北史卷二十 列傳第八 叔孫建

代の人。父の骨は昭成帝の母王太后に養われた。道武帝・明元帝・太武帝の三代に仕え、外朝大人・相州刺史・徐州刺史・平原鎮大将等を歴任し、宋との戦いで功を挙げ丹楊王に封ぜられた。沈着な智略で東西の征伐に謀主として活躍し、太延三年に薨じた(享年七十三、諡は襄)。

年表(3件)
  • 登国初年外朝大人として安同ら十三人と交代で庶事を典り軍国の謀に参与した
  • 太延三年薨じた。享年七十三、諡は襄、金陵に陪葬された
  • 泰常元年子の俊が卒した。享年二十八、明元帝は自ら哀悼に臨んだ

叔孫建

  • 代の人。父の骨は昭成帝の母王太后に養われ皇子と同列に扱われた。建は若くして智略で知られ、道武帝の賀蘭部滞在中は常に左右に従った。登国初年、外朝大人として安同ら十三人と交代で庶事を典り軍国の謀に参与、秦王觚の慕容垂への使者に随行し六年を経て還った。中領軍に累進し安平公を賜り并州刺史として出たが、公事により免ぜられ鄴城園を守った。
  • 明元帝即位後、前功を思い正直将軍・相州刺史となった。饑胡の劉武らが党を結んで叛くと、明元帝は建に前号・安平公を假し公孫表らを督させ討伐、万余級を斬り残党は沚水に投じて溺死し水が流れなくなったという。
  • 晋の劉裕が姚泓を伐った際、部将の王仲徳を前鋒として滑台に迫らせた。兗州刺史尉建は城を棄てて河を渡り退いたため仲徳が滑台に入り「魏の守将が城を棄てるとは」と宣言した。明元帝はこれを聞き建に渡河して威を示させ、尉建を斬りその屍を河に投じ、仲徳の軍に境を侵した理由を問い詰めさせた。
  • のち広阿鎮将に遷り威名が著しかった。さらに使持節・都督前鋒諸軍事・楚兵将軍・徐州刺史となり平原から済河し青・兗諸郡を平らげ、青州に東入して宋の刺史竺夔を東陽城に包囲した。宋の将檀道済・王仲徳の救援を受け拔けずに退いたが功により壽光公を賜った。汝陰公長孫道生と共に渡河南征し、仲徳らは清水から済水へ東走し青州へ退いた。太武帝は建の威名が宋に憚られていることから平原鎮大将とし丹楊王に封じ征南大将軍を加えた。
  • 幽・易以南の戍兵が河上に集められ洛陽・滑台への二道からの侵攻が計画された際、宋の将檀道済・王仲徳が滑台救援に向かうと、建は汝陰公道生と共にこれを拒み、軍を分けて挟撃し輕騎で前後を遮り穀草を焼いて糧道を絶った。道済の軍は飢え叛者が相次ぎ、これにより安頡らが滑台を落とすことができた。
  • 建は沈着で智略に富み東西の征伐で常に謀主となり、容貌は清整で「厳明」と称された。人倫を重んじ賢士を礼遇し、平原に十余年在って内外を懐柔し辺境で名声を得た。魏初の名将で建に及ぶ者は少なく、南朝もその威略を憚り青・兗は寇を絶った。太延三年、薨じ享年七十三、諡は襄、金陵に陪葬された。

俊(叔孫建の子)

  • 字は醜歸。若くして聡敏で十五歳から左右に侍り性は謹密で過失がなかった。弓馬に長け猟郎に転じた。道武帝崩御後、清河王紹が宮門を閉ざし明元帝を外に置いた際、紹は俊を拘束して己の援けとしようとしたが、俊は表向き紹に従いつつ内実は忠誠を保ち、元磨渾らと共に紹に明元帝への帰順を説いた。明元帝の左右には当時車路頭・王洛児らしかいなかったが俊らを得て大いに喜び爪牙とした。即位後は衛将軍・安成公に累進した。硃提王悅が刃を懐に禁中へ入り大逆を図った際、俊はその挙動の異常さに気づき懐から二本の匕首を得て悦を捕らえ殺した。明元帝は俊の功績を重んじ軍国の大計をすべて委ね、群官の上奏はまず俊の校審を経て奏聞された。
  • 性は平正柔和で喜怒を顔に出さず、忠篤で上に諂わず下を抑えなかった。外への詔勅も常に丁寧に伝え、上下からその人柄を賞賛された。泰常元年、卒した。享年二十八。明元帝は自ら哀悼に臨み慟哭し朝野は皆惜しんだ。司空・安成王を贈り諡は孝元、温明秘器・轀輬車を賜い衛士が導従し金陵に陪葬された。子の蒲が爵を襲いだ。以後、大功や寵臣の薨去に際する賻贈の礼はみな俊の故事に倣うこととされ、これを超える者はいなかった。
  • 俊の卒去に際し明元帝はその妻桓氏に「夫は生きては栄を共にし、死しては穴を同じくすべき、殉じたければ意のままにせよ」と告げ、桓氏は自ら縊れて合葬された。

鄰(俊の弟)

  • 俊が安城公となった後、父の爵を襲ぎ丹楊公に降された。尚書令・涼州鎮大将となり、鎮副将の奚牧と共に貴戚の子弟として財貨を貪り互いに糾発し合った末、坐して誅された。