北史卷十一 文帝
隋の建国者、高祖文帝(楊堅、字は那羅延、541–604年)。北周の外戚として実権を握り、静帝から禅譲を受けて隋を建国、開皇九年に陳を滅ぼして南北統一を果たした。倹約と法整備に努め開皇の治を築いたが、晩年は猜疑心が強まり、皇太子勇を廃して晋王広(煬帝)を立てたことが後の混乱を招いた。六十四歳で崩御。
年表(11件)
出自と生い立ち――皇考楊忠の代
- 隋の高祖文皇帝は姓を楊氏、諱を堅、小名を那羅延といった。本貫は弘農華陰、漢の太尉楊震の十四世孫にあたる。震の八世孫、燕の北平太守楊鉉の子・元寿は魏初に武川鎮司馬となり、以後神武の樹頽に家を構えた。元寿は太原太守楊恵嘏を生み、恵嘏は平原太守楊烈を、烈は寧遠将軍楊禎を、禎は皇考楊忠を生んだ。楊禎は魏末の喪乱に遭い中山に逃れ、義徒を結んで鮮于修礼討伐に加わり戦死した。周の保定年間、皇考は勲功により柱国大将軍・少保・興城郡公を追贈された。
- 皇考楊忠は美髯で身長七尺八寸、容貌は堂々とし武芸に優れ、識量深く将帥の器を備えていた。十八歳で泰山に遊学中、梁軍の侵攻に遭い江南に留まったが、北海王元顥の洛陽入りに従って帰還。元顥敗死後は爾朱度律の帳下統軍となり、後に独孤信に従って軍功を重ね、魏孝武帝の西遷にも同行した。東魏の荊州刺史辛纂が穣城に拠った際、独孤信に従いこれを討ち、纂を斬って城中を服させた。半年後、東魏の圧迫により信と共に帰順。周文帝(宇文泰)の帳下に入り、龍門での狩猟で猛獣を素手で制した豪胆さから「掩膽」と字された。竇泰討伐・沙苑の戦い(襄武県公に封)・河橋の役(五壮士と共に橋を死守)・李遠に従い黒水稽胡を破る・怡峰と共に玉壁の囲みを解く等、雲・洛二州刺史を歴任し、芒山の戦いでは先登して大都督に任じられた。
- 侯景の江南侵入で梁が衰えると、周文帝は皇考を都督荊等十五州諸軍事として穣城に鎮めた。梁の雍州刺史・嶽陽王蕭察の二心を見抜き、わずか二千騎を三万に見せかけて服させ、随郡を攻略、安陸を包囲。梁の柳仲禮が援軍に向かうと奇兵で漴頭に迎撃してこれを捕らえ、安陸・竟陵を降した。梁元帝は子の方略を人質に送り和議を求め、皇考は師を退いた。陳留郡公に進み大将軍となる。十七年、梁元帝に逼られた邵陵王蕭綸が斉に質を送り侵攻を図ると、皇考はこれを討って捕らえ、罪を数えて誅した(先に捕らえた柳仲禮の讒言で誹られながらも周文帝は不問とし、皇考はこれを悔いて綸を許さなかったという)。漢東の地をことごとく平定し新附の心をよく得た。魏恭帝より普六茹氏の姓を賜り同州事を行う。於謹の江陵征討では前軍として江津に屯し、梁軍の象戦を射て退けた。江陵平定後、周文帝は蕭察を梁主に立て皇考に穣城を鎮めさせた。周孝閔帝の践阼で入朝し小宗伯となる。
- 司馬消難の投降要請に応じ、柱国達奚武と共に援軍に赴いた。斉境五百里を進み三度使者を送るも応答なく、去北豫州三十里で武が動揺し撤退を図った際、皇考は「進んで死あるとも退いて生なし」と単騎千騎で夜襲、城門開放を待って入城し武を召した。斉の鎮城伏敬遠が三千の甲士で守りを固めると武は怖れて撤退、皇考は三千騎で殿を務め、洛北で追撃を受けたが「賊は必ず渡水せぬ」と全軍に食を取らせ、斉兵の渡河の構えに動じず徐々に退いた。達奚武は「達奚武自ら天下の健児と称してきたが今日は服した」と嘆じた。柱国大将軍に進む。武成元年、隋国公に進封され邑万戸、別に竟陵県千戸の租賦を得た。保定二年、大司空となる。
