北史卷二十 列傳第八 安同

遼東の胡人。先祖は漢代に安息王の侍子として洛陽に入った。道武帝に仕え、姚興討伐の柴壁の役で献策し功を挙げ、明元帝の時には長孫嵩と共に訴訟を裁き、并・定二州の巡察も務めた。太武帝の時に卒し高陽王を追贈された。

年表(1件)
  • 登国初年道武帝が慕容垂に徴兵を求めた際、しばしば使者として派遣され意に適った

安同

  • 遼東の胡人。先祖の世高は漢の代、安息王の侍子として洛陽に入った。魏を経て晋に至り乱を避けて遼東に居した。父の屈は慕容暐に仕えたが、暐が苻堅に滅ぼされると屈の友人公孫眷の妹が苻氏の宮に没入したのち劉庫仁に賜わり嫁ぎ、庫仁に重んじられた。同は眷に従い商販していたが道武帝の済世の才を見て留まり奉侍した。性は端厳で聡明、長者の言を好んだ。登国初年、道武帝が慕容垂に徴兵を求めた際、同はしばしば使者として意に適い、外朝大人として和跋らと共に禁中に出入りし交代で庶事を典った。
  • 姚平討伐の柴壁の役に従い、姚興が全軍で平を救おうとした際、同は「汾水の東に蒙坑という三百余里の険路があるため姚興は必ず汾水の西から来る、高きに乗じ柴壁に迫れば内外の賊が呼応してしまう、汾水を截って南北に浮橋を築き西岸に囲みを築くべき」と献策し、これに従った結果、姚興は姚平の壊滅を見ながら救援できなかった。この功で北新侯を賜った。
  • 明元帝即位後、同は南平公長孫嵩と共に人の訴訟を裁くよう命じられた。また肥如侯賀護と共に節を持し并・定二州と山居の雑胡・丁零を巡察し詔を宣べて疾苦を問い、守宰の不法を糾すよう命じられ、郡国は粛然とした。同は井陘から東へ出て钜鹿に至り、大嶺山を修め天門関を通じさせようとし、宋子に築城して郡県を鎮静させたが、護は同が民心を得ることを妬み、築城が衆を集め大事を図るためだと誣告した。
  • 太武帝の監国に際し左輔となり、即位後は高陽公・冀青二州刺史に進んだ。同の長子屈は明元帝の時、太倉の事を典り官米数石を盗んで親を養おうとし、同は激怒して屈を処刑するよう求め自らも子を教育できなかった罪を訴えたが、帝はこれを嘉して許し、長期にわたり米を給する詔を出した。同は官にあって明察で校閲に長じ家法も整い世に称されたが、冀州で年老いてからは財貨を殖やし寺塔を大いに興し百姓を苦しめた。卒して高陽王を贈られ諡は恭惠。

原(屈の弟)

  • 性は矜厳で沈勇と智略に富んだ。明元帝の時獵郎となり雲中の軍事を監した。赫連屈丐が河西を犯した際、原は数十騎でこれを撃ち十余人を殺したが、帝は原が敵を軽んじ節度に背いたとして罪を加えつつも驍勇を知り将として任じ雲中に鎮させた。蠕蠕の侵犯を撃退した功で武原侯・魯兵将軍を賜った。
  • 太武帝即位後、駕部尚書を拝した。車駕の蠕蠕大檀討伐では五道に分かれた軍の一を担った。尚書左僕射に遷り河間公に進んだ。原は朝廷で党を組まなかったが寵を恃み驕り高ぶり多くの排斥を行った。子のために襄城公盧魯元の娘との婚姻を求めたが魯元が許さなかったため、原はその罪状を告発し事は長らく決着しなかった。原は勝てぬことを恐れ謀反を企て、事が漏れ誅殺された。原の兄弟は表向き倹約に見えながら内実は蓄財を重ね、誅殺後、その財は数万を数えたという。

頡(原の弟)

  • 弁慧で策略に富み最も父の風があった。明元帝初年、内侍長となり百寮を糾察して奸慝を暴き私情を挟まなかった。かつて父の陰事を告げたことがあり、帝はこれを忠と見て特に親寵した。
  • 宜城王奚斤が長安から赫連昌を安定まで追った際、頡は監軍侍御史であった。斤は馬の疫死と兵糧欠乏のため塁を築いて自守し、太僕丘堆らに人間から租を徴発させたが昌に敗れ、昌は勢いに乗り連日侵掠した。頡は「等しく死ぬなら戦って死のう、坐して虜になるべきではない」と述べ、斤がなおも馬の死を理由にためらう中、密かに尉眷らと謀り騎を選んで昌を迎撃、昌の馬が躓いたところを捕らえ京師へ送った。功により西平公を賜り丘堆に代わって諸軍を統摂した。
  • 赫連定が再び長安に入ろうとした際、頡は蒲阪に鎮しこれを拒んだ。宋の将到彦之が河南に侵し定を援けようとすると南岸を守り衡関にまで至った。太武帝の定討伐では頡は冠軍将軍として諸軍を督し彦之を撃破、渡河して洛陽を攻略し、さらに武牢を攻めこれを落とした。琅邪王司馬楚之と共に滑台を平定し、宋の将硃修之・李元徳、東郡太守申謨を捕らえた。凱旋後は爵が王に進み、卒して諡は襄。頡は将として士衆を統べるのに長け、卒去に際しては投降した宋の兵士も皆嘆惜したという。