文成五王――系譜
- 文成皇帝には七男があった。孝元皇后が獻文皇帝を、李夫人が安樂厲王長樂を、曹夫人が廣川莊王略を、沮渠夫人が齊郡順王簡を、乙夫人が河間孝王若を、悅夫人が安豐匡王猛を、玄夫人が韓哀王安平をそれぞれ生んだ。安平は早世し伝が立てられていない。
安樂王長樂
- 安樂王長樂は皇興四年に建昌王に封ぜられ、後に安樂王に改封された。性は重厚で献文帝に愛された。承明元年、太尉を拝し定州刺史として出た。衣冠を辱め法を守らぬことが多く、百姓が朝廷に訴え、孝文帝は杖三十の罰を科した。貪暴はいよいよ甚だしく、罪により京師に召還された。のちに謀反を図り事が発覚、家で死を賜り王礼で葬られ、諡は厲とされた。
詮(安樂王長樂の子)
- 字は搜賢。爵を襲ぎ、宣武初年に涼州刺史となったが在任中貪穢で政は賄賂によって成った。のち定州刺史に転じ、京兆王愉の反乱に際しては偽って国変を告げ、諸鎮の動揺を鎮めた。愉が信都へ逃げると詮は李平・高殖らと四面から攻め焼き、愉は城門を突破して脱出した。まもなく侍中を拝し、首告の功により尚書左僕射を授かった。薨じ、諡は武康。
鑒(詮の子)
- 字は長文。爵を襲ぎ相州刺史・北討大都督となり葛榮を討った。尚書左僕射・北道行台尚書令を兼ね、都督裴衍と共に信都を攻めた。庸才で天下多事を見て謀反し葛榮に降った。都督源子邕と裴衍に囲まれ斬られ首は洛陽へ送られ、詔により元氏へ改姓させられた。莊帝の初め、本族への復帰と王爵の回復、司空の追贈が許された。
斌之(鑒の弟)
- 字は子爽。性は険しく無行。鑒の反乱に連座して敗れ葛榮へ奔った。榮の滅亡後帰還。孝武帝の時、潁川郡王に封じられ腹心とされた。帝の関中入りに従い梁へ奔ったが、大統二年に長安へ戻り尚書令となった。薨じ太尉を贈られ、諡は武襄。
廣川王略
- 廣川王略は延興二年に封ぜられ中都大官となった。明敏で獄を裁くことは公平と称された。太和四年に薨じ、諡は莊。
諧(略の子)
- 字は仲和。爵を襲ぎ十九年に薨じた。薨去に際し孝文帝は大臣喪礼における「三臨」の等級(期親三臨・大功親再臨・小功緦麻一臨)の適用を巡り、崔光・宋弁・劉芳・李元凱・高聰らに諮問し、大斂の日に自ら臨んで哀を尽くすことと定めた。また東堂での哭礼の要否も併せて議論され、廣川王は諸王の子で年少であることから略式とされた。諧の大斂には帝自ら哭礼を行った。
- また廣川王妃が代京で薨じた際、有司の奏を受け、洛陽遷都後の埋葬地に関する詳細な規定(夫婦・親子の墓所を洛陽側に統一するか恆・代に残すか等、個々の事情に応じた選択を認める旨)を孝文帝が詔した。詔により諧には武衛將軍が追贈され諡は剛とされ、帝自ら葬送に臨んだ。子の靈道が爵を襲ぎ、卒して諡は悼王。
齊郡王簡
- 字は叔亮。太和五年に封ぜられ中都大官となった。母は沮渠牧犍の娘で、簡の容貌は外祖父に酷似していたという。のち内都大官、さらに太保に遷った。孝文帝は諸父の中で存命なのが簡のみであることから常に厚く礼遇した。性は酒を好み公私の事務を治めるのを得意とせず、妻の常氏(燕郡公喜の娘、文明太后より賜わる)が家事を取り仕切り酒量を抑えたが、盗みをはたらき婢を求めるまでに至り、遂に禁じきれなかった。薨去の際、病臥中の孝文帝は深く悲しみを表す詔を発した。諡は靈王、宣武の時に順と改諡された。
祐(簡の子)
- 字は伯授。母常氏は礼に依らず娶られたため妃として認められなかったが、宣武帝は母は子によって貴くなるとして特に斉国太妃を拝させた。祐は涇州刺史に至り、薨じて諡は敬。
河間王若
- 字は叔儒。封じられる前に薨じ、追封で河間、諡は孝とされた。京兆康王の子太安を後継としたが、太安は若の従弟にあたり相続の義に反するとして廃され、齊郡王の子琛が後を継いだ。
琛(河間王の後継)
- 字は曇寶。幼くして聡明で孝文帝に愛された。宣武の時定州刺史となったが、妃が宣武の従妹・高皇后の妹であることを恃み在州で貪婪を極めた。帰朝後、靈太后は「琛は定州で中山宮以外何でも持ち帰った」と詔して家に廃した。琛は明帝の学問始めに際し金字の『孝經』を献じ、また劉騰の養子となり巨万の金宝を贈って便宜を得、都官尚書を兼ねた。のち秦州刺史として出るも聚斂を極め民の怨嗟を招いた。東益・南秦二州の氐の反乱では行台・都督として鎮圧に赴くも大敗し、劉騰を恃んで恣にふるまい、中尉の弾劾に遭い赦により除名されたが王爵は復した。のち鮮于修礼討伐で敗れ免官、汾晉の胡・蜀討伐中に軍中で卒し王爵を追復された。
安豐王猛
- 字は季烈。太和五年封ぜられ侍中を加えられた。鎮都大將・營州刺史として出て寛仁雄毅、威略があり戎夷に畏愛された。州で薨じ太尉を贈られ諡は匡。
延明(猛の子)