- 突厥と結んで斉を討つ議論で、朝臣が斉の斛律明月を恐れ十万の兵を求める中、皇考は独り「万騎で足る、明月は豎子に過ぎぬ」と言い、保定三年、元帥に任じられ楊纂・李穆・王傑・爾朱敏・元寿・田弘・慕容近らを率いた。達奚武は歩騎三万で南道を進ませ晋陽で会する策を取った。皇考は武川の故宅を経て先人を祭り、二十余城を降した。突厥の木桿可汗以下十万騎と合流し晋陽を攻めたが大雪と斉軍の精鋭に阻まれ、皇考は七百人で歩戦し半数近くを失い、突厥の来援の遅れで撤兵した。突厥は晋陽から平城まで七百余里を大掠した。周武帝は皇考を太傅としたが、宇文護は皇考が己に付かぬのを嫌い涇州総管に転じさせた。以後も軍糧不足を稽胡の帰服工作で乗り切るなど功を重ね、疾を得て帰京、周武帝・宇文護もしばしば見舞った。薨去に際し太保・都督同朔等十三州軍事・同州刺史を追贈され謚を桓公とした。開皇元年、武元皇帝と追尊され廟号を太祖とされた。
誕生から北周末期まで
- 帝は武元皇帝の長子で母は呂氏。周の大統七年六月癸丑の夜、馮翊の波若寺で生まれ紫気が庭に満ちたという。河東から来た尼が「この子の出自は尋常でない、俗間に置くべきでない」と告げ、別館で自ら養育した。皇妣が帝を抱いた際に頭に角が現れ全身に鱗が起こり地に落としたところ、尼は「もう我が子を驚かせてしまった、天下を得るのが遅れよう」と嘆いたという。帝は龍のような顎、額に五柱が頂に入る相、目光鋭く手に「王」の文があり、長身で沈深であった。太学に入ってからは至親でさえ狎れなかった。十四歳で京兆尹薛善に功曹として招かれ、十五歳で皇考の勲により散騎常侍・車騎大将軍・儀同三司、成紀県公に封ぜられた。十六歳で驃騎大将軍・開府に進んだ。周文帝は「この子の風骨は世間の人ではない」と嘆じ、明帝の代には右小宗伯・大興郡公に進んだ。明帝が善相者の来和に相させると「柱国に過ぎない」と表向き答えたが、私かに帝へ「公はいずれ天下の君となろう、必ず大誅殺の後に定まる」と語った。
- 周武帝の代、左小宮伯に遷り随州刺史・大将軍に進んだ。皇妣の三年の寝疾に昼夜付き添い純孝と称された。宇文護執政のもと帝は特に忌まれ害されかけたが大将軍侯伏侯壽らに救われた。隋国公を襲爵。周武帝の皇太子時代に長女を妃に迎え礼遇はさらに厚くなった。斉王憲は周武帝に「普六茹堅の相貌には自分でも思わず気を失うほどだ、人の下に収まる相ではない、早く除くべき」と進言したが周武帝は「将たるに過ぎまい」と退けた。内史王軌もしばしば「皇太子は社稷の主にあらず、普六茹堅には反相がある」と諫めたが周武帝は「天命なら如何ともし難い」と不快を示した。帝は深く恐れて自らを晦した。周武帝の斉平定に従い柱国に進み、斉王憲と共に斉の任城王湝を冀州に破り定州総管となった。州城門が久しく閉じられていたが帝が至って開かれ人々は驚異したという。亳州総管に遷り、周宣帝の即位で皇后の父として上柱国・大司馬を拝した。大象初年、太后丞・右司武に遷り大前疑に転じた。周宣帝が『刑経聖制』の厳刑を敷いた際、帝は切に諫めたが容れられなかった。位望が高まるにつれ周宣帝の忌みも強まり、四后が寵を争う中で周宣帝は「必ずお前の一族を滅ぼす」と言って帝を召し左右に「顔色が動けば即座に殺せ」と命じたが、帝は平然として難を免れた。
