北史卷十二 煬帝・恭帝

煬帝――出自と晋王時代

  • 煬皇帝は諱を広、一名を英、小字を阿麼といい、高祖の第二子である。母は文献独孤皇后。姿は美しく幼くして敏慧で、高祖と皇后から諸子の中でも特に鍾愛された。周の代、高祖の勲により雁門郡公に封ぜられ、開皇元年、晋王に立てられ柱国・并州総管を拝した時わずか十三歳。まもなく武衛大将軍、進んで上柱国・河北道行台尚書令となり大将軍もそのままとした。高祖は項城公楊歆・安道公李徹に輔導させた。上は学を好み文をよくし沈深厳重で朝野の期待を集めた。高祖が善相者来和に諸子を遍く相させると「晋王は眉上の骨が隆起しており貴きこと言うべくもない」と評した。高祖が上の邸に幸した際、楽器の弦の多くが断たれ塵埃が積もっているのを見て声妓を好まぬ人物と思い込んだ(実は上が自ら矯飾したものであった)。当時「仁孝」と称されたのはこの類の演出による。猟中に雨に遭い左右が油衣を進めた際も「士卒は皆濡れているのに私だけこれを着るのか」と言って持ち去らせたという。六年、淮南道行台尚書令に転じ、その年、雍州牧・内史令に徴拝された。

皇太子時代(開皇八年-仁壽四年、588年-604年)

  • 八年冬、陳への大挙討伐に行軍元帥として当たった。陳平定後、陳の湘州刺史施文慶・散騎常侍沈客卿・市令湯慧朗・刑法監徐析・尚書都令史暨慧ら邪佞で民を害した者を石闕下で斬って三呉に謝した。府庫の資財は封じて取らず、天下に賢と称された。太尉に進み路車・乗馬・袞冕の服、玄圭・白璧各一双を賜り、并州総管に復した。まもなく江南で高智慧らが乱を起こすと揚州総管に転じ江都を鎮め、毎年一朝の待遇を受けた。高祖の太山祭祀では武候大将軍を領した。翌年籓に帰り、数年後、突厥の犯辺に対し再び行軍元帥として霊武に出たが虜がおらず旋師した。皇太子勇が廃されると上が皇太子に立てられた。当日、冊立が行われる予定で高祖は「私は大興公として帝業を成した」と語り上に大興での宿泊を命じたが、その夜、烈風大雪・地震山崩が起こり民家の多くが壊れ圧死者は百余口に及んだ。仁寿初年、東南の巡撫を命じられ、以後、高祖が仁寿宮で避暑するたびに監国を委ねられた。

即位と漢王諒の乱(仁壽四年、604年)

  • 四年七月、高祖が崩ずると上は仁寿宮で皇帝位に即いた。八月、梓宮を奉じて京師に還った。并州総管・漢王諒が挙兵反すると、尚書左僕射楊素に討平を命じた。九月乙巳、崔彭を左領軍大将軍とした。十一月、洛陽へ幸し、丁男十数万で塹を掘り龍門から東へ長平・汲郡を接し臨清関に抵り、河を度って浚儀・襄城を経て上洛に達する関防を築かせた。癸丑、東京(洛陽)造営の詔を出した(雒邑が古来の帝都であり山河に守られ水陸に通じる要地であることを述べ、漢王諒の乱で関河が隔たり援兵が及ばなかった教訓から東京を営み民の宜しきに供する、造営は節倹を旨とすべしとするもの)。十二月、来護児を右驍衛大将軍、李景を右武衛大将軍、周羅㬋を右武候大将軍とした。

大業元年(605年)

