり才幹で知られ、南鉅鹿太守で没した。
延業(廣業の弟)――経歴
- 廣業の弟の延業、博学多聞で才藻に富み中書郎を務めた。河陰の変で亡くなった。乂に子はなく斉州刺史を贈られた。延業の弟の季和は書侍御史・并州大中正を務め華州刺史を贈られた。
鄭羲――出自と初期の経歴
- 鄭羲、字は幼麟。滎陽開封の人。魏の将作大匠鄭渾の八世孫。曾祖の豁は慕容垂の太常卿。父の曄は仕官せず。長楽の潘氏を娶り六子をもうけ、皆それなりの志気があったが、六男の鄭羲が最も文学に優れていた。弱冠で秀才に挙げられ、尚書李孝伯が娘を娶らせた。文成帝末年、中書博士を拝した。
- 天安初年、宋の司州刺史常珍奇が汝南を挙げて降ろうとした際、献文帝は殿中尚書元石を都将として赴かせ、鄭羲を参軍事とした。上蔡に至り常珍奇が三百人で出迎えた際、諸将は汝北に駐屯し様子を見ようとしたが、鄭羲は「機事は迅速を要する、直ちに入城して府庫を掌握すべき」と進言し、元石はこれに従い馬を駆って入城した。城中にはなお常珍奇の親兵数百がおり、元石が油断して警備を怠っていたところ、鄭羲は厳戒を勧め、その夜果たして常珍奇は放火を試みたが備えがあり未然に防いだ。翌朝、鄭羲は白武幡を掲げて郭邑の民心を鎮めた。
- 翌年、汝陰討伐に転戦した。宋の汝陰太守張超が籠城し攻略できなかった際、諸将は長社への撤退を主張したが、鄭羲は「張超はまもなく食が尽きて降伏するか逃走するしかない、撤退すれば城を固められ攻略が難しくなる」と諫めたが元石は聞き入れず撤兵した。翌冬に再び攻めた際は張超が備えを固めており功なく戻った。数年後、張超が死に楊文長が代わって守ったが食が尽き城が潰れついに攻略した。まさに鄭羲の策の通りであった。淮北平定後、中書侍郎に遷った。
鄭羲――地方官としての事績と評価
- 延興初年、陽武の田智度が十五歳で妖惑により民衆を動かし京索を乱した際、鄭羲は河南の人望として州郡に信頼され、伝車で慰喩に赴いた。禍福を説くと衆はみな散じ、田智度もまもなく捕らえられ斬られた。功により泰昌男の爵を賜った。孝文帝の初め、員外散騎常侍・寧朔将軍・陽武子を兼ね劉宋への使者となった。
- 中山王元睿が寵愛を受け王官を置いた際、鄭羲はその傅となった。長年昇進せず資産も乏しくなり、休暇を取って帰郷したまま戻らなかった。李沖が貴寵を得て鄭羲と姻戚関係を結ぶと、家から召されて中書令となった。文明太后が父燕宣王のために長安に廟を建てた際、鄭羲は太常卿を兼ね滎陽侯を仮され、属官を整えて長安に赴き廟を拝し廟門に碑を建てた。帰還後、使者としての功により正式に侯爵を賜った。
- 西兗州刺史に出て南陽公を仮された。鄭羲は多くの収賄を行い、政治は賄賂によって成り立っていた。性格も吝嗇で、贈り物を受けても杯酒すら振る舞わず、西門で羊酒を受け取り東門で売り払うという有様であった。李沖との縁により法官もこれを咎めなかった。酸棗令の鄭伯孫、鄄城令の董騰、別駕の賈懐徳、中従事の申霊度らは在任中に清廉で民を憐れみ、鄭羲は皆彼らを推薦し当時の評判となった。文明太后が孝文帝に鄭羲の娘を嬪として納れさせた際、秘書監に召された。太和十六年(492年)に没し、尚書が「宣」の諡を上奏したが、詔は「棺を蓋いて諡を定めるのは先典の常式、清濁を明らかにするのが政道の規範である。鄭羲は文業はあったが政治には清廉さが欠けていた。尚書が公正さを欠いてよいはずがない」として、諡法により「博聞多見を文、勤めずして名を成すを霊」とし、あわせて「文霊」の諡を贈った。