北周からの禅譲(大象二年-大定元年、580年-581年)
- 大象二年五月、揚州総管への任が発表されるも足の急病で赴任は流れた。乙未、周宣帝が病に伏す中、内史上大夫鄭訳・禦正大夫劉昉は帝を眾望と見て矯詔で入侍させ、帝は輔政・都督内外諸軍事を受けた。周諸王の変を恐れ趙王招の突厥への嫁女を口実に招集し、己酉に周宣帝が崩ずると庚戌、静帝の詔で仮黄鉞・左大丞相となり百官を総べた。鄭訳を長史、劉昉を司馬とし、周宣帝の峻酷な刑政をすべて寛大に改め天下の心を得た。六月、趙王招・陳王純・趙王盛・代王達・滕王悄が長安に至った。相州総管尉遲迥が挙兵し、旬日で十余万に膨れ、宇文冑・石悆・席毗・席叉羅らも応じた。迥は子を陳に質として援を求めたが、帝は上柱国韋孝寛に討伐を命じた。畢王賢と趙・陳ら五王の謀反計画を察知して賢を誅し他の五王の罪は隠した上で優礼を加えて油断させ、趙王が酒宴で伏兵を用いた際は元冑に救われて越王・趙王を誅殺した。八月、韋孝寛は尉遲迥を破って斬り、司馬消難の呼応や荊・郢の蛮の蜂起、王謙の益州擁兵もそれぞれ王誼・賀若誼・梁睿らによって鎮圧された。
- 九月、大丞相に進む。十月、皇曾祖楊烈・皇祖楊禎・皇考楊忠へ柱国以下の追贈と国公の追封が行われ、代王達・滕王悄が誅された。十二月、相国となり総百揆、九錫の礼を備え、隋国二十郡が封じられたが帝は再三これを辞し十郡のみを受けた。皇祖・皇考の爵も王に進められた。大定元年二月、賜姓をすべて旧に復す令を出し、九錫の礼を受け、周帝はさらに十二旒の冕・天子の旌旗・金根車・五時副車等を詔したが帝は三度辞退した。ついに太傅・杞国公宇文椿が冊を奉じ禅譲を勧める文を読み上げた(漢魏の故事による禅譲の由来と帝の徳を称える定型の文言であった)。大宗伯・金城公趙蟹が皇帝璽紱を奉じ百官の勧進を受け、帝はついにこれを受けた。
開皇元年(581年)
- 開皇元年二月甲子、相府より常服で入宮し臨光殿で即位。南郊に壇を設け竇熾に柴燎を告天させ、大赦・改元、京師に慶雲が現れた。周の官制を漢魏の旧に改め、高頴を尚書左僕射兼納言、虞慶則を内史監兼吏部尚書、李徳林を内史令、韋世康を礼部尚書、元暉を都官尚書、元巌を兵部尚書、長孫毗を工部尚書、楊尚希を度支尚書、楊恵を左衛大将軍とした。皇考を武元皇帝、皇妣呂氏を元明皇后に追尊。周の左社右廟制を右社左廟に改め、八使を四方に遣わした。独孤氏を皇后、王太子勇を皇太子に立て、趙蟹を尚書右僕射、伊婁彦恭を右武候大将軍とし、周帝を介国公として厚遇(上書を表とせず答表も詔と称さぬ特礼)した。周諸王はすべて公に降された。皇弟楊爽を雍州牧、楊慧を滕王、楊爽を衛王、皇子楊広を晋王、楊俊を秦王、楊秀を越王、楊諒を漢王に封じた。李穆を太師、竇熾を太傅、於翼を太尉、田仁恭を太子太師、柳敏を太子太保とし、楊広を并州総管、楊智積を蔡王、楊静を道王とした。東京府を尚書省に改め、官牛五千頭を貧民に分与した。
