北齊書卷三十四 列傳第二十六 楊愔

楊愔は字は遵彦、弘農華陰の人。魏末の動乱で一族の多くを失うが高歓に見出され、高氏政権下で吏部尚書・尚書令を歴任し人材登用を統括した名臣。文宣帝没後に廃帝擁立を主導したが、常山王・長広王らの政変により孝昭帝の名の下で誅殺された。

年表(8件)
  • 正光中父に従い并州へ赴き、山中で読書に励む
  • 孝昌初め軍功により羽林監・魏昌男を授けられるが拝命せず
  • 永安初め通直散騎侍郎を拝す。時に十八歳
  • 武定末望実により吏部尚書に抜擢される
  • 天保初め太子少傅を領し陽夏県男に別封される
  • 天保九年尚書令となる
  • 天保十年開封王に封じられる
  • 乾明元年孝昭帝により誅殺される。享年五十

幼少期と一族

  • 楊愔は字は遵彦、小名は秦王、弘農華陰の人。父の楊津は魏で司空・侍中を歴任した。愔は幼くして口が重く見えたが風度は深く敏く、出入りに軽々しさがなかった。六歳で史書を学び、十一歳で詩・易を受け、『春秋左氏伝』を好んだ。幼くして母を喪い、舅の源子恭を訪ねて酒を酌み交わした際、何の書を誦しているかと問われ「詩」と答え、子恭が「渭陽(父母を思う詩)まで誦したか」と問うと愔は号泣し、子恭も歔欷して酒宴を止めた。子恭は後に津に「秦王(愔)はさほど聡明でないと思っていたが、今後は見方を改めよう」と語った。
  • 楊家は一門四世同居で家運は隆盛し、就学する昆弟は三十余人に及んだ。学庭前の柰の木の実が落ちると子らが争って拾う中、愔だけは頽然と座って動かず、季父の楊暐がこれを見て「この子は恬淡で我が家の風がある」と一族に語り、宅内の茂竹のそばに別室を与え銅盤の食事を供して独居させ、他の子らには「お前らも遵彦のように謹慎であれば竹林の別室・銅盤の食を得られる」と督励した。
  • 従父兄の黄門侍郎楊昱は特に愔を高く評価し「この子は駒歯が未だ落ちぬのに我が家の龍文(英才)だ、十年後には千里の外にも求められる人材になろう」と語り、十余人での賦詩の会で愔が一覧して全て暗誦できたことにも驚いた。成長するにつれ清言・美声・風神俊悟で容止見事となり、人々に敬異され、識者は皆その遠大さを認めた。