- 宣武の時太中大夫を授かった。延昌初年の大飢饉には家財を割いて数十人の賓客とその家族を救済した。明帝初年、豫州刺史として善政を挙げ給事黄門侍郎に累進。博覧強記で文才があり、蔵書一万余巻を集めた。清廉で産業を営まず、中山王熙・弟の臨淮王彧らと共に文学の令望で知られたが、風流の点では熙・彧に及ばず、稽古の篤実さでは彼らを上回ったという。侍中に遷り崔光と共に服制を撰定、尚書右僕射を兼ね、博識により金石事を監することを命じられた。
- 元法僧の反乱では東道行台・徐州大都督として臨淮王彧・李憲らと討伐にあたった。梁の豫章王蕭綜が徐州に鎮すると、延明は旧地への在任経験から人望を得て懐柔し、蕭綜の降伏後は軍でこれに乗じて宿豫まで進み帰還した。都督・徐州刺史として頻年の兵乱で疲弊した民を招き安んじた。
- 莊帝の時大司馬を兼ね、元顥の洛陽入りでは顥の委託を受けたが、顥の敗死後は梁に奔りそこで没した。莊帝末に喪が還り、孝武初年に太保・王のままで文宣の諡を追贈された。
- 詩賦讚頌銘誄三百余篇を著し、『五經宗略』『詩禮別義』を撰し、『帝王世紀』『列仙傳』に注した。信都芳の算術の才を用いて『器準』九篇を集め信都芳が別に注を付け、共に世に行われた。孫の長儒が孝靜の時に祖の爵を襲いだ。
韓哀王安平
獻文六王――系譜
- 獻文皇帝には七男があった。思皇后が孝文皇帝を、封昭儀が咸陽王禧を、韓貴人が趙郡靈王幹・高陽文穆王雍を、孟椒房が廣陵慧王羽を、潘貴人が彭城武宣王勰を、高椒房が北海王詳をそれぞれ生んだ。
咸陽王禧
- 字は思永。太和九年に封ぜられ侍中・驃騎大將軍・中都大官を加えられた。文明太后は皇子皇孫のための学舎を別に置き師傅を選んだ。孝文帝は諸弟が三都の職を掌ることについて「未熟な者に錦を裁たせるのは授刀の責任」と誡め、文明太后も併せて戒めを加えた。冀州刺史として出た際は帝自ら南郊で餞し、済陽王鬱が枉法により死を賜った例を引いて禧を誡めた。のち禧の京師来朝に際し廷尉卿李沖を師とした。
- 王国舎人には八族と清修の家から選ぶべきところ禧が任城王の隷戸を用いたため帝の叱責を受けた。帝は諸王の婚姻が猥雑であることを憂え、禧には故潁川太守隴西李輔の娘、河南王幹には故中散代郡穆明樂の娘、廣陵王羽には驃騎諮議参軍榮陽鄭平城の娘、潁川王雍には故中書博士范陽盧神寶の娘、始平王勰には廷尉卿隴西李沖の娘、北海王詳には吏部郎中榮陽鄭懿の娘をそれぞれ娶らせた。
- 冀州人蘇僧瓘ら三千人が禧の善政を称え世襲の統治を請うたが、帝は「国土の区画は君主が定めるもので下から請うことではない」として却下、司州牧に任じた。元弟としての重みから食邑三千戸を与え、他の五王は各二千戸とした。
- 孝文帝が朝臣を引見し北語(鮮卑語)の使用を断ち正音(漢語)へ統一する詔を出した際、禧はこれに賛同した。三十歳以上は習慣により猶予するが、三十歳以下で朝廷に在る者は語音を旧に従うことを許さず、故意に違反すれば爵位官職を落とすとされた。帝が李沖の「言葉は帝が定めれば正となる」との論を厳しく戒め、婦人の服装の乱れについても留京の官を責めた際、禧は「陛下の聖徳は堯舜を超える」と応じ、帝は「臣下は面従せず諫言せよ」と舜・禹の故事を引いて誡めた。
- 禧はやがて太尉を長兼し、帝は「元弟であり長く鼎を調える任にあるのに空名に終わらせてはならない」と述べつつ、貪欲な性を知りながらも兄弟の情から優遇を続けた。のち侍中を加え正太尉となった。
- 孝文帝崩御に際し禧は遺詔で輔政を受けたが、宰輔筆頭でありながら密かに賄賂を受け、数十人の姫妾を抱えながらなお婚姻を重ねようとし、宣武帝はこれを嫌った。景明二年、帝は禧らを光極殿に召し親政を宣言、太保・領太尉に進めた。
- 帝の親政が進むと禧は不安を覚え、妃の兄・給事黄門侍郎李伯尚と共に謀反を企てた。城西の小宅で兵を挙げようとしたが人心が離反し決断できず、密約は漏れぬまま解散した。直寝の符承祖・薛魏孫が帝の暗殺を図ったが躊躇の末失敗、武興王楊集始の急報で帝は難を逃れた。禧は洪池の別荘に逃れ、斉帥劉小苟を遣わして偽りの田猟視察を装わせたが、小苟の様子から謀反が露見しかけた。
- その夜、追捕を受けた禧は防閣尹龍武のみを従えて洛水を渡り柏塢に至った。龍武と交わした謎かけの逸話(貪欲な狼になぞらえた謎)ののち禽われ、華林都亭に送られ厳重に監視された。渇きに苦しむ禧に侍中崔光は密かに酪漿を送った。かつて孝文帝が「星象に逆謀の兆しあり、必ず悪名のみを得よう」と予言していたことが的中したという。
- 臨終に際し禧は諸妹の公主らに愛妾のことを託そうとしたが、公主に「財貨を貪り今日の禍を招いたのに」と罵られ、私邸で死を賜った。諸子は属籍を絶たれ、娘たちにはわずかな資産・奴婢のみが与えられた。家財は高肇・趙修の両家に多く分与され、内外百官にも多寡差をつけて分配された。宮人の間では「哀れな咸陽王、何ゆえ過ちを犯したか」で始まる歌が作られ、江南にまで流れ北人を涙させたという。