- 三月、宣仁門の槐樹連理が現れ、白狼国が方物を献じた。犬馬器玩・口味の献上を禁じ山沢の禁を弛めた。梁の蕭巋が太宰蕭巌を遣わし賀した。四月、太常散楽をすべて編戸に免じ雑楽百戯を禁じた。陳の来聘は隋の受禅後であったため介国に回された。稽胡を発して長城を修めた。五月、楊雄を広平王、楊弘を河間王とし、介公(周静帝)が薨ずると謚を周静帝とした。六月、五徳相生を推して火色を尚び戎服は黄とする詔を出し、七月には上自ら黄を服し始めた。八月、東京官を廃し、元諧を遣わして吐谷渾を青海に破り降した。九月、陳将周羅㬋・蕭摩訶が江北を侵すと楊秀を益州総管から蜀王に改封、長孫覧・元景山を行軍元帥として陳討伐を命じ高頴に諸軍を節度させた。五銖銭を行った。十月、百済王扶余昌・高麗王高陽が朝貢し官爵を授けられ、新律を行い岐州へ行幸した。十二月、竇栄定を右武候大将軍とし、高麗・突厥・靺鞨・沙缽略可汗らが朝貢した。
開皇二年(582年)
- 二年正月、陳宣帝が薨じた。河北道・河南道・西南道の三行台尚書省を置き、それぞれ晋王広・秦王俊・蜀王秀を尚書令とした。陳が和を求めると喪に乗じないよう高頴らに班師を命じた。三月、宮殿門の通籍制を始め、柱陽の水を三畤原に引いた。四月、韓僧壽・李充が突厥を破り、上柱国長孫平を度支尚書とした。旱による親省の日に大雨が降った。高宝寧が平州を寇し突厥が長城に入った。伝国璽を受命璽と改め、六十歳以上の課役を免じる制を出した。六月、上柱国李充が馬邑で突厥を破り、丙申、遷都の詔を出した(旧宮室の狭隘と喪乱を理由に龍首山の地に新都建設を命じるもの)。左僕射高頴・将作大匠劉龍・賀婁子幹・高龍叉らに新都の造営を命じた。
- 秋七月、新占地の墳墓を遷葬させ、新令を行った。十月、宮を撤して東宮に移り、皇太子勇は咸陽に屯して胡虜に備えた。上の病が癒えると百僚に宴を賜り、賀婁子幹を工部尚書とした。十一月、方陣戦法と軍営図様を諸軍府に頒った。十二月、竇毅が卒し、新都を大興城と名付けた。虞慶則を弘化に屯させ胡に備えたが、達奚長儒は周盤で突厥に敗れた。この年、高麗・百済が朝貢した。
開皇三年から五年まで(583年-585年)
- 三年正月、大興城への遷都を機に大赦し大刀長矟を禁じ、二十一歳成丁の制と庸の制を定め、遠近の酒坊・塩井の禁を廃した。二月、日食があり陳が来聘、突厥が犯辺した。三月、新都に移り醴泉が湧いた。天下に遺書を求める詔を出し榆関を築いた。四月、衛王楊爽が突厥を白道山に大破し、吐谷渾が臨洮を侵し洮州刺史皮子信が死んだ。趙煚を内史令に、滕王瓚を雍州牧に加えた。陰壽が高宝寧を黄龍に大破。旱で親祀雨師、天下に勧学行礼を詔した。陳の張子譏の投降は和好を理由に受けず、上親ら雩祭を行った。五月、於翼が薨じ、李晃が突厥を破った。梁太子蕭琮が遷都を賀し、竇栄定が突厥・吐谷渾を涼州で破った。六月、突厥が和を求め、梁遠が吐谷渾を爾汗山で破り名王を斬った。七月、済陰太守杜猷を守った范台玫の忠節を賞した。八月、高頴・虞慶則を行軍元帥として胡を撃たせた。九月、大赦。十月、河南道行台省を廃し、十一月に使者を巡遣し風俗を観察した。十二月、この年は高麗・突厥・靺鞨が朝貢した。
