北齊書卷二十八 列傳第二十 元孝友
元孝友、魏の太武帝の玄孫。兄の臨淮王元彧に子がなく、その爵を継いだ。滄州刺史などを歴任し、政は寛容だが清廉ではなかった。閭制の改革や一夫多妻の復活を説く上表で知られる政論家肌の宗室。北斉受禅後は臨淮県公に降封され、天保二年に元暉業とともに処刑された。
元孝友
- 元孝友、祖父は魏の太武皇帝。兄の臨淮王元彧に子がなく、孝友にその爵を襲がせた。累遷して滄州刺史となり、政は温和で小恵を行うことを好み、清廉ではなかったが百姓を侵犯しなかったので、これもまた百姓にとって便であった。
- 魏の静帝が文襄を宴した際、孝友は酔って自らを誉め、「陛下は臣に能を賜うと約束された」と言うと、帝は笑って「朕はいつも王が自分は清廉だと言うのを聞いている」と答えた。文襄は「臨淮王は勅旨を奉じて罪を舎てられた」と言い、君臣ともに笑い罪に問わなかった。孝友は政理に明るく、かつて上表して次のように述べた。
- 「今の制では百家を党族、二十家を閭、五家を比隣とし、百家のうちに帥が二十五人おり、徴発から皆免れているため、苦楽が均しくない。羊少なく狼多いようなもので、蚕食の弊が久しく続いている。京邑の坊は七、八百家であっても里正・二史だけで庶事に欠けないのに、まして外州においてをやである。旧の三正の名を改めず、百家を四閭とし閭に二比を置くよう請う。族ごとに十二丁少なくなり十二匹の貲絹が得られ、およそ現管の戸は二万余族、一年で貲絹二十四万匹が出、十五丁を一番兵とすれば一万六千の兵が得られる。これは富国安民の道である。」
- 「古の諸侯は九女を娶り、士は一妻一妾。晋令では諸王に妾八人、郡君侯に妾六人を置き、官品令の第一・第二品には四妾、第三・第四品には三妾、第五・第六品には二妾、第七・第八品には一妾とする。これは陰教(後継ぎのための教え)を修め嗣を継ぐためであり、嗣を広めるのが孝、陰教を修めるのが礼である。しかし聖朝はこの制度を久しく忘れ、将相は多く公主を娶り、王侯は后族を娶るため妾媵を持たず、これが慣習となっている。婦人は不幸にも今の世に生まれ合わせ、朝廷全体が妾を持たないため、天下はほぼみな一妻となっている。もし人が志を強くして広く娶ろうとすれば、家道は離散し、身の事は行き詰まり、内外の親知に嗤い怪しまれる。今の人には節度がなく、父母は娘を嫁がせる際に姑姉に嫉妬することを教え、夫を制することを婦徳とし、嫉妬できることを女の手柄とし、『人に欺かれない、他人に笑われるのを畏れる』と自ら言う。王公でさえこの調子なのだから、それ以下の者がどうして二心を敢えて持てようか。嫉妬の心が生まれれば妻妾の礼は廃れ、妻妾の礼が廃れれば姦淫の兆しが興る。これこそ臣が痛恨するところである。」
- 「王公第一品には八人の妻を娶らせ九女に備え、二品は七、三品四品は五、五品六品は一妻二妾に備えることを請う。一周年を限り悉く数を充たさせ、もし充たさず妾を非礼に待し妻に嫉妬させて打擲を加えさせた者は所居の官を免ずる。妻に子がなく妾を娶らない者は自ら祖先の血食を絶つことになるので、不孝の罪を科し、その妻を離縁させるべきである。臣の赤心はひとえに家国のためであり、吉凶ともに礼に合わせ、貴賎おのおのその宜しきを得させたい。人員を省いて出兵の丁を出し、倉儲を立てて穀食を豊かにし、賞格を設けて姦盗を捕らえ、典令を行って朝章を示せば、足食足兵、人これを信ずるであろう。また妻妾の数を敢えて申し立てるのは、王侯将相功臣の子弟が満朝にあふれ、祚を伝えて窮まらぬようにしたいという臣の志である。」
- 詔は有司に付されて議奏させたが意見は一致しなかった。孝友はまた「今、人は生きては皂隷(下僕)のようであっても、葬るときには王侯を擬え、生と死とで異なる道を行き、もはや節制がない。壮麗な丘陇を築き祭儀を盛んに飾って隣里に誇り、至孝と称される。また夫婦の始めは王化の先んずるところで、共に食し瓢を合わせるだけで礼を成すに足りるのに、今の富める者はますます奢り、同牢の設けは祭盤より甚だしく、魚を累ねて山のようにし、山には林木があり、林木の上に鸞鳳がいるという有様で、いたずらに煩労して結局は棄てられるだけである。天意を思うに、これは正しくないのではないか。今後、婚葬が過礼な者は違旨として論じ、官司が糺劾しなければ同罪とすべきである」とも言った。
- 孝友は尹(京兆尹)にあること長年、法をもって自ら守り評判が高かったが、性格は骨鯁(剛直)でなく権勢に事えることを善くし、正直な者に譏られた。斉の天保初年、旧例により爵を降されて臨淮県公に封じられ、光禄大夫を拝命した。天保二年冬、晋陽宮に召され、元暉業とともに害された。