通・翼・樹・曄・坦(禧の諸子)
- 禧には八子があった。長子の通(字は曇和)は河内太守陸琇の家に潜入していたが、禧の敗死を聞いた陸家に殺された。
- 通の弟の翼(字は仲和)はのち赦されて上書し父の埋葬を請うたが許されず、弟の昌・曄と共に梁へ奔った。正光年間、咸陽・京兆両王家の諸子は属籍への復帰を許され、禧の王爵と王礼での改葬が行われ、曄の弟坦が爵を襲いだ。
- 翼と昌は申屠氏の子、曄は李妃の子である。翼は容貌魁偉で梁の武帝に重んじられ咸陽王に封ぜられたが、嫡弟曄に譲ろうとして許されなかった。のち青・冀二州刺史として郁州に鎮したが、州を挙げて魏に帰順しようとして梁武帝に殺された。
- 翼の弟の樹(字は秀和)は将略を持ち宗正卿となったが、のち梁へ奔り魏郡王、後に鄴王に改封された。将として辺境を窺ったが、爾朱榮の乱に乗じ郢州刺史として梁の兵馬を借りて魏を侵した。孝武帝初年、御史中尉樊子鵠らの討伐を受け、城を明け渡し梁へ帰る約束(白馬の盟)をしたが疑わず備えを怠り、送還の途上で捕らえられ洛陽の景明寺に留め置かれた。故郷を慕い嵩山の雲を眺めては嘆息し、梁へ残した愛妾玉児に贈った金の指環の逸話が伝わる。朝廷はこれを知り賜死させた。杜徳・李昭にはその後怪異の話が伝わる。
- 孝靜の時、樹の子貞が建業から使者に随行して鄴に父を改葬し、梁武帝は太師・司徒・尚書令を追贈させた。貞はのち侯景の南奔に伴い咸陽王とされ魏主擁立に使われかけたが、間もなく侯景は反した。
- 曄(字は世茂)は梁で桑乾王に封ぜられ南で没した。
- 坦(一名穆、字は延和)は乱暴で洛橋で通行人を辱める行状があり、従叔の安豐王延明に「驢王」とあだ名され戒められた。禧誅殺後、兄弟が相次いで南奔したため坦が爵を継ぎ、敷城王に改封、のち咸陽郡王に復した。侍中に累進、莊帝からは学問の乏しさを指摘されつつも過分な昇進を許された経緯が語られる(禧死後の困窮を彭城王勰に養われた恩による)。孝武初年、兄樹の帰還を脅威とみて密かに除去を勧めたため樹に恨まれ、樹の死に際して哭礼にも臨まなかった。司徒・太尉・太傅を歴任し侍中・太師・録尚書事・宗師・司州牧を加えられたが、貪求は甚だしく売官鬻獄に及び、御史の弾劾で免官となった。のち特進として起用され冀州刺史として出るも聚斂を続け、狩猟に耽溺した逸話が伝わる。太傅に還任。斉の天保初年、爵は新豊県公に降され特進・開府儀同三司を除された。子の世寶が酒席での誹謗・図讖の話で死罪を問われたが宥免され、坦自身は北営州に配流されそこで死んだ。
趙郡王幹
- 字は思直。太和九年、河南王に封ぜられ大將軍となった。孝文帝は諸弟の中で幹が別道の軍を統べることを重んじ、司空穆亮・散騎常侍盧陽烏を師とするよう命じた。遷都後、趙郡王に改封され都督・冀州刺史として出た際、帝自ら郊外で餞し刑獄の慎重を諭した。李憑を長史、唐茂を司馬、盧尚之を諮議参軍として補佐させたが幹は諫言を聞かず、州が盗馬犯を法定より重く斬った際、尚書が新任ゆえに弾劾しなかったことも帝に咎められた。のち特進・司州牧に転じ、車駕の南討では都督中外諸軍事として鼓吹一部・甲士三百人を与えられた。
- 貪淫で政道に従わず、御史中尉李彪の弾劾に平然としていたため、幹は北海王詳と共に太子に随行させられ、密かに素行を調べられた末、帝自ら過ちを数え杖百を科し免官のうえ王のまま帰邸させた。薨じ諡は靈王、長陵に陪葬された。
謐(幹の子)
- 爵を襲いだが、幹の妃穆氏が謐母子の礼を失した振る舞いを訴え、帝はこれを宗正に付し正すよう命じた。謐は母の喪中に音楽・遊興にふけり御史中尉李平に弾劾されたが赦により復封、のち岐州刺史となった。
- 性は暴虐で、明帝初年、台使元延の検察を巡り隊主高保願を鞭打ち、近州の人夫を集めて城を閉ざし民を掠め理由なく六人を斬るなど城中を恐慌に陥れた。民衆が城門に迫ると謐は楼に登り梯を壊して立て籠もったが、靈太后が遣わした王竫の説得で解決した。州牧の任を解かれ大司農卿、のち幽州刺史に転じた。妃胡氏(靈太后の従女)を殴打し免官、のち都官尚書に復した。圓丘祭祀の際に妃と共に赤馬で鹵簿を犯した罪も靈太后に不問とされた。薨去に際し高陽王雍(幹の同母弟)が功績を上奏し、假侍中・司州牧、諡貞景を追贈された。
諶(謐の兄)
- 字は興伯。性は平和で都官尚書となった。爾朱榮の洛陽入りに際し莊帝へ晋陽遷都を勧める榮に対し諶は強く反対し、「河陰の惨劇の際も私は従ったが、天下のことは天下が論ずる、命を惜しまぬ」と述べて榮の怒りを買ったが、従弟世隆の諫めで事なきを得た。のち帝と榮が洛陽の壮麗さを見て遷都議を撤回する場面でも諶の諫言が功を奏したとされる。永安元年、尚書左僕射・魏郡王を拝した。本来は年長者として父靈王の後継たるべきところ、弟謐が世子とされていたため、莊帝の詔により趙郡王に復した。司空・太保・太尉・録尚書事を歴任、孝靜初年大司馬を拝し薨じ、諡は孝懿。特に才識はなく、位望に比して時人には軽んじられたという。