懿(鄭羲の長子)――経歴
- 長子の懿、字は景伯。経史に通じた。太子中庶子を務め滎陽伯の爵を襲いだ。閑雅で政事の才があり孝文帝に器量を認められ、長兼給事黄門侍郎・司徒左長史を拝した。宣武帝の初め、従弟の鄭思和が咸陽王元禧の逆に連座した際、弟の道昭とともに緦親(遠い親族)として一時禁固されたが、太常少卿を拝し斉州刺史に出た。懿は勧課を好み善く断決したが、清廉ではなかった。ただし義に適う場合は取るという姿勢で、民衆は今なお彼を慕っている。没後、兗州刺史を贈られ諡は穆。子の恭業が爵を襲いだが、武定三年、房子遠と斉の神武帝暗殺を謀った罪で処刑された。
道昭(懿の弟)――学問と地方官としての事績
- 懿の弟道昭、字は僖伯。若くして学を好み諸家の言論に通じた。中書侍郎を兼ね沔北への征討に従軍した。孝文帝が縣瓠の方丈竹堂で侍臣を饗した際、道昭は兄懿とともに侍座した。楽が奏でられ酒宴が酣となると、孝文帝が歌を発し、彭城王元勰・鄭懿・邢巒らが続き、道昭も「皇風一鼓兮九地匝、戴日依天清六合」の句を詠じ、宋弁も応じた。孝文帝は道昭に「これまでの歌詠の中で今日が最もよい」と語り、邢巒に総集を命じた。
- のち中書郎に正式に任じられ国子祭酒に累遷した。広平王元懐が司州牧となると、道昭は宗正卿元匡とともに州都督とされた。道昭は上表し、唐虞・殷周の故事を引いて礼楽と学校の重要性を説き、李彪・任城王元澄らが選抜した四門博士四十人が置かれてから久しいのに軍国多事のため学館の整備が進んでいないことを訴え、律令の参定の経験を踏まえ学令の制定を早急に行うよう求めた。詔は褒美したがなお実施には至らなかった。道昭は重ねて上表し、館舎はすでに整い博士も揃っているとして、旧例により国子学生を仮に置くことを求めたが、これも詔報はなかった。
- のち秘書監・滎陽邑中正に遷り、光・青二州刺史を歴任し再び秘書監となった。没して諡は文恭。詩賦数十篇を残した。二州にあっては政務は寛厚で威刑によらず、吏人に愛された。
嚴祖(道昭の子)――経歴
- 子の嚴祖、風儀はあったが文史には疎く、軽躁で品行を修めなかった。孝武帝の時代、御史中尉綦俊に宋氏の従姉と密通したと弾劾されたが、嚴祖は少しも恥じる色を見せなかった。孝静帝の初め、驃騎将軍・左光禄大夫・鴻臚卿を除され、北豫州刺史に出て再び鴻臚卿に戻った。没して司空公を贈られた。
仲禮(嚴祖の庶子)と子翻――経歴
- 庶子の仲禮、若くして軽率で膂力があった。斉の神武帝はその姉の火車を寵愛しており、親戚として帳内都督に抜擢され神武帝の弓矢を掌って随従した。任冑と酒好きで公事を怠り神武帝に責められた。任冑は恐れて密かに西魏に通じたが密告され、恐懼して謀反を企てた。事が発覚した際、火車は哀願しようとしたが神武帝は面会を避けた。武明皇后と文襄(高澄)が取りなしたため仲禮は死罪となったが家族には及ばなかった。
- 嚴祖には他に子がなく、弟の敬祖の子紹元が跡を継いだ。紹元、小字は安都、太尉諮議・趙郡太守で没した。
- 仲禮の子の子翻、字は霊雀。若くして識見があり学問と文章を好んだ。斉の武平末年、司徒記室参軍を務めた。斉の滅亡に遭い周・隋を経ても仕官せず、滎陽三窟山に隠居した。傲然として自らを束縛せず、驢に乗り破れた鞍で外出し、その高名を慕う人々が集まったが、実際に会うと容貌は短躯で評判とは違ったという。しかし風格に優れ、貴賤を問わず皆敬服した。楊素がその名を聞き滎陽で対面し、深く礼遇した。朝廷にも推挙され度々召されたが応じず、家で終えた。子翻の二人の弟、子騰・天壽はともに隋に仕え、蒋州司馬・開府参軍を務め、雅素の評判を得た。