- 四年正月、梁主蕭巋が来朝し十日間の大射を行った。二月、隴州行幸で突厥の阿史那玷厥可汗が降った。四月、総管・刺史の父母子の随任を禁じ、虞慶則を尚書右僕射、楊尚希を兵部尚書、劉仁恩を刑部尚書とした。五月、契丹主莫賀弗が降を請い大将軍を拝された。六月、通済渠を開いて渭から河に達し漕運を通じ、官人の授勲制を戦功に限った。旱の五州へ租調免除。秋、陳の来聘。八月、十使を天下に巡らせ、竇熾が薨じた。九月、契丹が内附、関中の饑饉で洛陽へ行幸。十一月、薛道衡を陳へ遣わし、周十二月を「臘」から「蠟」に改めた。この年、靺鞨と女国が朝貢。
- 五年正月、新礼を行い江陵総管を廃したが後に梁主の求めで復した。三月、高頴を左領軍大将軍、宇文忻を右領軍大将軍とした。四月、契丹が朝貢し、上柱国王誼の謀反を誅した。梁主蕭巋が薨じ、義倉を初めて置いた。突厥沙缽略可汗が上表して臣を称した。八月、河南諸州の水害を蘇威が振給。九月、鮑陂を杜陂、霸水を滋水と改めた。十一月、晋王広が来朝、十二月に囚徒を降した。
開皇六年から九年まで(586年-589年)――陳の平定
- 六年正月、党項羌が内附し、蘇威を山東へ巡省。二月、山南荊浙の水害を長孫毗が振恤し、刺史上佐の考課入朝制を定めた。丁男十一万を発して長城を修築した。三月、洛陽男子高徳の帝への譲位上書に対し「近代帝王のように子に位を譲り逸楽を求めることはしない」と答えた。突厥沙缽略可汗が朝貢。八月、李穆が薨じ、閏月に皇太子が洛陽鎮守。梁士彦・宇文忻・劉昉の謀反が発覚し誅殺され、宇文善は除名された。帝は素服で射殿に臨み梁士彦の家財を百寮に射させた。梁士彦らの謀反の後、元景山が卒し、大象以来の死事の家を振恤した。十月、晋王広を雍州牧とし、山南道行台尚書省を襄州に置いて秦王俊を尚書令とした。
- 七年正月、諸州の歳貢三人の制、二月に朝日を東郊に祀り、丁男十万で長城を築いた。四月、揚州の山陽瀆を開き漕運を通じ、突厥沙缽略可汗が卒した。青龍符を東方総管・刺史に、西方は白虎、南方は朱雀、北方は玄武に頒った。九月、梁の安平王蕭巌が国を掠め陳に奔った。梁国を廃し江陵を曲赦、蕭琮を柱国・莒国公とした。十月、同州・蒲州へ行幸し父老と宴し「衣服鮮麗、容止閑雅なのは仕宦の郷ゆえの陶染だ」と語った。馮翊での対詔の失態に免官を命じた。
- 八年、陳への大挙討伐を詔し、晋王広・秦王俊・清河公楊素を行軍元帥、荊州刺史劉仁恩・宜陽公王世積・新義公韓擒・襄邑公賀若弼・落叢公燕栄らを各道の総管とし総管九十・兵五十一万八千を晋王の節度に付した。陳叔寶の首を購う詔と陳国への曲赦を出した。十一月、車駕は師を餞し、定城・河東へ行幸した。
- 九年正月、賀若弼が蔣山で陳師を破り蕭摩訶を捕らえ、韓擒が建鄴に入って陳主叔寶を捕らえ陳国が平定された(合わせて州四十・郡百・県四百・戸五十万・口二百万)。二月、淮南尚書省を廃し、郷里制(五百家一郷、百家一里)を定めた。四月、驪山に行幸し旋師を労い献俘を太廟に行った。晋王広を太尉とし、大赦。陳の孔範・王瑳・王儀・沈観ら邪佞の臣は辺地に流し、陳人には十年の復(免税)、軍人には終身の徭役免除を与えた。陳の文武の人材を登用し、宮奴は帰郷させるか将士・王公に分賜、鹵獲した秦漢の大鐘や越の大鼓は毀し、亡陳の女楽を「哭くようで喜ばぬ」と評して公卿に永鑒として聴かせた。閏月、木魚符を総管・刺史に頒り、蘇威を尚書右僕射とした。六月、楊素を納言とし、封禅の請願は「小国を除いて薄徳で名山を封じるのか」と却下した。八月、楊雄を司空とし、十一月に再び封禅上表を却下した。