譚・讞(謐の弟たち)
- 譚は剛直で宗室に推重され秦州刺史で卒した。譚の弟讞は貪暴無礼で太中大夫・平郷男となったが、河陰の変で害された。
高陽王雍
- 字は思穆。若くして磊落な性格で、孝文帝は「その真率さゆえ晩成の器かもしれぬ」と評した。太和九年、潁川王に封ぜられ、聲誉を得ようとする周囲の勧めを「天子の子として何ゆえ名声を求めるか」と退けた。のち高陽に改封され相州刺史として出た際、帝は「己が正しければ令せずとも行われる」と誡めた。宣武初年冀州刺史に遷り、司州牧に入り帝から家人の礼で遇された。司空・太尉・侍中を歴任し太保、明帝初年には太極西柏堂での大政諮決を委ねられ、宗師、太傅・侍中・太尉公を加えられ国子学寺の造営とその居所を与えられた。
- 領軍于忠の専権に僕射郭祚が雍に処断を勧めたが、忠は矯詔で郭祚・裴植を殺し雍を王のまま罷免、朝の大事は黄門を介して諮った。忠が再度雍の殺害を図った際は侍中崔光の抵抗で止んだ。靈太后臨朝後、忠は冀州刺史に左遷され、雍は忠の罪を暴きつつ自らの不明を陳謝したが太后は忠の旧功を理由に不問とし、雍には侍中・太師・司州牧を授けた。
- 雍は王公以下の妾に織成錦繡・金玉珠璣の使用を、奴婢に綾錦纈の着用を禁ずるよう上表し違反者への鞭打ちを定めたが、長続きしなかった。歩挽での掖門出入りを許され録尚書事を加えられ、明帝の親政では大司馬門への車での出入り、丞相への進位を許され、齊郡順王簡の故事に倣う特別な礼遇も受けた。内外を総攬し元叉と共に庶政を決し、歳禄粟四万石、伎侍が房に満ちる栄華は昆弟の及ぶところではなかった。
- 元妃盧氏の死後、博陵崔顕の妹を妃に迎えようとしたが、家格を理由に難色を示され、延昌以後は疎んじて別房に幽閉、まもなく暴死し雍による毒殺の噂が立った。靈太后の女伎の下賜を巡っても専断が咎められた。識見浅く学問もなく、朝首の位にありながら時に推重されず、清河王懌の死後は元叉の専政のもとで天下の責を負う立場となった。孝莊初年、河陰の変で害され假黄鉞・相国、諡文穆を追贈された。
泰・斌(雍の子と孫)
- 嫡子の泰(字は昌)は時に令名があり太常卿となったが雍と同時に河陰で害され、太尉公・高陽王、諡文を追贈された。子の斌が爵を襲いだ。斌(字は善集)は侍中・尚書左僕射を歴任し、美しい容儀と寛和な性格で慎重に職務を果たし齊の文襄に愛された。天保初年、高陽県公に降爵され右光祿大夫を拝したが、二年、文宣の契丹討伐に従い白狼河に至った際、罪により死を賜った。
廣陵王羽
- 字は叔翻。太和九年封ぜられ侍中を加え外都大官となった。聡慧で獄訟の裁断に長じ、三都廃止後は大理として京師の獄訟を掌った。特進・尚書右僕射、太子太保・録尚書事にも至った。孝文帝の南討に際しては持節・六鎮安撫の任を受け、突騎を発して夷夏を安んじ、廷尉卿に還任。車駕の出征時は太尉元丕と共に留守を務め、帝は別れを惜しんで雁門まで随行させ、心情の証として如意を賜った。
- 十八年、廷尉を辞そうとしたが許されず、内外の考課制度の均等化を上奏したが帝は時期尚早としてこれを退けた。のち帝が朝堂で群臣を考課した際、上下二等を三品、中等を一品とする基準が示された。
- 帝は羽の功績が振るわず阿党の噂が朝に流れることを咎め、録尚書・廷尉を黜けて特進・太保のみとした。同時に尚書令陸睿・左僕射元贊・吏部尚書澄・長兼尚書于果・守尚書尉羽・守尚書盧陽烏・左丞公孫良・右丞乞伏義受・散騎常侍元景・諫議大夫李彦・中庶子游肇・中書舎人李平ら関係する諸官にも、それぞれの怠慢や連座を理由に禄の削減・降格・譴責が及んだ(游肇・李平のみ評価され中第とされた)。
- 孝文帝は陸睿・元贊らを前に「中原に居してこそ子孫は学を得られる」と語り、陸睿は金氏の漢朝出仕の故事を引いて応じ帝を喜ばせた。
- 帝が羽邸に幸した際、羽の裁判の明察を称え、咸陽王禧との年齢と明察を巡るやり取りも記される。車駕南伐に際し開府・青州刺史として出、海表の任を託され「酒と田猟を慎め」と誡められた。宣武即位後は司州牧に遷り、帝の親政開始に伴い司徒を授けられ、望んで司空も得た。しかし員外郎馮俊興の妻と私通し、俊興に襲われた傷が元で薨じた。宣武帝は自ら哀悼に臨み司徒を追贈、諡は慧。
恭・欣(羽の子)
- 子の恭が爵を襲ぎ、これが後の節閔帝である。
- 恭の兄の欣(字は慶樂)は粗放で鷹犬を好んだ。孝莊初年、沛郡王のち淮陽王に封ぜられ、孝武の時太師・開府、廣陵王に復封、太傅・司州牧、大司馬を歴任。孝武帝の入関に際し欣は長安への使者を送り太傅・録尚書事となり、中興朝の宗室で最も厚遇された。大宗師・大塚宰・中軍大都督を経て大統中、柱国大將軍・太傅となり、文帝から「三たび太傅、再び太師となるのは人臣未曾有」と称された。恭帝初年、大丞相に遷り薨じ、諡は容。産業経営を好み、都随一の名果を庭に集めたが、その引き立てた寮佐は世に卑しまれたという。
