北齊書卷三十三 列傳第二十五 徐之才

徐之才は丹陽の人。幼少より神童と称され、医術と弁舌に優れた。北斉の禅代を天文図讖の学で後押しした功臣であり、歴代皇帝の侍医として重用され、機知に富む逸話で知られる。享年八十で没した。

年表(7件)

出自と才知

  • 徐之才は丹陽の人。父の徐雄は南斉に仕え蘭陵太守となり、医術で江左に称された。之才は幼くして俊才を発揮し、五歳で『孝経』を誦し、八歳でその大意を理解した。
  • 従兄の徐康と梁の太子詹事、汝南の周捨の宅を訪れ老子の講義を聴いた際、捨が食事を用意して「徐郎は義を考えず食事にばかり熱心だな」とからかうと、之才は「聖人は心を虚しくして腹を実にすると聞きます」と答え、捨は感嘆した。
  • 十三歳で太学生に召され、粗く礼記・易に通じ、彭城の劉孝綽・河東の裴子野・呉郡の張嵊らと周易や喪服の儀を論じ、応答は響きの如く速く、皆「神童だ」と称えた。孝綽は「徐郎は燕頷で班定遠(班超)の相がある」と評した。
  • 陳郡の袁昻が丹陽尹となり主簿に招かれると、政務に関する諮問を一手に受けた。郡廨が火事に遭った夜、之才が衣を着けず紅衣を纏って月光を映して出てきたのを咎められ免職を求められたが、昻はその才を惜しみ特に許した。
  • 豫章王綜の江都鎮出立に伴い豫章王国右常侍に任じ、綜の鎮北主簿に転じた。綜が西魏に入り軍が潰走した際、之才は呂梁で橋が絶たれ道が断たれたため魏の統軍石茂孫に留められ、綜は魏に入り司空にまで至った。魏が綜の旧臣を招く際、綜が之才の医術と機弁を推薦したため、孝昌二年、洛陽に召され南館に住み厚遇された。従祖の徐謇の子、徐践が之才を宅へ帰そうと啓したが、之才の薬石は多く効を奏し、経史にも通じ弁舌が巧みで朝賢に引き立てられ名声を得た。武帝の時、安昌県侯に封じられた。

禅代を後押しした弁舌

  • 天平中、斉神武(高歓)が晋陽へ召し内館で厚遇された。武定四年、散騎常侍から秘書監に転じたが、文宣が丞相となり人事を大きく動かした際、楊愔が「南土の人は秘書を典じるにふさわしくない」として金紫光禄大夫に転じさせ魏収に秘書を代領させたため、之才は大いに不満であった。
  • 之才は天文・図讖の学にも通じ、館客宋景業と吉凶を参校し「午年に必ず革命がある」と説き、高徳政を通じて文宣に啓上され喜ばれた。当時、婁太后や勲貴の多くは「関西(西魏)は強敵、天子を奉じて諸侯に令する口実を与えかねない、先に事を行うべきではない」と論じたが、之才は独り「千人が兎を追っても一人が得れば衆心も止む、大業を定めるべき今、あえて人に学ぶ必要があろうか」と反論し証拠を挙げて説得し、帝はこれに従った。
  • 即位後、之才は医術のみならず禅代を最初に唱えた功でも重んじられ、戯謔滑稽な言も好んだため親昵の度は増し、侍中・池陽県伯に封じられた。文宣の政令が厳しくなると出て趙州刺史を求めたが赴任は許されず、なお弄臣として仕えた。皇建二年、西兖州刺史に任じられたが赴任前に武明皇太后が病むと之才が治療しすぐに癒えたため、孝昭帝は綵帛千段・錦四百匹を賜った。之才は外に出されても間もなく召還され医術で名を高めた。