開皇十年から十四年まで(590年-594年)
- 十年正月、皇孫昭を河南王、楷を華陽王とした。二月、并州へ行幸。五月、軍人をすべて州県に属させ墾田籍帳を編戸と同じくする詔を出し、新設軍府を廃した。七月、蘇威を内史令とし、韋洸・王景に嶺南を巡撫させ百越を服させた。十一月、木魚符を京官五品以上に頒り、国学に幸し賜を頒った。この月、婺州の汪文進・会稽の高智慧・蘇州の沈玄懀ら天子を自称し反乱、蔡道人・呉世華・沈孝徹・王国慶・楊宝英・李春らも大都督を自称、楊素に討平を命じた。
- 十一年正月、平陳で得た古器を妖変の恐れから毀す命が出た。皇太子妃元氏が薨じた。臨潁令劉曠の異例の政績で莒州刺史に抜擢した。八月、滕王瓚が薨じ、鄭訳が卒した。突厥が七宝碗を献じた。
- 十二年二月、蜀王秀を内史令兼右領軍大将軍、漢王諒を雍州牧兼右衛大将軍とした。七月、蘇威・盧愷が坐事で除名された。八月、天下の死罪は大理の覆審を経る制を定め、豆盧績が卒した。十月、遂安王集を衛王とし、太廟にて太祖神主の前で帝は涙した。十一月、韓擒が卒した。
- 十三年正月、韓建業が卒し、二月に仁寿宮の造営を詔した。豫章王暕を立て、南陽公賈悉達・撫寧公韓延らを賄賂により誅した。私家の緯候図讖の秘蔵を禁じ、五月には国史撰集や人物臧否の私議を禁じた。十一月、梁彦光が卒した。この年、契丹・燧・室韋・靺鞨が朝貢した。
- 十四年四月、雅楽の制定完了を布告し、旧奏を停めた。京師地震・関内旱。省・府・州・県の廨田制を定めた。七月、蘇威を納言とし、関中の大旱で洛陽へ行幸し百姓に山東での就食を命じた。閏十月、梁・斉・陳の後裔(蕭琮・高仁英・陳叔宝)に祭祀の便を図る詔を出し、外官の任地随行制限、州県佐史の三年一代制を定めた。十二月、東巡狩に発した。
開皇十五年から二十年まで(595年-600年)――皇太子勇の廃立
- 十五年正月、斉州で疾苦を親問し、旱による大赦を行った。梁睿が卒し、三月に東巡から還り五嶽海瀆を望祭した。私家の畜兵禁と乗馬禁を関中・河東で施行、京官五品以上に銅魚符を佩びさせ砥柱を鑿つ詔を出した。名山の祀典を整えた。九品以上の理由ある離官者に執笏を許し、辺糧盗みへの厳罰を敕した。この年、吐谷渾・林邑等が朝貢した。
- 十六年二月、皇孫裕・筠・嶷・恪・該・韶・蟹をそれぞれ王に封じた。工商の進仕禁止と、九品以上妻・五品以上妾の再嫁禁を詔し、死罪三奏後行刑の制を定めた。
- 十七年、史万歳が西寧を伐って克ち、王世積が桂州の李光仕を平定した。属官の犯罪への律令外斟酌を許した。蜀王秀が来朝し、群鹿が殿門に入った。李世賢の桂州反乱を虞慶則が平定し、秦王俊は事に坐して免ぜられ王として就第した。廟庭の楽は迎神のためであり路上での奏楽は禮に適わぬとして改めさせ、京下大索を行い、虞慶則は罪により伏誅した。
- 十八年、江南の大船を官に括入させ、漢王諒を行軍元帥として水陸三十万で高麗を伐った。貓鬼蠱毒厭魅の家を四裔に流し、高麗王高元の官爵を黜した。諒の師は疾疫で死者十二三を出して帰った。この年は行宮十所を置き、水害諸州の庸調を免じた。