彭城王勰
- 字は彦和。幼くして非凡な資質を示した。生母の潘氏が没した年に献文帝も崩じたため、成長後に喪服の追服を願い出たが文明太后に許されず、みずから服喪三年に等しい禁欲の生活を送り孝文帝を感嘆させた。学問に敏く文才もあり、長く禁中に侍して軍国の大政に参与、車駕の南伐では宗子軍を率い宿衛した。中書令に転じ彭城王に改封された。
- 孝文帝との親密な逸話が多く伝わる――金墉城での鳳凰と梧桐竹を巡る問答、清徽堂の宴での桐葉を詠む詩会での帝による勰の詩の添削、上黨銅鞮山での即興詩の作、いずれも帝の勰への深い信頼と文才への評価を物語る。侍中辞任の上表は却下され、母潘氏には彭城国太妃が追贈された。中書監に進み、南征の中軍大将軍を仮された際は「陳思王(曹植)以上の厚遇を受けている」と辞退の意を示しつつ帝と親密な言葉を交わした。
- 帝が清徽堂で『喪服』を講じた際、御史中尉李彪は「天子が礼を講ずるのは古今未曾有」と称賛した。沔北への従軍では南征諸軍の都督・正中軍大将軍・開府となり、崔慧景・蕭衍を大破した戦の吉兆の逸話(大鳥の出現)や大雨の吉例も語られる。露布の起草も命じられ帝の文と見紛うほどの出来栄えであったという。
- 帝の不予に際し勰は内は医薬を、外は軍国を統括し、名医徐謇の招請、汝水濱での身代わりを願う祭壇の逸話が伝わる。快復後も終始付き添い、車駕還京後の百僚での飲至策勲の礼では群将随一の功とされ、司徒・太子太傅に任じられた。
- 陳顯達の侵入で帝が再び親征する際、勰は都督中外諸軍事として六師を統べる重責を受け、帝の臨終に際しては霍光の故事を引いて後事を託されるも、周公旦や成王の疑心の故事を引いて固辞を願い出、帝もこれを聞き入れ手詔で宣武帝に「勰の辞蟬舍冕(引退の望み)を叶えよ」と遺した。
- 帝の崩御は秘され、任城王澄らと共に安車で遺骸を運び、宛城で斂を行い還京、宣武帝に遺勅を授けた。咸陽王禧の疑念に対し勰は「危険を顧みぬ忠誠」を弁明した。孝文帝への諡号「孝文皇帝」・廟号高祖・陵号長陵は勰の上奏によって定められた。
- 帝は宰輔として勰を留めようとしたが勰は再三固辞し、定州刺史として出た。まもなく京師に呼び戻され、裴叔業の壽春帰属に際し南征諸軍事として王肅と共に迎接、司徒を再授、揚州刺史・大司馬を兼ねて陳伯之・胡松を破り淮南を平定した。捕虜の斉の官吏を厚遇し帰還させた逸話も遠人の心を得たとされる。
- 帰京後も大司馬・司徒等の辞退を重ね、咸陽王禧の専横や北海王詳の讒言(勰が人望を集めすぎ久しく宰輔にあるべきでない)を受けて、帝は于烈らを遣わし禧・勰・詳を召し、勰の隠退の願いを聞き入れて邸を造らせた。勰は『蠅賦』を作って心情を表し、のち太師を固辞するも帝の懇請でやむなく受けた。京兆・広平両王が不法に幽閉された際、勰は諫めたが帝に容れられなかった。律令の議定にも高陽王雍らと参画し、『要略』三十巻を撰した。
- 舅の潘僧固を長楽太守に推挙したが京兆王愉の逆謀に連座しかけ、尚書令高肇の讒言(勰が愉と通じ蛮賊を招いたとする誣告)を受けた。侍中元暉は誣告に加担せず帝に真相を伝えたが、帝は最終的に肇の証言(勰の属官魏偃・高祖珍の偽証)を信じた。
- 永平元年九月、勰は高陽王雍・廣陽王嘉・清河王懌・廣平王懷・高肇らと共に宮中に召され、妃の出産を控え不安を抱えつつ登車。宴で酔いつぶれた後、元珍が毒酒を持って現れ、勰は「至尊に一目会えれば恨みはない」と言うも許されず、武士に刀で傷つけられたのち毒酒を強いられ絶命した。屍は密かに邸へ運ばれ病死と偽装されたが、妃李氏(司空沖の娘)は高肇の非道を天に訴え、後に肇が誅殺された際、その場所が奇しくも勰が害された邸であったことから因果応報と語られた。帝は東堂で挙哀し、都の僧俗も哀悼した。假黄鉞・使持節・都督中外諸軍事・司徒公・太師を追贈、諡は劉芳の議により武宣王とされた。莊帝即位後は文穆皇帝と追号され廟に祀られ肅祖と称されたが、節閔帝の時に神主は除かれた。嫡子の劭が爵を襲いだ。
劭・韶(勰の子孫)
- 劭は字を子訥といい武芸と気節を持った。明帝初年、梁の侵攻に備え粟九千斛・絹六百匹・国吏二百人の供出を申し出たが靈太后は不許可とした。青州刺史を歴任、孝昌末年の靈太后の失徳と天下の動乱を機に異志を抱いたが安豐王延明の上奏により御史中尉に召された。莊帝即位に伴い無上王と尊されるも河陰で害され、諡は孝宣皇帝、妻李氏は文恭皇后とされた。