逸話と武成期の信任

  • 大寧二年春、武明太后がまた病んだ際、之才の弟の之範が尚薬典御として診候したが、俗忌を避けるため太后を「石婆」と呼ぶよう命じられていた。之範が之才に「童謡に『周里跂求伽、豹祠嫁石婆、斬冢作媒人、唯得一量紫綖靴』とあり、今太后が改名されたのを怪しんでいる」と話すと、之才は「跂求伽は胡言で『去りぬ』の意、豹祠が石婆に嫁ぐとは吉事ではない、斬冢とは合葬のこと、紫綖靴が意味するのは四月まで」と解き、その通り四月一日に太后は崩じた。
  • 脚の踵が腫れ痛む患者を他医が診断できなかったところ、之才は「蛤の精の病、船に乗り足を海水に浸したためだ」と当て、削ると蛤の子が二つ出た。骨で作った刀の柄が五色まだらなことを不思議がる者には「これは人の瘤だ」と答え、古墳の髑髏の額骨から作ったものだと判明した。その明敏さはこの類が多かった。
  • 天統四年、尚書左僕射に累遷し、兖州刺史として鐃吹一部を特に給された。武成帝は酒色に耽り恍惚として不安定な状態が続き、之才の医術に最も頼った。武成帝が空中に五色の物が見え、美婦人となり観世音に変じる幻覚を見た際、之才は「これは色欲過多による」と診断し湯薬で治療し、数剤で快癒させた。帝が発病するたび騎馬で之才を追わせ、針薬は必ず即効した。
  • 秋になり武成帝が小康を得ると、和士開は之才を兖州の本籍に依って赴任させたが、十月に帝が再発すると「之才を外任させたのは失敗だった」と悔い、駅で召還させたが之才が到着する前の十日に帝は崩じ、之才は十一日に到着し間に合わなかった。之才は州に戻り、法理には疎慢だが自由な統治を行った。
  • 後主が之才を左僕射の欠員に呼び戻すと「禹の後を継ぐようなものだ」と語った。武平元年、再び尚書左僕射となり、和士開・陸令萱母子に極めて卑屈に阿ったため篤く庇護され、尚書令に遷り西陽郡王に封じられた。祖珽が執政すると之才は侍中・太子太師に転じられ「子野(祖珽の呼称)が私を淘汰した、珽は目疾のため師曠(盲目の楽師)に喩えたのだろう」と恨みを漏らした。

機知の逸話

  • 聡辯で強記、人に倍する敏さで劇談謔語を好み、公私の集まりで多く相手を戯弄した。鄭道育が之才を「師公」と呼んでからかうと「お前の師であり公でもある、三従の義を一身に兼ねてしまうな」と答えた。王昕の姓をからかった者には「言をつければ狺(犬の吠え声)に近く、犬に近くて狂となる、頸足を加えれば馬となり、角尾を施せば羊となる」と応じた。盧元明が「卿の姓は人が未だ入っていない」(盧=虐に通じる字戯れ)と戯れると「卿の姓は亡に在れば虐、丘に在れば虚、生まれた男は虜、馬を養えば驢となる」と即答した。
  • 朝士と出遊し犬の群れを見て「何の犬か」と問われると「宋鵲か韓盧か、李斯を逐って東走するか、帝女を負うて南に徂くか」と応じた。李諧が広座で父の名を呼び「熊の脂身を好むか」と之才を試すと「平々耳(平凡だ、また父の名にかけた洒落)」と応じ、「この言葉は道理に適うか」と問われると諧はその場を避けた。李諧の甥高徳正が「舅上、顔色が優れませぬね」と問うと訳を語られ、あえて熊の脂身を求める席を設けたところ、之才は「箇人(あの人)の諱を知らぬ者はいない」と揶揄した。
  • 唐邕・白建が権勢を誇り「并州赫赫、唐と白」と言われると、之才は彼らを軽んじ、元日に令史たちの祝賀に「卿らの位は唐白になれるように」と皮肉った。小史が筆を噛む癖を見て、筆管を元文遥の口に当て「君の歯を借りる」と言った。武成帝に生える親知らず(齻牙)について尚薬典御鄧宣文が正直に答えて怒られたが、之才は「これは智牙、生える者は聡明長寿」と祝賀し武成帝は喜んだ。
  • 僕射となった際「私は江東で徐勉が僕射だった頃、朝士は皆彼にへつらったのを見た。今、私も徐僕射だが誰も私にへつらわない、どうやって生きればよいのか」と語った。妻は魏広陽王の妹で、文襄に願って娶ったが、和士開はこれを知ると密かに妻と通じ、之才は目撃しても避け「若い者の戯れ、その放縦さも一興」と流した。享年八十で没し、司徒公・録尚書事を追贈され、諡は文明。長子の徐林は太尉司馬、次子の同卿は太子庶子。之才は林に学術がないことを歎じ「終には広陵散(絶えた曲)のようになろう」と語った。弟の之範も医術で知られ太常卿に至り、之才の西陽王の爵を特に襲うことを許され、北周に入り儀同大将軍を授けられ開皇中に没した。