北史卷十八 列傳第六 景穆十二王下

任城王雲とその子孫

  • 任城王雲、和平五年(464年)封。聡慧で五歳の時、景穆帝崩御に号泣し太武帝を感嘆させた。獻文帝の時、都督中外諸軍事・中都大官として訴訟裁定に定評。獻文帝が京兆王子推への禅位を望んだ際、群臣が言い出せぬ中、雲が「父子相伝が魏の伝統」と進言、太尉源賀も賛同、東陽王丕らも太子の若さを理由に反対、結局孝文帝に伝位した。
  • 蠕蠕討伐で中軍大都督として献策(武頭盾の活用)し敕勒を懐柔して大破。仇池氐の反乱も討平。徐州刺史として太妃の喪で解任を願うも許されず、悲しみのあまり病を得てようやく許可。撫接に優れ贈物を一切受けなかった。
  • 冀州刺史として州人が絹五尺・粟五升を輸して恩に報いる願いを起こし孝文帝が天下に布告。長安鎮都大將・雍州刺史として廉謹に自ら律し、豪強を挫き劫盗を鎮めた。太和五年(481年)州で薨去、遺言で薄葬とし諡は康、雲中の金陵に陪葬。
  • 長子澄、字は道鏡。学を好み容姿美しく弁舌に優れた。父の喪に孝を尽くし襲封、征北大將軍。氐羌の反乱で征南大將軍・梁州刺史として懐柔に成功。文明太后・孝文帝に「宗室の領袖」と将来を嘱望された。開府・徐州刺史として声望あり、孝文帝との鄭子産・叔向論争で「今の政道に合う」と答え帝に「魏の子産」と評された。中書令・尚書令。齊使庾蓽に文才を称賛された。
  • 宗室の宴で七言連韻の詩を孝文帝と唱和。孝文帝の南遷計画において、明堂での卜占「革」の結果を澄が「臣下として吉兆ではない」と諫めたが、帝は激しく叱責。後に密かに澄に真意(洛陽遷都の計画)を明かし、澄は賛同、帝は「任城は我が子房」と称した。代都に赴き遷都の詔を旧臣に説き伏せ、帝から「任城なしにこの事業はならなかった」と称賛された。吏部尚書として冗官の整理を公平に行い恨みを買わなかった。
  • 洪池での龍舟遊覧で嵇紹の夢を語り合った逸話、齊明帝簒奪後の南征方針を巡る議論(澄・李沖らは反対、帝は南征を決行)、清徽堂・流化渠・洗煩池・観德殿・凝閑堂を巡る帝との問答(『詩経』の引用を交えた風雅な会話)が伝わる。
  • 恆州刺史穆泰の謀反に際し、澄が節・銅武竹使符を授かり単身で急行、謀反を鎮定(陸睿・元隆ら百余人を捕縛)。帝は「任城は社稷の臣、皋陶にも劣らぬ」と絶賛。無実の者を一人も出さず名裁きと評された。
  • 南伐に留守として国秩の半分を軍資に献上。「一言可以喪邦」の逸話(婦人の服装を巡る問答)、尚書での職掌問答(「私は署事しているだけ」との謙遜答弁)等を経て尚書左僕射。孝文帝崩御に際し顧命を受ける。
  • 宣武帝の初め、降人の讒言(王肅謀反)を信じ肅を弾劾したことで擅権の咎を受け免官。開府・揚州刺史として孫叔敖の墓を修め蔣子文の廟を毀し、宗学の再興を上表。蕭寶夤・陳伯之の二鎮を総督したが淮水の氾濫で撤退、四千余の兵を失い開府を奪われ三階降格。
  • 定州刺史として横暴な調役を減じ、賞罰の法を明らかにし、公有地を貧民に分配、母の喪に篤く服した。太子太保。
  • 高肇の専権下、間構を恐れ酔いに紛れて韜晦。宣武帝の急死に際し尚書令として推され人心を得た。司空、侍中、尚書令。『皇誥宗制』『訓詁』を上表し、利国済人の十条(度量衡統一・学校興隆・興滅継絶・徭役軽減・黜陟の法・逃亡代輸の緩和・辺兵検察・工商世業の免税・三長の合理化・辺方兵の交代制)を提言、議論を呼んだ。
  • 四中郎将の強化策、辺境防衛の重鎮化を求めたが容れられず、後に賊が旧都を犯し山陵を脅かす事態となり澄の予見が的中した。都城修築の財源案、清河王懌との議論、司州牧高陽王雍の拷殺事件への糾弾、墾田授受制度八条の上奏、嚈噠・波斯からの贈馬の返上など、実務家としての活躍が続いた。