- 子の韶は字を世胄といい学を好み容儀に優れた。爾朱榮の洛陽侵攻に際し父劭は榮陽太守鄭仲明に韶を託したが、仲明が城人に殺され乱の中で乳母と離散、仲明の甥僧副に守られる中で客に危害を加えられかけたが免れ、老女程氏に匿われたのち莊帝に見出され彭城王を襲封した。斉神武帝が孝武帝の后を韶に配した際、魏室の宝物(互いに嵌まって取り出せない二つの玉鉢や玉で縫われた瑪瑙の榼、いずれも西域の作という)が伴われた。太尉・侍中・録尚書事・司州牧・特進・太傅を歴任。
- 斉天保元年、爵は県公に降された。温厚な性格で高氏の婿として時に寵を得、謙退の徳と儒学好み、林泉を愛し邸宅も華美にせずと称された。文宣帝から鬢須を剃られ化粧を施され婦人服を着せられ「彭城を我が嬪御とする」と侮辱され、元氏の弱体を女性に喩えられた。
- 天保十年、太史の「除旧布新」の奏に対し文宣帝が「漢の光武帝が中興できたのは劉氏を誅し尽くさなかったため」との答えを韶から引き出し、これを口実に諸元氏の粛清が行われた。五月には元世哲・景武ら二十五家が誅され十九家が禁錮とされ、韶自身は京畿の地牢に幽閉され食を断たれ衣袖を食べて死んだ。七月には昭成帝以来の元氏がほぼ根絶やしにされ、父祖が王であった者、身分の高い者、兄弟の壮健な者まで東市で斬られ、嬰児は槊で受け止められて殺された。前後の死者は七百二十一人に及び、屍はすべて漳水に投げ込まれ、魚を捌くと爪や骨が出るため都では長く魚を食べなかったという。世哲の従弟黄頭は他の囚人と共に金鳳台から紙鳶で飛ばされる処刑を受け、独り紫陌まで到達しながら墜落し、御史畢義雲により餓死させられた。
北海王詳
- 字は季豫。容姿に優れ立ち振る舞いも巧みだった。太和九年封ぜられ侍中を加えられた。孝文帝の代都巡幸に彭城王勰と共に随従し、文成帝射銘の地での競射で唯一的に矢を届かせ帝を喜ばせ、その様子は銘に刻まれた。車駕南伐では中領軍を行い留守を務め、孝文帝の臨終に際し司空・輔政を託された。
- 宣武帝の親政では中大将軍・録尚書事に任じられ、咸陽王禧の謀反に際し辞任を願うも許されず、太尉・領司徒・侍中・録尚書事を歴任した。拝命の夜、庭の桐の大樹が暴風で根こそぎ倒れ元の位置に立ったという怪異が伝わり、彭城王勰の司徒職を奪う懸念から自ら大将軍を望んだ経緯があり、識者は不吉を予感したという。
- 季父としての寵栄を恃み貪欲な公私の商いに耽り、東掖門外での邸宅拡張に際しては喪柩のある家の埋葬猶予すら認めず、母高太妃も威虐に加担して怨嗟を買った。妃劉氏(宋王劉昶の娘)を疎み寵妾范氏を偏愛、また安定王燮の妃高氏(茹皓の妻の姉)と密通した。宣武帝は華林圓の別邸で詳をしばしば訪れ、高太妃を「阿母」と呼び家人同然に遇した逸話も残る。
- のち高肇の讒言(詳が茹皓らと謀反)により、中尉崔亮が貪淫と茹皓・劉胄・常季賢・陳掃靜らの専恣を糾弾、詳は南台に禁ぜられ邸は武賁百人に囲まれた。母高太妃の号泣に対し詳は「受け取った財物は事実、それが罪なら仕方ない」と述べた。茹皓らは賜死され、高陽王雍ら五王による審議の末、詳は華林館へ単車で移され庶人に落とされ、思善堂という名の坊館に終身幽閉されることになった。家奴が密かに脱走を企てたことが露見し、帝は密かに詳の殺害を命じ、母妻が不在の夜に奴婢の手で死んだ。
- 母高太妃は詳が高麗婢と密通したことを知り激怒し杖で打ち、常に綿を包んで軽くしていた杖から綿を除いて創が膿むまで打たせ、妃劉氏にも数十の杖を科したが、劉氏は黙ってこれを受けた。詳の罪状は死の日まで定まらず遠近の人々は怪しんだという。永平元年十月、王爵と平王の諡が追復された。子の顥が爵を襲いだ。
顥・頊(詳の子)
- 顥は字を子明といい壮気があった。徐州刺史となるも御史の弾劾で除名、のち賊帥宿勤明遠・叱幹騏驎らの豳・華等州侵攻に際し王爵を復され左僕射・西道行台として討伐、囲みを解いた。蕭寶夤らの平涼での大敗後、顥も京師へ退いた。
- 武泰初年、相州刺史として葛榮に対抗。爾朱榮の洛陽侵攻と莊帝擁立の際は太傅を授かるも、葛榮の南侵と爾朱氏の暴虐の間で去就に迷い、事が成らぬまま子の冠受と共に梁へ奔った。梁武帝は顥を魏主に立て、永安二年四月、梁国城南で即位式(孝基元年)を行い北上、莊帝の遣わした濟陰王暉業を破って洛陽に入り建武元年と改元した。
- 顥はわずかな兵で連戦連勝し都邑を得たことで驕り、賓客・近習を重用して政を乱し、南兵の略奪と酷しい倹約令で民心を失った。莊帝と爾朱榮の反攻を受け河梁で敗れ、子の冠受は捕らえられ、顥自身は轘轅から臨潁に逃れる途上、県卒に斬られた。
- 顥の洛陽入城時の暴風での落馬の逸話や、恒農楊曇華・元昭業による更始帝の故事を引いた不吉の予言も伝わる。孝武初年、太師・大司馬を追贈された。
- 弟の頊は莊帝初年、東海王・中書監となったが、顥の入洛の成否が定まらぬうちから得意げに振る舞い笑われた。顥の敗死後は潜伏したが捕らえられ都市で斬られ、孝武初年、太尉を追贈された。
孝文六王――系譜