  • 大業元年正月、大赦・改元。妃蕭氏を皇后に立て、豫州を溱州、洛州を豫州と改称、諸州総管府を廃した。晋王昭を皇太子に立て、宇文述を左衛大将軍、郭衍を左武衛大将軍、於仲文を右衛大将軍とし、豫章王暕を豫州牧とした。八使を四方に巡遣し民の疾苦を問い賢才を挙げさせる詔を出した(哲王の民を愛する政の要諦を述べ、孝悌力田・鰥寡孤独・義夫節婦・名行学業ある者の推挙、牧宰の苛政の摘発を命じるもの)。二月、楊素を尚書令とした。三月、楊素・楊達・宇文愷に東京の造営を命じ豫州郭下の民を移して実とした。牧宰の考課の空虚を批判し民の直訴を許す詔も出した。また皂澗に顕仁宮を営み天下の奇禽異獣草木を集め、天下の富商大賈数万家を東京に徙した。河南諸郡の男女七百万を発して通済渠を開き西苑から穀・洛水を引いて河に達し、板渚から河を淮に通じさせた。江南で龍舟・鳳拚・黄龍・赤艦楼船など数万艘を造らせた。四月、劉方が林邑を撃破。七月、戦亡の家に十年の復を制し、滕王綸・衛王集を爵奪の上辺境へ徙した。閏七月、楊素を太子太師、安徳王雄を太子太傅、河間王弘を太子太保とし、学問振興の詔を出した(漢晋以来衰えた学の道を憂え、篤志好古の士を採訪し名を挙げ器能に応じ抜擢する旨、国子学の課試も明らかにする旨を述べるもの)。八月、龍舟で江都へ幸し、文武五品以上に楼船、九品以上に黄篾船を給し舳艫二百余里に連ねた。十月、江・淮以南を赦し揚州は五年、旧総管内は三年の復を給した。十一月、崔仲方を禮部尚書とした。

大業二年(606年)

  • 二年正月、東京が完成し督工の者に賜を差等した。梁毗を刑部尚書とし、十使を分遣して州県を併省した。二月、楊素・牛弘・宇文愷・虞世基・許善心に輿服の制定を命じ輦輅・五時副車を初めて備えた。上は常に皮弁を服し十二琪、文官は弁服に佩玉、五品以上は犢車通幰、三公・親王は油絡を加え、武官は平巾幘・褲褶で三品以上は瓟槊を給い、庶人以外は戎服を許さぬ制を定めた。都尉官を置いた。三月、車駕は江都を発した。太府少卿何稠・太府丞雲定興が儀仗を整えるため州県に羽毛を課し、百姓は禽獣を捕り尽くした。四月、伊闕から法駕を陳ね千乗万騎を備えて東京に入り、端門で大赦し今年の租賦を免じた。
  • 五月、楊文思を民部尚書とし、賢人君子を祀る詔を出した(樹徳立功の人を各地に祠を営み致祭させる旨)。六月、楊素を司徒とし、豫章王暕を斉王に進封した。七月、衛玄を工部尚書とし、考級による昇進を禁じ功績著明な者のみ抜擢する制を定めた。籓邸旧臣の鮮于羅ら二十七人を登用し、皇太子昭が薨じ、司徒楚国公楊素も薨じた。八月、皇孫倓を燕王、侗を越王、侑を代王に封じた。九月、秦王俊の子浩を秦王に立てた。十二月、帝王陵墓の守視戸を給する詔を出した。

大業三年(607年)

  • 三年正月、并州の逆人で流配後逃亡した者は捕らえ次第斬決させた。長星が東壁に出て二旬続き、河水が清んだ瑞祥が上言された。二月、彗星が東井・文昌に現れ大陵・五車・北河を歴て太微に入り帝座を掃い百余日続いた。三月、京師に還り、羽騎朱寛を流求国に遣わした。河間王弘が薨じた。四月、河北の巡省を命じ律令を頒って大赦、関内に三年の復を給した。州を郡に改め度量衡を古式に復し、上柱国以下の官を大夫に改めた。賢才推挙の詔を出した(周漢の多士得人の故事を引き十科での挙人を命じるもの)。
  • 五月、北巡狩に発し、突厥啓民可汗が子・甥を遣わし来朝、故太師李穆を太牢で祭った。六月、連谷で狩をし、廟宇建立の詔を出した(高祖文帝の功徳を称え別に廟宇を建て月祭を行う旨、天子七廟の礼制に依る旨)。七月、啓民可汗の朝見を受け大宴し百戯を賜り、光禄大夫賀苦弼・礼部尚書宇文弼・太常卿高頴を殺した。尚書左僕射蘇威も坐事で免ぜられた。丁男百余万を発して長城を築き(榆林から紫河まで二旬、死者十五六)、八月に榆林を発ち啓民の帳に幸して厚遇を受け、高麗使者に「早く来朝せねば啓民と共にその地に赴く」と告げた。太原に至り晋陽宮の造営を詔した。九月、東都に至った。

大業四年(608年)

