北史卷二十 列傳第八 劉庫仁
字は沒根、独孤部の人で劉武の一族。母は平文皇帝の娘。昭成帝の宗女を娶り南部大人となった。建国三十九年、昭成帝急死・道武帝未立の混乱の中、苻堅により陵江将軍・関内侯とされ、鉄弗の衛辰と国衆を分掌した(河東を担当)。忠を尽くしたが、身を寄せていた慕容文らに攻め殺された。弟の眷が国事を継いだが子の顕に殺され、のち道武帝によって顕も討たれた。
劉庫仁
- 字は沒根。独孤部の人で劉武の一族。若くして豪侠で智略があった。母は平文皇帝の娘。昭成皇帝は宗女を庫仁に妻わせ南部大人とした。建国三十九年、昭成帝が急死し道武帝が未立の中、苻堅は庫仁を陵江将軍・関内侯とし衛辰と国衆を分掌させ(河西は衛辰、河東は庫仁)、獻明皇后は道武帝と衛・秦二王を連れて賀蘭部から身を寄せた。庫仁は忠を尽くし興廃に節を変えず、苻堅は衛辰を庫仁の下に置いたため衛辰は怒って叛き庫仁を攻めたが、庫仁は衛辰を討ち破った。苻堅は庫仁に妻の公孫氏を賜り厚く送った。
- 慕容垂が鄴で苻丕を包囲し、また将の平規が薊で王永を攻めた際、庫仁は妻兄の公孫希を援軍に送り規を大破した。庫仁がさらに大軍で丕を救おうとし雁門・上穀・代郡の兵を発して繁畤に次ったが、先んじて庫仁部に身を寄せていた慕容文らが夜、三郡の人を率いて庫仁を攻め殺し、その駿馬に乗って慕容垂に奔った。公孫希は丁零へ逃れた。
眷・顯(庫仁の弟と子の争い)
- 庫仁の弟眷が国事を継いだ。眷の第三子羅辰は機警で智謀があり、眷に「従兄の顕は残忍な人物、早く図るべき」と勧めたが眷は意に介さなかった。のち庫仁の子顕が果たして眷を殺して代わって立ち、さらに謀反を企てた。道武帝が即位すると馬邑で顕を討ち、彌澤まで追撃して大破した。顕は慕容驎に奔り、驎は中山に徙らせた。
羅辰
- 宣穆皇后の兄にあたる。顕が眷を殺した後、道武帝に奔った。顕は強勢を恃み謀反を繰り返したが、羅辰はその都度先んじて奏聞した。南部大人を拝し、中原平定の功で永安公を賜り、軍功により征東将軍・定州刺史に至った。卒して諡は敬。
殊暉・求引・爾頭・仁之(羅辰の子孫)
- 子の殊暉が爵を襲ぎ并州刺史となり卒した。子の求引は武衛将軍で卒し諡は貞。子の爾頭は魏昌・癭陶二県令となり钜鹿太守を贈られた。
- 子の仁之は字を山靜といい、志操があり書史に通じた。衛将軍・西兗州刺史を歴任し在州で名声を得た。武定二年に卒し衛大将軍・吏部尚書・青州刺史を贈られ諡は敬。
- 仁之は外見は長者らしく見せながら内実は狡猾で、賓客には粗末な床席と冷えた飯菜でもてなし衣服も粗末にするなど過度に倹しく振る舞い、時に応じて奸吏を打擲したり貧者を放免するなど大言を弄して評判を得た。性は酷虐で、晋陽で城壁工事を監督した際、些細な遅延で前殷州刺史裴瑗・并州刺史王綽を杖打ち、斉神武帝の譴責を受けた。文字にうるさく吏の誤字や訛りにまで鞭打ちを加える一方で文史を愛し人物を敬重し、斉帥馮元興と親しく交わり、その没後も長く遺族の面倒を見て世に評価された。
乞歸・嵩(仁之の伯・子)
- 仁之の伯父の乞帰は、真君中に中散大夫となった。寛和で人と争わず、奴が病臥中に盗みを働いた際も咎めなかった逸話が伝わる。獻文末年、主客尚書となり、孝文初年には東雍州刺史・永安侯を賜り卒した。
- 子の嵩は字を阿龍といい、人の急を助けることを好んだ。王仲興と共に平城から追放され洛陽に赴いた際、貧しい仲興を援助した。宣武の時、寵臣となった仲興の推挙で給事を除せられ、黄河の疏通による漕運のため龍門都将を授かったが功が上がらず流罪となった。元曄の僭立時、大鴻臚卿を授かった。子の桃湯は奉朝請で終わった。