北齊書卷二十九 列傳第二十一 鄭述祖

出自と兖州刺史

  • 字は㳟文、滎陽開封の人。祖父の鄭義は魏の中書令、父の鄭道昭は魏の秘書監。述祖は聡敏で文章を好み、風格があり先達に称された。司空行参軍から起家し、天保初め太子少師・儀同三司・兖州刺史に累遷した。
  • 巡省使の穆子容は「古人は伯夷の風を聞けば貪夫も廉になり懦夫も志を立てるというが、今鄭兖州にそれを見た」と嘆じた。
  • かつて父の鄭道昭が兖州にいた頃、城南の小山に斎亭を建て碑を刻んだが、述祖が九歳の時のことであった。刺史となって旧跡を訪ねると、破損した碑に「中岳先生鄭道昭の白雲堂」の銘があり、述祖はこれを見て嗚咽した。
  • 市で布を盗んだ者を父が捕らえて府に引き渡すと、述祖は特にこれを許した。以後、境内に盗みをする者はなくなり、人々は「大鄭公、小鄭公、去ること五十年にして風教なお同じ」と歌った。
  • 述祖は琴に長じ、自ら「龍吟十弄」を作曲したと伝わり、夢で人が弾く琴を写し取ったものだという。至る所に山池・松竹を配し、賓客をもてなすことを楽しみとした。
  • 未だ貴顕でなかった頃、単騎で外出中に数百騎の一団に遭い、皆下馬して敬礼したが、述祖が従者に尋ねても誰も見えなかったといい、心中これを怪しんだ。まもなく召されて顕位を歴任した。
  • 病篤くなると自ら「わしは老いた。一生の富貴は足りた。清白の名を子孫に遺せば死んでも恨みはない」と語り、州で没した。
  • 娘は趙郡王叡の妃となり、述祖は常に王の拝を受ける座にあった。妃が薨じた後、王は鄭道蔭の娘を娶ったが、王は道蔭の拝を受けるまで座らず、道蔭に「鄭尚書ほどの風徳ある人物にはお前を比べられぬ」と語った。

鄭元徳・鄭元礼(鄭述祖の一族)

  • 子の鄭元徳は多芸で、官は琅邪守に至った。
  • 元徳の従父弟の元礼は字は文規。学を好み文藻を愛し名望があった。世宗に館客として招かれ太子舎人を歴任。崔昂の妻は元礼の姉であり、魏収もまた崔昂の妹婿であった。元礼が数篇の詩を盧思道に示すと、思道は魏収に「元礼の近頃の詩詠は劣らぬのでは」と言い、収は「元礼が魏収より優れているとは思わぬが、妹婿が婦弟に劣るとは知らなかった」と答えた。元礼は西魏に降り始州別駕として没した。