  • 四年正月、河北諸郡の男女百余万を発して永済渠を開き沁水を南は河、北は涿郡に通じさせた。元寿を内史令、楊玄感を礼部尚書とした。三月、五原に幸し出塞して長城を巡り、常駿を赤土に遣わした。四月、汾陽宮を起こした。乙卯の詔で突厥啓民可汗の帰服の誠意を賞し城屋を造営し優遇するよう命じた。七月、丁男二十余万で長城を築き、宇文述が吐谷渾を曼頭・赤水に破った。八月、恒嶽に親祠し河北道郡守を集め大赦、車駕経由の郡県に一年の租調免除。九月、鷹師を天下から征集し東京に万余人が集まった。彗星が五車から文昌を掃い房に至って滅した。冬、孔子後裔を紹聖侯とする詔、周・漢の先代の後を立てる詔(褒立先代の故事を継ぎ周・殷・魏・晋の後を立てる旨)を出した。新式を天下に頒った。

大業五年(609年)――西域巡幸

  • 五年正月、東京を東都と改称し、天下均田の詔を出し、京師に還った。民間の鉄叉搭鉤刃を禁じ、太守に密かな属官査察を課した。二月、古帝王陵と開皇功臣墓を祭る詔を出し、魏・周官の廕を禁じた。三月、河右へ西巡し、扶風の旧宅に幸した。四月、隴西で大猟、高麗・吐谷渾・伊吾が朝貢。臨津関から黄河を度り西平に至って講武した。五月、延山で大猟し囲みは二千里に及んだ。星嶺を度る途中、梁を渡る際に橋が壊れ黄亙ら十人を斬った。吐谷渾主は覆袁川に保じたが元寿・段文振・楊義臣・張壽の四将で包囲、伏允は数十騎で脱出し名王を偽って車我真山に保じた。張定和が討伐に赴くも戦死、亜将柳武建が破って数百級を斬った。仙頭王は十余万口で降った。六月、梁默・李瓊らが吐谷渾主を追撃するも戦死。大鬥拔谷では険路で後宮と離散し士卒の凍死者が大半に及んだ。張掖に至り、高昌王曲伯雅が来朝、伊吾吐屯設らが数千里の地を献じ西海・河源・鄯善・且末の四郡を置いた。三十余国の蛮夷が陪列する盛大な宴を催し、大赦・隴右三年の復を行った。秋、青海渚に馬牧を置き龍種を求めたが効なく止めた。
  • 九月、長安に入り、十月に耆老を優遇する詔(龐眉黄髪の登用と七品以上への廩給)を出した。十一月、東都へ幸した。

大業六年(610年)

  • 六年正月、彌勒仏を自称する盗数十人が建国門から乱入したが齊王暕が斬った。都下の連坐者千余家に及んだ。角抵大戯が端門街で一月開かれ帝はしばしば微行で観た。二月、陳棱・張鎮州が流求を破り俘一万七千を献じ百官に頒賜。功勲による封賜制の詔(自今以後、功勳ある者のみ封を賜り子孫承襲させる旨)を出した。魏・斉・周・陳の楽人を太常に配した。三月、江都宮に幸し、四月に江淮以南の父老を宴した。六月、雁門の賊帥尉文通の乱を鷹揚楊伯泉が破り、江都太守の秩を京尹と同じとした。冬、梁毗・長孫熾・牛弘が相次いで卒し、朱崖の王万昌の乱を韓洪が平定した。

大業七年(611年)――高麗遠征の準備

  • 七年正月、郭衍が卒した。二月、釣台に登り揚子津に大宴。百済が朝貢し、龍舟で通済渠から涿郡に幸した。高麗討伐の詔を出し(籓礼を虧いた高麗を問罪する旨と、河北・山西・山東の高齢者への官職授与)、涿郡の臨朔宮に幸した。姚辯が卒し、五月には民部尚書に樊子蓋を任じた。秋、大水で山東・河南三十余郡が漂没し民は互いに子を売って奴婢とした。底柱山が崩れ水が逆流し、十二月には突厥処羅多利可汗が来朝し優遇された。遼東の戦士と饋運者は道に絶えず、苦役の民は群盗となり始めた。都尉・鷹揚に追捕を命じた。