  • 東平王匡の考課簿検査要求に対し「風聞による弾劾が本旨、遡及的な全記録検査は行き過ぎ」と諫め、靈太后に容れられた。司徒公、侍中・尚書令を兼ねた。
  • 神龜元年(518年)、女侍中に男性官の貂蟬飾りを加える詔に対し「陰陽の秩序を乱す」と諫め、帝は従った。靈太后の仏事濫費・宦官優遇を諫めたが容れられず、それでも常に政務に参与し匡輔に努めた。
  • 神龜二年(519年)薨去、假黄鉞・使持節・都督中外諸軍事・太傅・太尉公を贈られ九錫を備え、諡は文宣王。靈太后自ら郊外まで見送り哀哭、当時「哀栄の極み」と評された。第四子彝が襲爵。
  • 彝、継室馮氏の子。通直散騎常侍。元叉専権下で阿附しなかったため顕職を得られず、荘帝初、河陰の変で遇害、儀同三司・青州刺史・諡文を贈られた。
  • 彝の庶兄順、字は子和。九歳で師事し王羲之『小学篇』数千言を旬日で暗誦、師陳豊に「藍田に玉を生ずる」と評された。十六で『春秋』に通じ、酒と琴を愛した。給事中として高肇邸で年少を理由に取次を拒まれ「任城王の子を賤しむのか」と一喝、以後高肇に一目置かれたが父澄に杖罰された。太常少卿。父の喪に篤く白髪を生じ、喪明けても白髪のまま孝心を称された。
  • 給事黄門侍郎として権臣元叉に阿らず、正論を貫き恆州刺史に左遷。「北鎮の混乱は国の憂い」と武官への転任を願うが叉に阻まれ、齊州刺史でも鬱屈し酒に耽った。叉失脚後は給事黄門侍郎に戻り「入ってもまた出されるのが心配」と語った逸話。中山王熙の冤罪改葬に際し靈太后に元叉の妻を指して「妹一人のために天下に冤を負わせるのか」と諫言。
  • 就徳興討伐失敗を巡る侍中穆紹との論争で盧同の収賄を指摘、紹を慚じさせた。靈太后の華美な装いを面と向かって諫め、太后を怒らせたが「陛下が装いを恥じぬなら、なぜ私の言葉を恥じるのか」と切り返した。城陽王徽・徐紇との確執(元深の妻通姦事件を発端とする讒言)で太常卿に左遷、辞去の際に徽・紇を「魏の宰嚭(呉を滅ぼした佞臣)」「刀筆の小吏」と面罵、『蒼蠅賦』を著して憤りを表した。
  • 吏部尚書兼右僕射として舎人鄭儼の取り入りを拒み「佞臣は佞王を拝せ」と侮辱。かつて先帝の座した榻を見て涕泣し交換させた逸話。高陽王雍の縁故人事要求を拒み、激論の末に雍が折れて酒宴で和解した逸話。
  • 爾朱榮が荘帝を奉じ河陰に百官を召した際、順の剛直さを惜しんだ榮は同行を免じたが、順はそれと知らず出向いて陵戸鮮于康奴に殺された。家財なく蔵書数千巻のみが残った。荘帝は特別に絹百匹を贈り、尚書令・司徒公・諡文烈を贈った。
  • 順の予知夢(黒雲が日月を覆い消える夢、荘帝即位と自身の死を予兆)が語られ、順自ら夢占いを解いたという逸話が記される。『帝録』二十巻等の著作は多くが散逸した。
  • 長子朗は十七歳で父の仇鮮于康奴を討ち首を墓に供えて自首、朝廷は不問に付した。司徒属を経て天平中、奴僕に殺され尚書右僕射を追贈された。
  • 順の弟紀、字は子綱。孝武帝の入関に従い尚書左僕射・華山郡王。
  • 澄の弟嵩、字は道岳。歩兵校尉として、大司馬安定王休の喪中に狩猟を行い孝文帝に免官を命じられた。のち武衛將軍として孝文帝の南伐に従い齊将陳顯達を敗走させ高平縣侯。馮皇后賜死の使者を任され重用された。宣武帝の時、揚州刺史として威名を挙げるが妻穆氏と共に賊に殺害され、諡は剛侯。
  • 第二子世俊は才幹あるが素行に問題があり、吏部尚書として爾朱兆の侵攻時に河橋の守備を任されながら早々に降伏、洛陽陥落の元凶と非難された。爾朱世隆に取り入り、孝武帝の初め武陽縣子。選挙の職で収賄が発覚し免官。孝靜帝の時、尚書令。興和中に薨去、太尉を追贈、諡は躁戾。