- 十九年、大赦し武徳殿で大射。突厥利可汗が内附し達頭可汗を史万歳が破った。豫章王暕を内史令とし、高頴・張威・李徹が坐事免・卒去。突厥利可汗を啓人可汗として大利城を築かせ部落を居らせた。都藍可汗は部下に殺され突厥は大乱した。
- 二十年、突厥・高麗・契丹が朝貢。熙州の李英林反乱を張衡が討ち、突厥犯塞を晋王広が撃破した。秦王俊が薨じ、十月、皇太子勇とその諸子を廃して庶人とし、史万歳・元旻を誅殺した。晋王広を皇太子に立て、天下地震・京城大風雪が起こった。東宮官属の対皇太子称臣を禁じ、仏・天尊像・嶽鎮海瀆神形の毀壊者は不道論、沙門・道士の破壊は悪逆論とする詔を出した。
仁壽元年から三年まで(601年-603年)
- 仁寿元年正月、大赦・改元。楊素を左僕射、蘇威を右僕射とし、河南王昭を晋王に徙した。突厥が恒安を寇し韓洪が敗れた。晋王昭を内史令とし、戦亡者の墓域入りを許す詔を出した。突厥の男女九万余口が降った。十六使を諸方に巡遣し、太学・州県学を廃して国子学一学のみ残し正三品以上の子七十二人を生とした(後に太学と改称)。舎利を諸州に頒け、南郊祭祀を行い、楊素が突厥を大破した。
- 二年、岐・雍二州の地震、皇后独孤氏が崩じた。河南北諸州の大水を楊達が振恤、隴西も地震。楊素・蘇威・牛弘・薛道衡・許善心・虞世基・王劭らに五礼の修定を命じ、献皇后を太陵に葬った。蜀王秀は罪により庶人に落とされ、交州の李佛子の乱を劉方が平定した。
- 三年、帝と皇后の忌日(六月十三日)に海内で断屠の令を出した。父在喪母の服制(練祭)を厳密に論じた長い詔を出し(三年の喪の本義と練祭の道理を礼典に照らして議論し、十三月にして祥、中月にして禫とする古礼への回帰を命じるもの)、州県に賢哲の搜揚を命じた。燕栄が罪により伏誅、常平官を置いた。河南諸州の水害を楊達が振恤した。
崩御(仁壽四年、604年)
- 四年正月、大赦し仁寿宮へ行幸。四月、上が不豫となり六月に大赦。星が月に入り数日で退く異変、雁門に長人が現れた。七月、日は青く光を失い八日で復した。帝は病篤く仁寿宮に臥し百僚に別れを告げ丁未、大宝殿で崩じた。享年六十四。遺詔(喪乱を平定し天下を大同させた自らの治績を述べ、勇・秀ら悖悪の子を黜廃し皇太子広の仁孝を頼む旨、凶礼は倹約に従い旧律令の改定は後世に委ねる旨を記す)が出された。乙卯、発喪。河間の楊柳が理由なく黄落し後に花葉が復生した。八月、梓宮は大興前殿に殯された。十月乙卯、太陵に葬られ皇后と同墳異穴となった。士庶の赴葬者は陵内への立ち入りを許された。
人物評
- 帝は性厳重で威容あり、外は質朴に見えながら内は明敏で大略を持った。政を得た当初は群情いまだ付かず、諸子も幼弱で内には六王の謀、外には三方の乱がありながら、強兵を握り重鎮に居た周の旧臣を赤心をもって用い、期月を出ずして三辺を平定し十年を出ずして四海を統一した。賦斂を薄くし刑罰を軽くし、内は制度を整え外は戎夷を撫し、日仄まで聴朝を怠らなかった。開皇・仁寿の間、丈夫は綾綺を衣ず金玉の飾りもなく、帝自身も布帛の服に銅鉄骨角の帯を用いた。