大業八年(612年)――第一次高麗遠征

  • 八年正月、大軍が涿郡に集結。段文振を左候衛大将軍とし、討伐の詔を出した(版泉・丹浦以来の帝王の用兵の道理を述べ、高麗の朝覲を怠り契丹・靺鞨と結んで辺境を侵した罪状を列挙し、鏤方・長岑・海冥・蓋馬・建安・南蘇・遼東・玄菟・扶余・朝鮮・沃沮・楽浪の左十二軍、粘蟬・含資・渾彌・臨屯・候城・提奚・踏頓・肅慎・碣石・東施・帯方・襄平の右十二軍、計二十四軍と滄海道水軍を発する編成、高元が自ら投降すれば恩を加え罪は元悪に限る旨を述べる長大なもの)。総兵一百十三万三千八百、号して二百万、饋運者はその倍に及び、旌旗は千里に亙り近古出師の盛にして例を見ないものであった。
  • 二月、内史令元寿が卒し、諸行従の家口への振給を詔した。観王雄が薨じ、段文振も卒した。三月、遼水橋で戦端が開かれたが渡河は果たせず麦鉄杖・銭士雄・孟金叉らが戦死。上は自ら遼を度って東岸で賊を破り遼東を囲んだが、諸将は勅命を待つばかりで攻略できなかった。五月、楊達が卒し、六月には上自ら遼東に幸し諸将を責めた。七月、宇文述らが薩水で敗績、右屯衛将軍薛世雄が戦死し九軍が陥り生還者はわずか千余騎、癸卯、班師した。
  • 九月、東都に還り、勲官の文武職事回授を禁じる詔を出した。十月、宇文愷が卒し、宗女を高昌王に嫁がせた。十一月、敗将宇文述・於仲文らを除名し、尚書右丞劉士龍を斬って天下に謝した。この年、大旱疫で山東を中心に多くが死に、江淮南諸郡の童女姿質端麗な者を密かに毎年貢進させる詔が出された。

大業九年(613年)――楊玄感の乱

  • 九年正月、天下の兵を征し驍果を涿郡に募った。杜彦永・王潤らが平原郡を陥し掠奪、折沖・果毅・武勇・雄武等の郎将官を置いて驍果を統べさせた。平原の李徳逸(阿舅賊)、霊武の白榆妄(奴賊)が各地を劫掠、範貴に討伐を命じたが連年克てなかった。大赦し代王侑・衛玄を京師に鎮させた。二月、済北の韓進洛、三月には済北の孟海公も群盗となった。丁男十万で大興城を築き、遼東へ幸し、越王侗・樊子蓋に東都を鎮させた。北海の郭方預(盧公)も三万衆で郡城を陥した。四月、宇文述・楊義臣が平壤城に向かい、五月には済北の甄宝車も群盗となった。
  • 六月、礼部尚書楊玄感が黎陽で反し東都に迫った。裴弘策は敗れ、兵部侍郎斛斯政は高麗へ奔った。上は班師し、李景を後拒として宇文述・屈突通に玄感討伐を命じた。七月、余杭の劉元進も数万で反し、八月、宇文述が閿郷で楊玄感を破り斬り余党も平定された。
  • 呉の朱燮・晋陵の管崇が十万余で江左を寇し(劉元進を天子に推戴)、驍果の家の賦役免除、盗賊籍没の制、賊帥陳瑱の信安郡陥落、司農卿趙元淑の伏誅などが続いた。九月、済陰の呉海流・東海の彭孝才、賊帥梁慧尚の蒼梧郡陥落、東陽の李三兒・向但子の乱と続き、上谷への幸では供費不足に上が怒った。閏月、賊帥呂明星の東郡包囲を費青奴が破り、博陵を高陽郡と改める詔(先王歴試の地としての由緒を述べるもの)を出した。朱燮・管崇は劉元進を天子に推し吐万緒・魚俱羅が討伐に当たったが連年克てず、山東では孟譲・王薄(十余万、長白山拠点)、張金稱、格謙(燕王自称)、孫宣雅(斉王自称)ら各十万規模の群盗が跋扈した。冬、馮孝慈が張金稱討伐で敗死し、楊玄感の弟楊積善らを車裂の刑に処し、扶風の向海明が皇帝を称し白烏と建元して反乱を起こしたが楊義臣が破った。

大業十年(614年)

