北史卷二十五 列傳第十三 尉元

尉元、字は苟仁、代の人。北魏の武将で、献文帝期に薛安都の徐州帰順に伴い彭城平定に功を挙げ、以後も要職を歴任した重臣(?–太和十七年頃)。老齢に至り孝文帝から三老の礼を受けるなど破格の厚遇を受けた。

年表(5件)
  • 天安元年薛安都の徐州帰順に伴い都督東道諸軍事として派遣され彭城に入る
  • 太和初年内都大官に召される
  • 太和三年淮陽王に進爵し歩挽に乗ることを許される
  • 太和十年庶姓王爵の降格により山陽郡公に封ぜられ、致仕を願い出る
  • 太和十七年重病となり間もなく薨去、景桓公の諡を贈られる

老臣の栄誉

  • 尉元、字は苟仁、代の人。代々豪族だった。父の目斤は勇略で当世に知られ中山太守。元は善射で称され羽林中郎となり匪懈(勤勉)で知られた。駕部給事中に遷り富城男を賜爵。和平中、北部尚書に遷り太昌侯に進爵。
  • 天安元年、薛安都が徐州を挙げて帰順すると、獻文帝は元を持節・都督東道諸軍事とし城陽公孔伯恭とともに赴かせた。宋の兗州刺史畢衆敬が東平太守章仇覔を遣わし帰款すると元はこれを容れ長駆した。宋は将の張永・沈攸之らを下邳に屯させた。安都は城を出て元に会い、元は朝旨により安都を徐州刺史に任じ、中書侍郎高閭・李璨らを安都とともに城へ還らせた。別に孔伯恭に内外の撫安を命じ、その後に元は彭城に入った。元は永が険要を占拠していることから安都と璨らに共に守らせ、自らは精鋭を率いて外で兵威を示し、呂梁を分撃し糧道を絶った。永はついに城を棄て夜逃げした。そこで高閭と張讜が東徐州刺史を対任し、李璨と畢衆敬が東兗州刺史を対任した。元は開府・都督・徐州刺史・淮陽公を拝した。太和初年、内都大官に召された。まもなく使持節・鎮西大将軍・開府・統万鎮都将として出て夷人の心を大いに得た。三年、淮陽王に進爵し、旧臣として歩挽(輿)に乗り朝廷で杖をつくことを許された。斉高帝の即位後、間諜を多く放って新附の人々を扇動させ不逞の徒が各地で蜂起したが、元の威名が夙に振るっていたことから諸軍を総率して討伐させると東南は清晏に帰し遠近が服した。侍中・都曹尚書に召され尚書令に遷り、司徒に進んだ。
  • 十年、庶姓王爵を降格する制により山陽郡公に封ぜられた。その年、しきりに老いを理由に致仕を願い出て詔で許された。元が朝廷に赴き老いを謝すと引見され、殿に昇らせ宴で労い玄冠・素服を賜った。詔にはさらに「前司徒山陽郡公尉元、前大鴻臚卿新泰伯游明根はともに元亨利貞、明允誠素、位は台宿に顕れ、老いて私邸に帰った。まさに始めを知り終わりを知る、希世の賢者というべきである。公は八十の齢をもって三老の重を担うべきであり、卿は七十の齢をもって五更に選ばれるべきである」とあり、明堂で三老・五更を養い、国老・庶老を階下で養った。孝文帝は三老に再拝し、自ら牲を割き爵を捧げて饗し、五更には粛拝の礼を行い、国老・庶老には位に応じて衣服を賜った。元は「天地が分かれ五行が則を施して以来、人が尊ぶところで孝順より重いものはありません。五孝六順は天下が先とするところ、陛下にはこれを重んじ四方を教化していただきたい。臣はすでに年老い、遠い趣意は究められませんが、心耳の及ぶところは誠を尽くさずにおれません」と述べた。帝は「孝順の道は天地の常道である。今、三老の明言を承り、心に銘記する」と語った。明根は「至孝は霊に通じ、至順は幽に感じます、ゆえに『詩経』に『孝悌の至りは神明に通じ四海を照らす』とあります。かくのごとく孝順の道は行き渡らぬところがありません。陛下にはこれを念じ黎庶を済っていただきたい。臣は年老い識見も朽ちておりますが、愚慮の及ぶところは尽くさずにおれません」と述べた。帝は「五更は三老を助け至范を語り、徳音を敷き展べた。まさに己に克ち礼に復り、これを来授として行うべし」と述べた。礼が終わると歩挽一乗を賜った。詔には「老を尊び更を尚ぶのは歴代聖人共通の道、年を敬い徳を敬うのは古今変わらぬ理である。朕は玄風には及ばず識見も睿則には暗いが、先の教えを仰ぎ承け先例に倣おうと努める。前司徒尉元、前鴻臚卿明根はともに沖徳をもって車を懸け(引退し)、懿量をもって老いを帰した、ゆえに老を三をもって尊び、更を五をもって事える。老・更は正式な官ではなく耄耋に禄はないが、事は高く重んじるべきゆえ特に殊遇を加える。三老には上公の禄を、五更には元卿の俸を給し、供食の味もその例に準ずるものとする」とあった。十七年、元が重病になると帝自ら見舞った。薨去、諡は景桓公、殊礼をもって葬られ、羽葆鼓吹・仮黄鉞・班剣四十人を給された。
  • 子の翊が爵を襲いだ。洛陽遷都に伴い山陽が畿内に含まれるため博陵郡公に改封。恆州刺史で卒し諡は順。