敬祖(嚴祖の弟)と元禮――経歴
- 嚴祖の弟敬祖、家を興し著作郎となったが、鄭儼が失脚した際に郷人に殺害された。
- 敬祖の子の元禮、字は文規。若くして学を好み文藻を愛し名望があった。斉の文襄が館客として招き、兼中書舎人・南主客郎中・太尉諮議参軍・長広樂陵二郡守を歴任し、文林館に待詔し太子中舎人となった。崔昂の後妻は元禮の姉であり、魏収もまた崔昂の妹の夫であった。崔昂が元禮の詩数篇を盧思道に示し「元禮の近作は魏収にも劣らない」と評すると、盧思道は「元禮が魏収より優れているとは思わないが、妹夫が妻の弟より劣っていることは分かる」と皮肉った。元禮は大象年間、始州別駕で没した。
述祖(敬祖の弟)――経歴
- 敬祖の弟述祖、字は恭文。若くして聡敏で文を好み品行が優れ、先達に称賛された。司徒左長史・尚書・侍中・太常卿・丞相右長史を歴任した。斉の天保年間、太子少保・左光禄大夫・儀同三司・兗州刺史を務めた。巡省使の穆子容は「古人は伯夷の風を聞けば貪夫も廉になり懦夫も志を立てると言ったが、今ここに鄭兗州でそれを見た」と嘆じた。のち光州刺史に遷った。
- かつて父が兗州にいた際、鄭城の南の小山に斎亭を建て石に記を刻んだ。述祖は当時九歳であった。刺史となり旧跡を尋ねると破損した石に「中嶽先生鄭道昭の白雲堂」の銘があり、述祖は嗚咽し群僚を感動させた。ある者が市で布を盗んだ際、その父が「なぜ我が君に背いたのか」と怒り自ら訴え出た。述祖はこれを特に許し、以来境内に盗みはなくなった。百姓は「大鄭公、小鄭公、相去ること五十載、風教なお同じきがごとし」と歌った。
- 琴をよくし自ら『龍吟十弄』を作り、夢の中で人が弾く琴を聞いて目覚めてから書き取ったものと言われ、当時絶妙とされた。行く先々で山池を好み松竹を交えて植え、豊かな料理で客をもてなし、迎える労を厭わなかった。若い頃郷里で単騎で外出した際、数百の騎兵が現れ皆下馬して「公がここにおられる」と拝礼したが、供の者には誰も見えなかったという不思議な逸話がある。まもなく召されて顕位を歴任した。病篤くなった際にこの話を自ら語り「私は老いた、一生の富貴は十分だ、清白の名を子孫に残せれば死に悔いはない」と語った。
- 前後に瀛・殷・冀・滄・趙・定の六州の事を行い、懐・兗・光三州刺史を正式に歴任し、さらに殷・懐・趙三州刺史を再び務め、いずれも恵政があった。天統元年(565年)に没し、享年八十一。開府・中書監・北豫州刺史を贈られ、諡は平簡公。
- 述祖の娘は趙郡王高睿の妃となり、述祖は常に座ったまま王の拝礼を受け、王が「座られよ」と言って初めて座した。妃が薨じた後、王は鄭道廕の娘を娶り、王は道廕の拝礼も座ったまま受けた。王が「座られよ」と言って初めて道廕は座した。王は道廕に「鄭尚書はこのような風徳の人物で、貴重な旧家でもあるので、あなたはこれに並ぶことはできない」と語った。
元德(述祖の子)――経歴
- 述祖の子の元德、多芸多才で琅邪太守を務めた。述祖の弟の遵祖は秘書郎、光州刺史を贈られた。遵祖の弟の順祖は太常丞で没した。
- (※霊太后の摂政以来、風紀が乱れ元叉の専横期には公然と奸淫が行われ、名家の婚姻・任官にも乱れが生じたことが原文に付記されている。)