  • 十年二月、高麗再征を百寮に議させたが誰も進んで発言しなかった。戦没者への祭祀(遼西郡での道場設置と収葬)を詔し、詔の中で「漢王諒は昏凶、高頴は愎狠であった」と前回失敗を総括した。再征の詔(黄帝・成湯の故事を引き高元の不逊を責め、六師分進の方略を示すもの)を出した。扶風の唐弼も十万余で反し李弘を天子に推した。三月、涿郡へ幸し臨渝宮で祃祭を行った。四月、彭城の張大彪の乱を董純が破り、五月には賊帥宋世謨が瑯邪を陥し、延安の劉迦論も皇王を称し反した。六月、賊帥鄭文雅・林寶護らが建安郡を陥し太守楊景祥が死んだ。七月、高麗が降を請い斛斯政の身柄を送ってきたため上は喜び八月に班師、十一月には斛斯政を金光門外で支解した。この頃、賊帥司馬長安が長平郡を破り、離石の胡劉苗王も天子を自称して反した。十二月、上は東都に幸し大赦、賊帥孟讓の都梁宮占拠を江都丞王世充が破った。

大業十一年(615年)――雁門の包囲

  • 十一年正月、突厥・新羅・靺鞨をはじめ諸胡諸国が朝貢した。武賁郎将高建毗が斉郡の顔宣政を破った。二月、賊帥楊仲緒の北平攻撃を李景が破り、王須拔(漫天王、国号燕)・魏刀兒(歴山飛)が各十余万で北は突厥と結び南は趙を寇した。三月、李渾・李敏らが罪により族滅され、太原に幸し汾陽宮で避暑した。
  • 八月、突厥始畢可汗が数十万騎で乗輿を襲おうとし義成公主の急報で車駕は雁門へ馳せたが包囲された。樊子蓋の固諫で突囲策は止まり、齊王暕は崞県に後軍で保った。天下諸郡に募兵の詔を出し九月、突厥は囲みを解いた。この間も彭城の魏騏驎、盧明月(十余万、陳・汝間を寇)、東海の李子通(楚王自称)ら群盗が続発し、絳郡の敬盤陁・柴保昌討伐は連年克てず、譙郡の朱粲(楚帝自称)が漢南諸郡を席巻した。

大業十二年(616年)

  • 十二年、翟松柏の霊丘反乱、真臘の朝貢、東海の盧公暹(蒼山拠点)、甄翟兒(歴山飛の後継、十万で太原を寇し潘長文が戦死)などが続いた。上は江都行幸を決め、奉信郎崔民象・王愛仁が盗賊蜂起を理由に諫めたが両者とも斬られた。馮翊の孫華、高涼の洗宝徹の乱、賊帥趙萬海(数十万で高陽を寇)、東海の杜伏威・沈覓敵(陳棱が破る)、安定の荔非世雄の乱が続き、宇文述が薨じ、鄱陽の操天成(元興王自称)・林士弘(楚国、太平建元)も反乱を起こした。唐公(李淵)は西河で甄翟兒を破った。

大業十三年(617年)――隋末の動乱

  • 十三年、杜伏威の歴陽陥落、竇建徳の河間での長楽王自称(丁丑建元)、徐圓郎の東平郡攻略、劉企成の弘化での蜂起、梁師都の朔方での大丞相自称、劉武周の馬邑での定楊可汗自称、李密・翟讓の興洛倉陥落(李密は魏公と号し倉を開いて賑わせ数十万に膨張、河南諸郡が相継いで陥ちた)、薛挙の隴右での西秦覇王自称と続いた。孟譲の東都外郭侵入と焼亡、李密の迴洛東倉陥落、房憲伯の汝陰郡陥落、裴仁基・趙佗の李密投降と、事態は急速に悪化した。五月甲子、唐公は太原で義師を起こし、突厥の侵入をも撃破した。李軌の武威での涼王自称、唐公の霍邑での宋老生撃破、蕭銑の羅県での梁王自称と続き、彗星が営室に現れた。
  • 十一月丙辰、唐公が京師に入り、辛酉、上を太上皇に遙尊して代王侑を帝に立て義寧と改元した。上は江都に宮を起こし江左へ遜れようとしたが烏鵲が幄帳に巣くい追っても去らず、熒惑が太微を犯し、江に落ちた石の日光が流血のように四散するのを見て甚だこれを忌んだという。

崩御(義寧二年、618年)

  • 二年三月、右屯衛将軍宇文化及・武賁郎将司馬徳戡・元礼・監門直閣裴虔通・将作少監宇文智及・武勇郎将趙行樞・鷹揚郎将孟景・内史舎人元敏・符璽郎李覆・牛方裕・千牛左右李孝本兄弟・直長許弘仁・薛世良・城門郎唐奉義・医正張愷らが驍果を率いて乱を起こし宮闈に乱入した。上は温室で崩じた。享年五十。蕭后は宮人に命じ寝台の簀を撤して棺とし埋葬させた。宇文化及の発した後、右禦衛将軍陳棱が梓宮を成象殿に奉じ呉公台下に葬った。斂の始め容貌はなお生けるがごとくで人々は皆これを異とした。唐が江南平定後、雷塘に改葬した。