南安王楨とその子孫

  • 南安王楨、皇興二年(468年)封。長安鎮都大將・雍州刺史を歴任。母の病を深く憂い白雉が庭に現れたと伝わり、帝から絹千匹を賜った。孝文帝の戒め(驕矜・傲慢貪奢・遊逸交友の三戒)を守らず放縦に流れ、削爵・禁錮の処分を受けたが、遷都の議論で功があり南安王に復封、相州刺史。任地で旱魃を石季龍廟に祈るも効なく神像を鞭打った直後、疽で薨去、諡は惠。恆州刺史穆泰の謀反を知りながら告げなかった罪で、死後に爵位を追奪、国除。
  • 子の英は聡敏で騎射に長け音律・医術にも通じた。梁州刺史として孝文帝の南伐に従軍、漢中の機に乗じて追討を上表し功で安南大將軍・廣武伯。
  • 宣武帝の時、吏部尚書、常山侯。南討で梁の曹景宗を大破、司州刺史蔡道恭は憂死、三関を制圧。梁への大規模侵攻(陰陵撃破、梁将二十五人斬首・五千級虜獲、梁城で四十二将撃破・五万近くを殺獲、臨川王蕭宏ら大将五人を敗走させ米四十万石を得る)で中山王に改封。鐘離包囲では長雨により振旅を求める表を上げ、四月の増水で橋が壊れ大敗、士卒の五、六割を失った。経略の失策として死罪相当と弾劾されたが庶人に減じられた。
  • 京兆王愉の反乱で王爵を復し、冀州は英未着任のうちに鎮定。郢州で梁軍が中従事督榮祖の内応で義陽を陥落させ、豫州でも白早生の叛乱で司馬悅が殺害される事態に対し、南征都督として出撃、義陽で三関攻略の戦略(東関を先取し勢力を分断する策)を実行し的中、大将六人・支将二十人・卒七千・米四十万石を得た。尚書僕射に至り薨去、司徒公・諡獻武王を贈られた。
  • 子の熙、字は真興。学問に優れ文才あるが軽躁で父に廃嫡を検討されたが弟の略の懇願で免れた。相州刺史時代、祖父同様の凶事(大風寒雨、蛆の異変)に遭い不吉を感じた。清河王懌の讒殺に憤り挙兵するが十日で長史柳元章らに捕えられ処刑された。妃於氏は挙兵を諫めて従わなかったが夫の死を哭き続けた。
  • 熙は学才ある名士(袁翻・李琰之・李神俊・王誦兄弟・裴敬憲ら)と交流深く、任城王澄の死の直前に見た予兆夢(任城邸の崩壊)が自らの死の前兆であったという。従軍中の三兄弟の暴虐(無辜の斬殺による虚偽の戦功)や、於忠が郭祚・裴植を誣殺した際に熙が加担したことも語られ、その報いと見る向きもあった。靈太后復政後、太尉公・諡文莊王を追贈。
  • 熙の弟略、字は儁興。給事黄門侍郎。兄の敗死後は逃亡し、司馬始賓・栗法光・刁雙ら義に厚い人々の助けで梁へ亡命、梁武帝に厚遇され中山王・宣城太守。元法僧の反乱に際し都督として彭城で懐柔にあたるが、江南にあっても家禍を悲しみ喪に服すように振る舞い、法僧を嫌悪した。
  • 梁の豫章王綜の帰順を機に、江革ら捕虜との交換で北魏に帰り、侍中・義陽王。東平王に改封、尚書令として靈太后に重用されたが、常に守成に終始し、爾朱榮とは姑の夫にあたる関係を軽んじたため榮に憎まれ、河陰の変で殺害された。太保・司空公・諡文貞を追贈。
  • 英の弟怡は鄯善鎮將として貪暴の罪で逃亡、後に卒去。荘帝の時、爾朱榮の妻の兄として太尉・扶風王を追贈。子の肅は魯郡王。
  • 肅の弟曄、字は華興、小字は盆子。荘帝初、長広王。爾朱榮死後、爾朱世隆らに擁立され建明と改元するが間もなく廃され、節閔帝により東海王とされ、孝武帝初めに殺害された。