- 孝文帝には七男があった。林廃后が廃太子恂を、文昭皇后が宣武皇帝・廣平武穆王懷を、袁貴人が京兆王愉を、羅夫人が清河文獻王懌・汝南王悅を、鄭充華が皇子恌をそれぞれ生んだが、恌は封を受けぬまま早世した。
廢太子恂
- 字は元道。生まれてすぐ母を失い文明太后に養育された。四歳で太后により恂・元道と命名され大赦が行われた。太和十七年七月癸丑、皇太子に立てられ、廟での加冠の際、孝文帝は「元道」の字義に沿った訓戒を与えた。二十年、字を宣道と改めた。遷都に際し代都への赴任も命じられ、太師の喪への対応や母の墓参りなど細かな指示を与えられた。以後、帝の巡幸のたびに恂は留守として廟祀を掌った。
- 恂は学問を好まず体格も肥大で、洛陽の暑さを嫌い北方への郷愁を抱き続けた。中庶子高道悅の諫言を疎んじ、孝文帝の崧嶽巡幸中に牧馬を召して代へ逃れようとし、禁中で道悅を自ら刃にかけて殺した。領軍元徽が門を固めて事を鎮めた。帝はこれを聞いて驚愕しつつ表向きは事を秘して汴口から引き返し、咸陽王禧らと共に恂を杖罰し、百余人を代わる代わる杖打たせるほどの重罰を科した後、城西の別館に幽閉した。清徽堂での議論の末、廃嫡が決せられ「大義滅親、この子を除かねば国家の大禍となる」との言葉が伝わる。庶人に落とされ河陽に置かれ最低限の衣食のみが与えられた。
- 帝が代・長安へ行幸した際、中尉李彪が恂の再度の謀逆企図を密告し、帝は中書侍郎邢巒と咸陽王禧を遣わして河陽で恂に死を賜った。時に十五、六歳。粗末な棺で常服のまま河陽城に埋葬された。二十二年冬、御史台の令史龍文観が法により死罪となる際、恂が過去に手書きで自ら弁明していたのに中尉李彪・侍御史賈尚がこれを握りつぶしていたと告発し、賈は廷尉に繋がれ李彪は免官のうえ召還されたが赦により追及は打ち切られ、賈尚は獄中で急死した。
- はじめ帝は恂に司徒馮誕の長女を娶わせようとしたが年少のため待ち、彭城劉長文・榮陽鄭懿の娘を左右孺子とした。帝は郭祚・崔光・宋弁に恂の日課(経書と閨房を交互に)を諮ったが、崔光の「色を戒めるべき年齢」との諫言により昼間の入内は禁じられた。恂に子はなかった。
京兆王愉
- 字は宣德。太和二十一年封ぜられ都督・徐州刺史を拝した。彭城王中の宣府長史盧陽烏を長史とし州事を委ねた。宣武初年、護軍將軍となり、帝の弟愛から諸弟と共に宮中に出入りし家人同然に扱われた。中書監に遷り順皇后の妹を妃に迎えたが疎まれた。徐州で娶った妾李氏(本姓は楊、東郡の人)は美声で寵愛を得て子の寶月を生んだ。順皇后は李氏を宮に召して虐待し、強いて尼とし子は妃に養わせたが、後父の于勁の勧めで後宮を広げるべしとの上表を機に李氏は愉に戻され、寵愛は以前にも増した。
- 文章を好み詩賦を著し、宋世景・李神俊・祖瑩・邢晏・王遵業・張始均らの才人を招いて宴を開き、四方の儒者・賓客を厚遇して穀帛を惜しまず施した。仏道を篤く信じ費用は常に不足がちであった。弟の廣平王懷と奢侈を競い法を犯すことも多く、宣武帝は禁中で愉を糾問し杖五十を科したのち冀州刺史として出した。
- 愉は自らの官職が二人の弟に劣ることを恥じ、寵妾がたびたび辱められたことも重なり内外で疎外感を深め、在州のうちに謀反を企てた。長史羊靈引・司馬李遵を殺し、清河王の密書と称して高肇が主上殺害を謀っていると偽り、信都の南に壇を築いて即位、建平元年と改元し李氏を皇后に立てた。宣武帝は尚書李平を遣わして討伐させ、愉は敗れて籠城したのち、李氏と四子と共に脱出を図るも捕らえられた。京師への護送中も李氏の手を離さず、拘束の身でも変わらぬ様子であったが、野王で「主上の慈悲深さに殺されずとも、どの面下げて至尊にまみえるか」と泣き崩れ絶命した(高肇による暗殺説もある)。享年二十一。小さな棺で葬られた。諸子は洛陽で赦され、靈太后は四子の属籍復帰と愉への臨洮王追封を命じた。寶月は父母を改葬し三年の喪に服した。
清河王懌
- 字は宣仁。幼くして聡明で容姿も美しく孝文帝に愛された。彭城王勰は「風神と徳性を兼ね備え、天が年を貸せば二南(周南・召南の徳)に継ぐ者」と評した。経史に通じ文才があり弁舌にも優れ、寛仁で喜怒を顔に出さなかった。太和二十一年封ぜられた。
- 宣武初年、侍中を拝し尚書僕射に転じ、断案に長じて声望を得た。司空高肇は帝の外戚として権勢を振るい、良宗の排除を図って懌や京兆王愉らを讒言、愉の反乱後は彭城王勰も誣告により殺害された。懌も禍を恐れる中、高肇が私恩を得ようと囚徒を検分した際、懌は酒宴の席で「天子の兄弟は幾人もいないのに、なぜ君の権勢は衰えぬのか」「王莽も渭陽の外戚の縁で漢を簒奪した、いま君の心の内が透けて見える、また乱の階を成しはしないか」と直言し、宣武帝にも「器と名は人に貸すべきでない」との諫言を重ねたが帝は笑って応じなかった。