財に吝いようでいて功ある者への賞賜は惜しまなかった。乗輿の外出では上表者に自ら車を停めて問い、密使を遣わして風俗・吏政の得失・民の疾苦を探らせた。関中の饑饉では百姓が豆屑雑糠を食べる様を涙して群臣に示し、自ら膳を減らし酒肉を断つこと一年近くに及んだ。太山への東拝の際は関中から洛陽へ食を求める民に驅逼せぬよう斥候に命じ、老幼を扶ける者には自ら馬を避けて労わり、艱険の地では負担者を扶けさせた。戦没した将士には必ず優賞し使者を遣わし遺族を慰問した。自ら強めて息まず、朝夕孜孜としており、人口は殷賑し帑蔵は充実した。至道には及ばぬまでも近代の良主と称するに足る人物であった。
- 一方で雅性沈猜(陰険で猜疑深い)で学術に乏しく小数(呪術めいた術)を好み、神燭聖杖に病を癒す力があると信じ、王劭の解石文(瑞祥の符読み)にも惑わされるなど大体(大局)を弁えないところがあった。そのため忠臣義士も心を尽くしにくく、創業の元勲や功臣は誅夷され生き残る者が稀であった。詩書を悦ばず、楊素の意を迎えて学校を廃止する上奏を認め、婦人(独孤后)の言のみを用いて諸子を廃黜した。晩年は法を峻烈にし喜怒常ならず殺戮を好んだ。西域朝貢使を送った者が牧宰から鸚鵡・麖皮・馬鞭等の小物を受けたと聞いて大怒し、武庫の荒廃を見た際は武庫令と受贈者を開遠門外で自ら処刑し数十人が死んだ。密かに令史へ賂を送らせその受領者を必ず死罪とするなど、識者はこれを軽んじた。
史論
- 論じて言う。隋文帝は基を樹て本を立て徳を積み仁を累ねた人物であった。外戚の尊きにより托孤の任を受けたが、「賢者に与える」の議には未だ許されぬところがあり、周の旧臣はみな憤惋を懐いた。それでも王謙の三蜀拠守、尉遲迥の全斉挙兵はいずれも期月を出ずして敗れ、これは人謀のみならず天の賛けによるものであった。この機運に乗じて周の鼎を遷し、蛮夷猾夏・荊揚未一の情勢下、日仄まで四方を経営し、楼船南征で金陵を失険させ驃騎北指で単于を款塞させ、職方所載の地をことごとく疆理に入れ禹貢所図の地をすべて正朔に服させた。晋武帝の呉会平定、漢宣帝の推亡固存にも比肩しうる功であった。七徳が敷かれ九歌が洽く行われ、辺境に警なく遐邇粛清し、躬ら節倹を行い徭賦を平らかにして倉廩は実り法令は行われ、君子はその生を楽しみ小人は業に安んじ強も弱を凌がず衆も寡を暴かず、人物殷阜で朝野は歓娯した。開皇二十年の間、天下無事で区宇は晏如たり、前王に比べても盛烈に参ずるに足るものであった。
- しかし術業に乏しく人材を存分に用いることができず、寛仁の度を欠き刻薄の資を持ち、暮年にはこの風がいよいよ扇がれた。瑞符を好み大道に暗く、諸子を建てて京室と権を等しくさせ帝制を同じくしたため誰に従うべきか定まらなかった。姑(独孤后)の言を聴き邪臣の説に惑い、寵を溺らせ嫡を廃し托付を誤った。父子の道を滅ぼし昆弟の隙を開き、その斧を縦にして本根を翦伐した。墳土いまだ乾かぬうちに子孫は相継いで戮せられ、松槚がようやく列するころには天下はすでに隋の有ではなくなった。惜しいことである。その衰怠の源を跡づけ乱亡の兆しを稽えると、文帝に起こり煬帝に成った。その由来は遠く、一朝一夕のことではない。祀りが忽ちにされたのも不幸とは言い切れないのである。