城陽王長壽とその子孫

  • 城陽王長壽、皇興二年(468年)封、沃野鎮都大將として威名あり。薨去、諡は康王。子の鸞が襲爵。
  • 鸞、身長八尺腰囲十囲の偉丈夫、武芸で知られ北都大將を歴任。孝文帝初、赭陽攻略に失敗し定襄縣王に降格されたが留守の功で本封復帰。宣武帝の時、定州刺史として仏寺建立に力を注ぎ民の負担となり禄一年分を削られた。薨去、諡は懷王。
  • 子の徽、字は顯順。粗く文史に通じ吏才あった。宣武帝の時、河内太守として清廉の誉れ。明帝の時、并州刺史として旱害の被害に対し独断で倉を開いて救済し(汲黯の故事を引く)、帝に評価され安北將軍。汾州の山胡の劫掠を鎮め、汾・肆二州の民に慕われた。秦州刺史から帰任時は民が惜別した。清儉な人柄が知られた。
  • 度支尚書・吏部尚書を歴任、選挙制度の停年制の弊害を緩和する改革(徳による優先と労による促進の折衷)で「中平」と評された。侍中を経て一官への専念を願い出て天下に惜しまれた(「城陽が選挙から離れれば貧者の希望は失われる」)。尚書令。
  • 靈太后専制下で寵任されながら匡弼を怠り、鄭儼らと阿党した。妻于氏が廣陽王深と密通するのを黙認し、深の讒言(実は事実を含む)に晒された。
  • 荘帝即位で司州牧・司徒。元顥の乱で荘帝に従い北巡、帰還後は侍中・大司馬・太尉公に進む。爾朱榮を恐れて再三辞退を上表したが荘帝に慰留された。妻は荘帝の舅の娘、侍中李彧は帝の姉婿という縁で寵愛され、爾朱榮暗殺を帝と共に画策。
  • 榮の死後、爾朱一族が抵抗を続ける中、徽は太保・大司馬・宗師・録尚書事として内外を統べたが、実質的な対策を示せず、財を惜しみ賞賜を薄くし、太府少卿李苗の忠言も容れなかった。爾朱兆の侵攻時、荘帝が呼びかけても顧みず単騎で逃走、山南の旧吏寇彌の邸に匿われたが、彌に裏切られ路上で殺害され爾朱兆に届けられた。孝武帝初め、侍中・太師・録尚書事・司州牧を追贈、諡は文獻。子の延が襲爵、齊の受禅で爵位は例により降された。

章武王太洛とその子孫

  • 章武王太洛、皇興二年(468年)薨去、征北大將軍・章武郡王を追贈、諡は敬。子なく、孝文帝初、南安惠王の第二子彬を後継とした。
  • 彬、字は豹兒。勇健で将才あり、夏州刺史時代の貪婪で削封。汾州刺史時代、六百余人の胡人が反乱を企てた際、大軍を求めた彬を帝は「まず刺史を斬ってから兵を出す」と一喝、彬は自ら将兵の先頭に立ち鎮圧した。卒去、散騎常侍を追贈。
  • 子の融、字は永興。容姿壮麗、豪気ある性格。宣武帝の初め前爵を復し河南尹。貪欲な蓄財で削爵されたが、汾・夏の山胡反乱に対し前封を復され征東將軍として討伐、経略に乏しく敗北。鮮于修禮の乱に対し車騎將軍・前驅左軍都督として廣陽王深らと討伐に赴くが、交津の陣で自立した葛榮の軽騎に襲われ戦死。司空公、のち司徒公を追贈、諡莊武。子の景哲が襲爵、弟の朗はのちの廃帝である。

樂陵王胡兒とその子孫

  • 樂陵王胡兒、和平四年(463年)薨去、樂陵王を追封、諡は康。子なく、獻文帝は胡兒の兄汝陰王天賜の第二子永全を後継とし、思譽と改名させた。孝文帝の時、鎮北大將軍。穆泰の謀反を知りながら告げなかった罪で庶人とされたが太和末に復封、薨去、諡は密王。子の景略が襲爵、豳州刺史、薨去、諡は惠王。