乱世の彷徨

  • 正光中、父に従い并州へ赴き、山水を好んで晋陽の西県甕山に籠って読書した。孝昌初め、父の津が定州刺史となると軍功で羽林監・魏昌男を賜ったが拝命しなかった。中山が杜洛周に陥ちると一家は囚われ、洛周が滅びると再び葛栄に捕らわれた。栄は娘を娶らせようとし偽職を強いたが、愔は病と偽り牛血を含んで人前で吐き喑(唖)を装って免れた。
  • 永安初め、洛陽に戻り通直散騎侍郎を拝した時、年十八。元顥が洛陽に入った際、従父兄の楊侃が北中郎将として河梁を鎮めており、愔がその下にいた折、乗輿(帝)が守りを失い夜に河へ至ると、侃は表向き車駕を北へ渡す一方で密かに南へ逃げようとしたが、愔は固く諫めてこれを止め、共に建州まで扈従した。通直散騎常侍を拝したが、世情がまだ治まらず退隠を志し、病と称し友人の中直侍郎邢邵とともに嵩山に隠棲した。
  • 荘帝が爾朱栄を誅した際、従兄の楊侃は朝廷の枢機に参画したため、父の津は并州刺史・北道大行台とされ、愔も随行した。邯鄲の楊寛という者が義従として愔に藩を出ることを願い、愔が津に納めるよう請うたことがあった。まもなく孝荘帝が幽閉され崩じると、愔は都へ帰る途中、邯鄲で楊寛の家に立ち寄ったところ寛に捕らえられた。相州刺史劉誕は愔の名門たることを哀れみ、長史慕容白澤に預けさせ、隊主鞏栄貴に護送させたが、安陽亭で愔は栄貴に「私の家は代々忠臣で魏室に忠誠を尽くしてきたが、家は亡び国は破れこの有様だ。囚われの身とはいえ、また君父の讐を見る顔もない。自ら縊れて首を伝えさせるのが君への恩返しだ」と語り、栄貴は深く憐れんでともに逃げた。
  • 愔は高昂兄弟のもとに身を投じ、潜行の末に神武(高歓)が信都に至るとその陣門に投刺し、拝謁を許されて興運を賛じ、家禍を訴え言辞は哀壮で涙を流した。神武はこれに感じ入り行台郎中に任じた。大軍が鄴を攻めた際、楊寛の村を通ると寛は馬前に叩頭して罪を請うたが、愔は「人が恩義を弁えぬのはよくあること、恨みはしない」と言い驚かせぬようにした。鄴が未だ落ちぬ折、神武は愔に祭天文を作らせ、燎の儀が終わると同時に城が陥落したため、大行台右丞に転じた。
  • 覇業の草創期、軍国の文檄・教令は皆愔と崔㥄が起草した。家難に遭って以来、常に喪礼を自ら守り塩と米のみを食し哀毀して骨立するほどであった。神武はこれを愍み常に慰めた。韓陵の戦いでは愔が毎陣先登したため、同僚は「楊氏の儒生が武士となった、仁者は必ず勇なりというのは虚論ではなかった」と驚嘆した。
  • しばらくして辞職して喪に服し葬儀を行うことを願い出た。一門のうち贈られた太師・太傅・丞相・大将軍は二人、太尉・録尚書及び中書令は三人、僕射・尚書は五人、刺史・太守は二十余人に及び、追栄の盛んさは古今未曾有であった。柩の発進の日は吉凶の儀衛が二十余里にわたり、会葬者は万人に及んだ。折しも隆冬で風雪激しかったが愔は跣足で号泣し、見る者は皆哀しんだ。まもなく晋陽に召され本職に留まった。
  • 従兄の楊幼卿が岐州刺史として直言により誅されると、愔はこれを聞いて悲しみ発病した。休暇を取り雁門温湯で療養した際、郭秀が愔の才を妬んで「高王がお前を帝の元へ送ろうとしている」と脅し逃亡を勧めたため、愔は衣冠を水辺に棄てて入水を装い、名を変え「劉士安」と称して嵩山に入り沙門曇謨徴らと隠棲、さらに光州へ潜み東の田横島に渡り講誦を業とした。海隅の人々は「劉先生」と呼んだ。太守の王元景(王昕)は密かにこれを庇護した。
  • 神武は愔が存命と知り、従兄の楊宝猗に書を持たせ慰喩し、光州刺史奚思業に礼を尽くして送らせた。神武は喜んで太原公開府司馬に任じ、のち長史に転じ、さらに大行台右丞・華陰県侯に封じ、給事黄門侍郎に遷り庶女を妻とした。兼散騎常侍として梁への聘使主使となった際、碻磝戍の州内にあった愔の家の旧仏寺で太傅(父津)の容像を礼拝し、悲しみのあまり血を吐いて発病し使を果たせず輿で鄴に戻った。

高氏政権での栄達

  • 本官のまま尚書吏部郎中を兼ね、武定末には望実の美をもって吏部尚書に抜擢され侍中・衛将軍を加え選挙を統轄した。天保初め、本官のまま太子少傅を領し陽夏県男に別封され、監太史も詔された。尚書右僕射に遷り太原長公主(魏孝静帝の后)を娶り、雉が舎に集まる瑞に因み開府儀同三司・尚書右僕射を拝し華山郡公に改封、九年には尚書令、さらに特進・驃騎大将軍を拝し、十年には開封王に封じられた。
  • 文宣帝の崩御に際し百官で涙を流す者がなかった中、愔だけは悲しみに堪えなかった。済南王(廃帝)の即位で任遇はますます重くなり、朝章国命は愔一人が担った。乾明元年二月、孝昭帝によって誅殺された。享年五十。天統末に司空を追贈された。