人物評

  • 上は元より籓王の身で本来立つべき次でなかったため、常に矯情飾行して虚名を釣り密かに奪宗の計を懐いた。高祖は文献皇后を重んじ妾媵を忌む性であったが、皇太子勇が寵姫を多く持ち愛を失っていた頃、上は後庭に子を得ても育てずに私寵の無きことを示し皇后に取り入った。用事する大臣には心を尽くして交わり、中使が来れば貴賤を問わず顔色を承け厚礼を施し、婢僕までもその仁孝を称えるようにした。文献皇后に密謀を通じ、楊素らの機構を経て廃立が成った。高祖の大漸から諒闇の間にも淫を極め、山陵が就くとすぐさま巡遊に出た。天下太平・士馬全盛の中、秦皇・漢武の事を慕い宮室を盛んに整え侈靡を極めた。行人を諸方に募って絶域に遣わし、恭順せぬ蕃には兵を用いた。玉門・柳城の外に屯田を興し、天下の富室に武馬を市わせその価は疋十余万に及び、富強の家もこのため凍餒する者が十家に九であった。
  • 詭譎を好み行幸先を秘め、四海の珍味を求めさせ豊厚に献じた者は進擢し疎儉な者は罪を受けたため奸吏の侵漁が内外を虚しくした。軍国の事は日ごとに増え上は驕怠を深め政事を厭い、冤屈は理されず奏請も決せられなかった。臣下を猜忌し専任することなく、高頴・賀若弼ら先皇の心膂、張衡・李金才ら籓邸の旧臣も、その直道正義を憎まれ無形の罪を求められ族滅・死罪に処された。政刑は弛紊し賄賂が公行しても誰も言わず、六軍は息まず百役が繁興して人は飢えて相食み邑落は墟となったが上はこれを恤まなかった。東西の行幸に定居なく供費不足を理由に数年の賦を先取りし、行く先々で後宮と耽湎し、姥媼を招いて醜言を交わし少年を宮人と穢乱させる遊びに耽った。区宇には盗賊が蜂起したが近臣は互いに賊の数を隠して実を奏さず、言う者は詰責され上下相蒙じた。出師のたびに敗亡が相継ぎ、戦士に賞なく百姓は屠戮を受けた。蒸庶の怨みは積もり天下は土崩したが、禽にされる時に至ってもなお悟らなかった。

恭帝――即位と禅譲

  • 恭皇帝は諱を侑、元徳太子の子で母は韋妃。聡敏で気度があり、大業三年、陳王に立てられ後に代王に徙された。煬帝の遼東親征に際し京師の総留事を命じられ、十一年には晋陽に従い太原太守を拝しまもなく京師を鎮めた。
  • 義兵が長安に入ると煬帝を太上皇に尊して帝の大業を継がせた。義寧元年十一月壬戌、大興殿で即位。詔(幼くして憫凶に遭い太尉唐公の翼戴で帝位に即いた経緯を述べるもの)を出し大赦、大業十三年を義寧元年と改元した。甲子、唐公を仮黄鉞・使持節・大都督内外諸軍事・尚書令・大丞相とし唐王に進封、丙寅にも詔(軍国の機務・文武の任免を丞相府に委ねる旨)を出した。己巳、唐王の子建成を唐国世子、世民を秦公、元吉を斉公とし太原に鎮北府を置いた。
  • 乙亥、張掖の康老和が反した。十二月、薛挙が天子を自称し扶風を寇したが秦公(世民)が破った。桂陽の曹武徹の乱、義師による屈突通の生擒、賊帥張善安の廬江郡陥落も続いた。
  • 二年正月、唐王に剣履上殿等の特礼を詔した。王世充が李密に敗れ孟善誼・王辯・楊威・劉長恭・梁徳・董智通が戦死、河陽郡尉独孤武都が李密に降った。三月丙辰、右屯衛将軍宇文化及が江都宮で太上皇(煬帝)を弑し、独孤盛が戦死、斉王暕・趙王杲・燕王倓・宇文協・虞世基・裴蘊・許善心らも遇害した。化及は秦王浩を帝に立て自ら大丞相を称し、朝士文武はその官爵を受けた。麦才・沈光らの反撃は失敗に終わった。
  • 戊辰、唐王への九錫の礼を詔し、五月には十二旒の冕・天子旌旗等を詔した。戊午、譲位の詔(太上皇の江都での遇難を悼み、唐王への大運の帰趨を述べ、旧邸に遜って唐朝に事を委ねる旨)を出し、この日、上は大唐に位を遜り酅国公とされた。
  • 武徳二年夏五月、崩じた。享年十五。