安定王休とその子孫

  • 安定王休、皇興二年(468年)封。聡敏で外都大官として獄訟裁定に定評。南伐で大司馬。孝文帝が軍中で三人の盗人を六軍に見せしめようとした際、休は「斬らねば盗みは止まぬ」と主張し帝は「時に非常の恩赦もある」と特赦したが休はこれに従った。帝は司徒馮誕に「大司馬の厳正な軍法遵守」を称賛した。
  • 洛陽遷都に際し従駕文武の家族を平城から迎える任を果たし、帝自ら漳水で送迎した。太和十八年(494年)病に伏し、帝は自ら見舞い涙して哭し、薨去に際し三度も自ら葬儀に臨み、錫衰・素弁絰を着けて弔い、皇太子以下百官も従った。諡は靖王、假黄鉞・羽葆鼓吹を贈られ、三老尉元の礼に準じた厚遇。帝は郭外まで送り慟哭した。諸王の中でも別格の恩礼を受け、宣武帝の世に廟庭に配享された。
  • 次子燮が襲爵、太中大夫、華州刺史。州治の移転(李潤堡から馮翊古城へ)を、地理・利便性を詳細に論じた上表で実現した。州で薨去、朔州刺史を追贈。
  • 子の超、字は化生。胡国珍の安定公封に伴い北平王に改封、のち本封に復す。爾朱榮の洛陽入城時、難を避けて殺害された。
  • 超の弟琰、字は伏寶。大統中、宋安王に封じられ薨去、諡は懿。子の景山。
  • 景山、字は寶嶽。器量あり幹略に優れ、北周景帝の時、軍功で開府儀同三司。武帝の齊平定に従い大將軍・平原郡公・亳州総管、法令厳明で治安を保った。候正を経て、宣帝の時、上柱国韋孝寬の淮南経略に従軍、鄖州総管宇文亮の反乱で孝寬を救援し軍功で亳州総管。
  • 隋文帝の丞相就任時、尉遲迥の乱に呼応しようとした榮州刺史宇文胄の書を捕らえて相府に送り上大將軍。軍功で安州総管・柱国。隋の受禅で上柱国。開皇の陳征討で行軍元帥として漢口へ出撃するが、陳宣帝の崩御で班師の詔を受けた。威名を敵に恐れられたが後年事に坐して免官、家で卒去、梁州総管・諡襄を贈られた。子の成壽が嗣ぎ、秦王の庫直、大業中に西平郡通守。
  • 燮の弟願平は無頼の性で、給事中として悖悪を重ね、帝は近親のゆえに法に問わず別館に禁固したが没後解放され、靈太后により再び禁固。後に赦されて通直散騎常侍・前將軍となるが、妻を裸にし妻の妹を姦淫した罪で御史中尉侯剛に絞刑を求められ、赦により員外常侍に降格、卒去。

史論

  • 論じて言う。陽平(新成)の子らのうち頤は忠実で壮烈だった。京兆(子推)の後裔では悽(悰)に声望があった。匡の剛直な諫言は称賛に値し、獻文帝の禅位に際しての諫言はまさに国家の大節と言うべきものであった。康王(雲)が果断に廷諍し、天下を動かす一言を発したのはまさにその通りである。文宣(澄)は剛毅で遠大な志を持ち一族の傑物として累朝に仕え、国家の安危を担う棟梁の器であった。順の剛直で洒脱な気風は汲黯の風があったが、時代に用いられず非業の死を遂げたのは惜しむべきである。嵩には軍陣の気概があり、世俊は身を持ち崩した人物だった。南安(楨)は初め善良でも晩節を全うできなかった。英は将帥の器として当代に名を馳せた。熙・略の兄弟は早くから世に評判を得たが、才知は疎く志は大きすぎ、あるいは器量が狭く任が広すぎ、いずれも功名を全うできず非業に終わったのは惜しい。康王(長壽)は短命だったが、鸞がその家声を興した。徽は智を飾り情を偽り、外面は諂い内心は猜疑に満ち、永安の禍は誰の責であったか。その最期はむしろ当然というべきである。章武・樂陵の二王は取り立てて論じるまでもない。靖王(休)の決断力と威重は太和の世に称えられ、まことに美事であった。