- 孝明帝の熙平初年、太尉に遷り門下の事を裁量し経義の注釈も掌った。呪水で病を治すと称した沙門惠憐に靈太后が衣食を給し治療の場を設けたことに対し、懌は張角の黄巾の乱の先例を引いて上表し諫めた。
- 靈太后は懌を孝明帝の懿叔として朝政を委ね周公・霍光になぞらえた。懌は力を尽くして輔弼し天下を己の任とした。太后の妹婿である領軍元叉が驕り高ぶるのを法により抑えたため元叉に憎まれ、その一党の宋准が謀反を誣告したが、詰問の末に無実が明らかとなり釈放された。懌はこの誣告に耐えつつ古の忠烈の士を集めて『顯忠録』二十巻を著した。
- 正光元年七月、元叉と劉騰が孝明帝を顕陽殿に迫り靈太后を後宮に幽閉した際、懌も門下省に囚われ罪を着せられて害された。享年三十四。朝野は知ると知らぬとにかかわらず悲しみ、夷人の中には帰国後に自ら顔を傷つけて哀悼する者が数百人にのぼったという。
廣平王懷
- 諸王の中でも特に華林別館に召し入れられ出入りを禁じられていた(原文は文脈が乱れているが、四門博士董征に経伝を学ばせたとある)。孝武帝の崩御後にようやく帰邸を許された。
汝南王悅
- 仏典・書史を好んだが性格は常軌を逸し予測しがたかった。妃の閭氏(東海公の娘)との間に一子を生んだが礼遇されなかった。左道の崔延夏と交わり松や術などの仙薬を服用し、城外の民家に泊まっては採薬に出かけた。酒肉と穀類を絶ち麦飯のみを食し、房事も絶って男色を好むようになり、妃妾を鞭打つなど婢のように扱った。悅の外出中、妃は別邸に置かれ靈太后が事情を調べさせたところ、妃の杖傷がまだ癒えていないことが判明し、太后は諸親王・三蕃に妃が百日以上病臥した場合は必ず奏聞するよう令を下し、なお鞭打つ者は封位を削ると定めた。
- 清河王懌が元叉に害された際、悅は復讐の意を全く示さず桑落酒を献じて機嫌を取り、元叉は喜んで悅を侍中・太尉に任じた。拝命の日、懌の子亶に懌の遺品を求め、意に添わぬと亶を杖百打たせ、喪に服して衰弱していた亶は死にかけた末、悅自ら「アイヤ」と呼びかけ介抱する二面性を見せた。市門に大きな鍘台を設け盗人の手を斬ろうとした逸話もあり、人々はその予測不能さを恐れて一時盗みが減ったという。
- 爾朱榮の挙兵に際し悅は梁へ奔り、梁武帝に厚遇された。莊帝崩御後、梁に擁立され魏主を称し(更興と改元)、節閔初年には境上に留め置かれ侵略の口実とされた。斉神武帝は爾朱氏誅殺後、悅が孝文帝の子であることから帝位を継がせようとしたが、悅の狂気じみた行動のため沙汰止みとなった。孝武初年、大司馬・開府を授かった。孝武帝は廣陵王(顥)の徳望を憚ったのと同様、悅が帝位に近いことを内心畏れ前後して害した。假黄鉞・太師・司州牧、大司馬・王のまま、諡は文宣とされた。
穎(悅の子)
皇子恌
- 七歳で景明元年に薨じ、華林棗間堂で斂を行い文昭皇后陵の東に葬られた。のち文昭皇后陵の墳塋拡張に伴い北崗へ改葬された。
史論
- 文成五王の中では安豐王延明が特に令名を得た。学業・雅談に優れながらも永安年間には武運に恵まれ、結局は逃亡の末に落命した、いずれも運命であろう。
- 献文帝の諸子はいずれも太和の教化を受けたが、咸陽王禧は逆節に終わり、廣陵王羽は桑中(密通)で身を滅ぼした――人として礼を失えば速やかに滅びるほかない。高陽王雍は器量に乏しく重責を担いながら失敗し、その咎を自ら招いた。彭城王武宣(勰)は孝を質とし忠義の行いを重ね、安きにあっても危うきを忘れぬ操と、送終の礼、周公旦・霍光の誠を兼ね備えていたが、功が高まるにつれ主君を震撼させ、讒言ひとつで生を全うできなかった。周成王・漢の昭帝のような明君にはついに巡り合えなかったのだ。北海王詳は兄弟の情義に暗く奢侈淫乱の末に身を滅ぼし、青蠅(讒言)の禍に遭ったとはいえ自ら招いた咎でもあった。北海王の子顥は容易く天下を得たかに見えたがまたたく間に滅んだ――守る術がなかったのか、天が覆したのか。
- 廃太子恂の険しく粗暴な性は幼少から続き、ついに廃黜され天寿を全うできなかった。これは丹朱・商均の性であり堯・舜ですら教化しえなかったところである。京兆王愉は早くに令聞を得ながら晩節を汚し、悪習に染まる恐ろしさを示した。清河王懌は識見と才誉をもって近親の輔弼となったが、時が乱れる中で早くに骨肉の逼迫に遭い、運が傾く中で権勢の手にかかった――悲しいことである。廣平王懷は幼くして驕り、汝南王悅は狂逸な性であった――いずれもその始終を論ずるに足りない。悅が天下の人々に見捨てられ猜疑の禍に遭ったのは、帝位に近い血筋であったがゆえの災いであろう。
- 魏が西遷した後、権は周室に移った。周文帝(宇文泰)は生来寛仁で猜疑に乏しく、元氏一族はことごとく保全され内外の要職に任じられた。孝閔帝の即位も前代の遺志を継ぎ、明帝・武帝もまた先志に従った。天が魏の徳を厭い天命が遷ったとはいえ、その枝葉は栄え、前代に勝るものがあったといえよう。