胤伯(鄭羲の従子、次兄小白の子)――経歴
- 鄭羲の長兄の白驎、次兄の小白、その次の洞林、叔夜、連山は皆豪門を恃み無礼な振る舞いが多く、郷党に嫌われた。小白は中書博士を務めた。子の胤伯は当代の器幹があり孝文帝がその娘を嬪に納れ、東徐州刺史となり鴻臚少卿で没した。諡は簡。子の希俊は官に就く前に没した。子の道育は武定年間、開封太守。
幼儒(胤伯の子)――経歴
- 希俊の弟幼儒、学を好み謹厳で、丞相高陽王元雍が娘を娶らせた。司州別駕を務め当官の誉れがあった。没後、散騎常侍・兗州刺史を贈られ諡は肅。幼儒の死後、妻が淫蕩で凶暴な振る舞いに及んだ。従兄の伯猷はしばしば親しい者に「従弟の才は令徳と言えるものだったが、不幸にもこのような妻を得た。死してなお重ねて死ぬようなもので嘆かわしい」と語った。
- 幼儒の子の敬道・敬徳は共に西魏に仕えた。敬道は巴・開・新三州の刺史を歴任した。敬道の子の正則は周に仕え復州刺史となった。
平城(胤伯の弟)と伯猷――経歴
- 胤伯の弟平城、広陵王元羽が娘を妃に納れ、東平原太守を務めた。猜疑心が強く酒に溺れる性格で政治は貪残であった。没後、南青州刺史を贈られた。
- 長子の伯猷、博学で文才があり早くから知られた。司州秀才に挙げられ太学博士を歴任し殿中御史を領した。当時の名士と広く交遊した。明帝の釈奠の際、詔により記録を担当した。のち尚書外兵郎中となり起居注を掌り、軍功により陽武子の爵を賜った。節閔帝の初め、舅の縁により征東将軍・金紫光禄大夫を超授され国子祭酒を領した。護軍将軍に転じ武城子の爵を賜った。
伯猷――使者としての不評と地方官での不正
- 元象初年、本官のまま散騎常侍を兼ね梁への使者となった。それまでの使者に対し梁の武帝は侯王に射礼の際に宴で礼を尽くさせていたが、伯猷の場合は領軍将軍臧盾を接待役とし、これは格下げと見なされ議者に貶められた。使者から戻ると南青州刺史を除された。在官中は貪欲で、安豊王元延明の娘を妻としていたことも利用してもっぱら収奪に努め、賄賂が公然と行われ親戚にまで及んだ。戸口は逃散し集落は空虚となった。良民を反逆の疑いで誣陥し財産を没収して自らのものとし、男は誅殺し女は没収された。百姓の冤苦は四方に知れ渡り、御史の弾劾で死罪数十条に及んだが赦免され、これを機に廃されて用いられなくなった。斉の文襄は朝士を戒める際、常に伯猷と崔叔仁を反面教師として引き合いに出した。武定七年、太常卿を除された。没して驃騎大将軍・中書監・兗州刺史を贈られた。子の蘊は太子舎人・陽夏太守を務めた。
仲衡・輯之・懷孝――経歴
- 伯猷の弟の仲衡、武定年間、儀同開府中郎。
- 仲衡の弟の輯之、司徒諮議。斉の大寧年間、軍功により成皋男の爵を賜り、金紫光禄大夫・東済北太守・肥城戍主を務めた。没して度支尚書・北豫州刺史を贈られた。
- 輯之の弟の懷孝、司徒諮議。斉の大寧年間、仁州刺史。
敬叔(鄭羲の従子、三兄洞林の子)――経歴
- 洞林の子敬叔、滎陽邑中正・濮陽太守を務めたが、貪穢の罪で除名された。
- 敬叔の子の籍、字は承宗、徐州平東府長史。
- 籍の弟の瓊、字は祖珍、強幹の評があり范陽太守を務め名声があったが没した。孝昌年間、弟の儼が寵幸を得ていたため重ねて青州刺史を贈られた。瓊兄弟は仲睦まじく、妻たちも互いに親しみ有無を融通し合い、当時の人々に称賛された。子は道邕。