  • 史臣曰く。煬帝は弱齢にしてすでに志向を有し、南は呉会を平らげ北は匈奴を却け、昆弟の中でも独り功績が著しかった。ここに矯情飾貌して奸回を肆にし、文献皇后の心を得て高祖の考えを変えさせ、天がまさに乱を起こそうとする時に儲貳(皇太子)の位に登った。峻極の栄基を践み丕顕の休命を承け、地は三代よりも広く威は八紘に振るった。単于は頓顙し越常も重訳して来た。赤仄の泉は都内に溢れ紅腐の粟は塞下に積まれた。その富強を恃んで無厭の欲を逞しくし、殷周の制度を狭しとし秦漢の規摹を尚び、才を恃み己を矜り明徳を傲狠した。内には険躁を懐き外には凝簡を示し、冠服を盛んにしてその奸を塞ぎ諫官を除いてその過ちを掩った。淫荒は度なく法令はますます明らかにされ、教えは四維を絶ち刑は五虐に参じた。骨肉を誅鋤し忠良を屠劓し、賞を受けた者もその功を知られず戮された者もその罪を知られなかった。
  • 驕怒の兵はしばしば動き土木の功も息まず、しばしば朔方に出て三たび遼左に駕した。旌旗は万里に及び征税は百端に亙った。猾吏の侵漁に人は命に堪えられず、急令暴賦で擾し厳刑峻法で臨み甲兵威武で董したため、海内は騒然として生を楽しめなくなった。やがて楊玄感が黎陽で乱を起こし、匈奴には雁門の囲みがあった。天子はまさに中土を棄て揚・越へ遠ざかり、奸宄は釁に乗じ強弱相陵ぎ、関梁は閉じて通ぜず皇輿は往ってなお還らなかった。師旅に加えて饑饉が重なり、道路に流離し溝壑に転死する者は十に七、八に及んだ。ここに雚蒲に相聚まり猬毛のごとく蜂起した。大なる者は州郡を跨ぎ帝王を称し、小なる者も千百で群れをなし城を攻め邑を剽った。流血は川沢をなし死人は乱麻のごとく、炊ぐ者は骸を析くいとまなく食う者は子を易える余裕もなかった。茫々たる九土はすべて糜鹿の場となり、惵々たる黔黎はみな蛇豕の餌に充てられた。四方万里に檄書が相継いだが、鼠竊狗盗と侮り憂うるに足らずとし、上下相蒙じて乱を念う者もなかった。蜉蝣の羽を振るい長夜の楽を窮め、土崩魚爛して悪は極まった。普天の下ことごとく仇讎となり左右の人も皆敵国となったが、終に悟らず望夷の轍を踏み、万乗の尊をもって匹夫の手に死んだ。億兆に感恩の士なく九牧に勤王の師なく、子弟も共に誅夷され体骨は棄てられて掩われなかった。社稷は顛隕し本枝は殄絶した。書契の始めよりこのかた、宇宙の崩離・生霊の塗炭・喪身滅国のこれほど甚だしい例はかつてなかった。
  • 『書』に曰く「天作孽は猶違うべし、自作孽は逭る可からず」と。『伝』に曰く「吉凶は人による、妖は妄りに作らず」と。また曰く「兵は猶火のごとし、戢めざれば将に自ら焚かれん」と。隋室の存亡を観るに、この言はまさに証しとなろう。
  • 恭帝は幼沖の年にして家の艱難に遭った。一人(煬帝)が徳を失うや四海は土崩し、群盗は蝗のごとく起こり豺狼が路を塞いだ。南巣(煬帝の江都行)はついに帰らず、流彘(放逐の身)のまま終わった。すでに百六の期に鐘り自ら数終の運を践んだ以上、謳歌の帰するところは変わり笙鐘の響きも改まった。堯・舜の跡を遵わずにいようとしても、どうしてそれが叶うであろうか。