人柄

  • 貴公子として早くから名声を得、風采と鑑識眼で朝野に称された。家門が禍を受けた後、二人の弟と一人の妹、兄の孫娘数人だけが残り、愔は慈しみ深く撫養した。義を重んじ財を軽んじ、賜与の多くを親族に分け与え、群従の弟姪十数人が皆その庇護のもとで暮らした。頻繁に危難に遭ったが、一飯の恩にも必ず厚く報い、生死に関わる仇にも寛容であった。
  • 二十余年にわたり選挙を典掌し人材の登用を己の任としたが、多くは言葉や容貌で判断したため「愔の用人は貧士が市で瓜を選ぶように、大きいものばかりを取る」と誹られたが、愔は意に介さなかった。記憶力に優れ半面の識でも忘れず、召し問う際は姓か名のみで誤ることがなかった。選人の魯漫漢が「賎しい身の上ゆえ見知られていない」と言うと、愔は「以前、元子思坊で禿尾の草驢に乗り私に会っても下りず、麹の粉で顔を隠していただろう、どうして知らぬはずがあろうか」と答え漫漢は驚服した。
  • 吏が人名を読み違え盧士深を士琛と呼んだ際、士深自ら訂正すると愔は「盧郎は玉の潤いゆえ玉偏を用いるのだ」と即答した。公主に尚してから紫羅の袍と金縷の大帯を着けたが、李庶に対して恥じ「この衣服は宮中で仕立てられたもの、あなたに会うと心苦しい」と語った。
  • 端揆の位に居て機衡の要務を統べても神は滞ることなく、天保五年以降、一人の徳臣として国を維持し匡救した功が大きかった。天子臨軒の折の詔冊宣揚では、愔の辞気温辯・神儀秀発ぶりに百官が悚動した。大位に居ながら私交を絶ち財を軽んじ仁義を重んじ、賜与を九族に散じ、蓄えは書数千巻のみであった。
  • 隣家の太保平原王高隆之の門前に富胡(富裕な西域商人)が出入りするのを見て「我が門前に幸いこの類がない」と語るなど周密で慎み深く、常に足りぬかのように振る舞い、任命の報を聞くたびに顔色を変えた。

廃帝擁立と失脚

  • 文宣帝の崩御が近づくと、常山王(演)・長広王(湛)の地位・威望が親しく重く迫っていることを深く憂い、愔は尚書右僕射平秦王高帰彦・侍中燕子献・黄門侍郎鄭子黙とともに遺詔を受けて輔政したが、両王の威望を猜忌する心を抱いていた。
  • 晋陽で大行(先帝)が殯にある間、天子が諒闇にある間は、常山王を東館に置き奏事を先に諮決させようとしたが、二十日で中止された。さらに常山王を梓宮に随わせ鄴へ、長広王を晋陽に留めて鎮めようとしたところ、執政はさらに疑いを深め、両王ともに鄴へ来ることとなった。鄭子献は太皇太后を北宮に処し政を皇太后に帰すことを計った。
  • 天保八年以来、爵賞が濫れていたため、愔はまず自ら開封王を解くと表し、恩寵を窃取していた者を皆黜免させた。これにより寵愛と職を失った者たちは皆二叔(常山王・長広王)に心を寄せた。高帰彦も初めは同心であったが後に離反し二王に密告し、可朱渾天和も「二王を誅さねば少主に安寧はない」と繰り返し進言した。宋欽道は帝に直接「二叔の威権が重すぎる、速やかに除くべき」と奏したが帝は許さず「令公(愔)とともに詳議せよ」と答えた。
  • 愔らは二王を刺史として外へ出す案を議したが、帝の仁慈さゆえに不可能と判断し、皇太后に安危を具申した。宮人の李昌儀(高仲密の妻で仲密の事件により入宮していた)が太后の側近であったため、太后がこの啓を見せると昌儀は密かに太皇太后に告げた。
  • 愔らは二王を共に出すことはできぬと議し、長広王を大司馬・并州刺史、常山王を太師・録尚書事として奏した。両王が尚書省で拝職する大会に、愔らも同席しようとした際、鄭子黙が「事は測れない、軽率に行くべきではない」と止めたが、愔は「我らは至誠で国に仕えている、常山王の拝職に赴かぬ理由があろうか」と言って赴いた。
  • 長広王は事前に数十人の家僮を録尚書後室に伏せ、席上の勲貴数人とも通じており、諸勲胄に酒を勧める際「愔らに双杯を勧め、辞退したら一杯目は『捉酒』、二杯目も『捉酒』、三杯目に応じねば『何ゆえ捉えぬ』と言って捕らえよ」と約していた。宴でその通りに行われると、愔は「諸王が謀反し忠良を殺そうとするのか、天子を尊び諸侯を削るなど許されぬ」と大声で叫んだ。常山王は事を緩めようとしたが長広王は「不可」と答えた。
  • 愔・天和・欽道は皆拳杖で乱打され頭面から血を流した。鄭子黙は尚薬局で薛孤延・康買に捕らえられ「智者の言を用いなかったからこうなった、これも運命か」と嘆いた。二叔は高帰彦・賀抜仁・斛律金らを率いて愔らを擁し雲龍門に突入し、都督叱利騒がこれを見て招いても進まず、騎兵に殺された。開府成休寧が門を拒んだが帰彦がこれを説得して入った。

誅殺の経緯

  • 愔らは御前に連行され、長広王・帰彦は朱華門外に、太皇太后は昭陽殿に臨み、太后と帝は側に立った。常山王は塼で叩頭しながら進み出て「臣は陛下と骨肉相連なる仲、楊遵彦らは朝権を専らにし威福を自らのものにし、王公は皆足を重ね息を潜め互いに唇歯の関係を作り乱の階を成そうとしています。早く図らねば宗社の害となりましょう。臣と湛(長広王)らは国事を重んじ、賀抜仁・斛律金らも献皇帝の基業を惜しみ、共に遵彦らを捕らえ宮中に連れて参りましたが、未だ刑戮を加えておりません。専擅の罪は万死に値します」と述べた。
  • 帝はしばらく黙していた。領軍劉桃枝らが陛衛して刀を仰ぎ帝を窺うが、帝はこれに目もくれなかった。太皇太后が仗を退けるよう命じても従わず、太皇太后が厲声で「奴輩、今すぐ首を落とせ」と命じてようやく退いた。「楊郎はどこにいる」と問うと賀抜仁が「一目はすでに潰しました」と答え、太皇太后は「楊郎は何の能があってこのような目に」と痛惜し、帝を責めて「この者どもは我が二児を殺そうとし、次は私にも及ぶところだった、なぜこれを放っていたのか」と詰った。帝はなお言葉を発せず、太皇太后は怒りと悲しみに沈み、王公は皆涙した。
  • 太皇太后は「私たち母子に漢の老嫗(自らを卑下する言葉)の如き扱いを受けさせるのか」と怒り、太后は謝罪し常山王は叩頭を止めなかった。太皇太后が帝に「叔父を慰めよ」と言うと、帝はようやく「天子でさえ叔父を惜しめないのに、この漢輩(愔ら)の性命など惜しめようか、私は殿から降りるゆえ叔父の処分に任せる」と語り、愔らは皆斬られた。
  • 長広王は鄭子黙がかつて自分を讒言し詔書を作ったとして先に舌を抜き手を截った。太皇太后は愔の喪に臨んで哭し「楊郎の忠は罪に問われるべきものではなかった」と語り、御金で目を模して「これで私の意を表す」と言った。常山王もこの殺害を悔いた。
  • 先立ってこの事を予言する童謡があった。「白羊は頭尾を秃らし、羖䍽は頭に角を生ず」「羊よ羊よ野草を食え、食わねば道は遠からず、爾の脳を打つ」また「阿麽姑禍あり、道人姑夫死す」とも歌われ、羊は愔を、角の文字は「刀を用いる」を意味し、道人とは廃帝の小名で、太原公主がかつて尼となったため「阿麽姑」と呼ばれた。愔・子献・天和はいずれも帝の姑夫にあたる。
  • 天子の名で罪を下す詔が出されたが、罪は本人一身に限られ家族は問わないとされたものの、まもなく五家の財産を没収する令が下された。王晞が固く諫めたため、各家一房だけを残し孩幼の兄弟は皆除名にとどめた。遵彦(愔)の死後、中書令趙彦深が政務を総覧した。鴻臚少卿陽休之は私かに「千里を行こうとして騏驥を殺し蹇驢に策打つようなもの、悲しいことだ」と語った。愔の著した詩賦・表奏・論議は多かったが、誅殺後に散逸し、門生が集めて得たものは万余言であった。