北齊書卷二十 列傳第十二 薛循義
薛循義、字は公譲、河東汾陰の人。若くして豪俠、北魏末の争乱で募兵して北海王元顥に従うが、のち髙歓(神武)に帰順し晋州刺史などを歴任した武将。沙苑の戦い後も自ら晋州に戻り西魏軍の包囲を退けて堅守した。天保五年七月、77歳で没した。
薛循義
- 薛循義、字公譲、河東汾陰の人。曾祖紹は魏七兵尚書・太子太保、祖父寿仁は河東河北二郡守・秦州刺史・汾陰公、父宝集は定陽太守。循義は若く姦俠で財を軽んじ気を重んじ、急難を頼る豪猾を匿った。魏咸陽王の司州牧下で法曹従事、魏北海王顥の徐州鎮で墨曹参軍。正光末天下兵起こり顥が征西将軍・都督華豳東秦諸軍事・西道行台となると循義は統軍とされ、河東で募兵し3千から7千余人を集め安北将軍・西道別将。東西二夏・南北両華・豳州等の反乱を顥に従い討伐、功あり。
- 絳蜀の賊陳双熾らの汾曲の乱を大都督として行台長孫稚と討伐、双熾が同郷であることから単身説得に赴き降伏させ竜門鎮将。宗人の鳳賢らが乱を起こし鎮城を包囲すると循義自身も天下混乱に乗じて自ら黄鉞大将軍と号し鳳賢に呼応して反乱、都督宗正珍孫の討伐軍が向かうと恥じて悔い、帳下孫懐彦を遣わし降伏を願い出た。魏孝明帝は西北道大行台胡元吉を遣わし降伏を諭させ、循義は鳳賢を説得し降伏させた。鳳賢は龍驤将軍・仮節稷山鎮将・夏陽県子(食邑300戸)、循義は汾陰県侯(食邑800戸)に封ぜられた。
- 爾朱栄は循義の豪猾反覆を疑い晋陽に召還、高昂らと共に拘留、栄の洛陽赴任に随行させ駝牛署に置いた。栄死後、魏孝荘帝は循義を弘農河北河東正平四郡大都督とした。高祖が晋州刺史であった当時から厚遇され、爾朱兆の魏長広王擁立で循義は右将軍・陝州刺史・仮安南将軍。魏前廃帝は循義を持節後将軍・南汾州刺史とした。高祖の信都挙義・韓陵の四胡撃破に召還され晋陽に至り并州事代行、爾朱兆討平にも従軍。
- 魏武帝の入関時、高祖は潼関で迎えるため循義を関右行台として龍門から渡河、西魏の北華州刺史薛崇礼を陽氏壁で書をもって説得し1万余人を降伏させた。樊子鵠の兖州拠点化を大司馬婁昭に従い討平、天平中衛将軍・南中郎将・汲郡太守・頓丘淮陽東郡黎陽五郡都督、東徐州刺史。元象初め儀同、沙苑の戦いで撤退時、封祖業が晋州を棄てて走るのを追って洪洞で諫めるも聞かれず、循義は自ら晋州に戻り堅守。西魏の長孫子彦の包囲に対し門を開いて伏兵を用意し虚実を測れぬ子彦を退けた。高祖はこれを嘉して晋州刺史・南汾東雍陝四州行台、帛千疋を賜与。
- 州で西魏の正平太守叚栄顕を捕らえ胡族の酋長胡垂黎らの部落数千口を降し五城郡を置いて安置。高仲密の反乱では西南道行台として掎角の勢をなすも実効なく、齊州刺史に転じるが贓貨の罪で除名、前の晋州守備の功により官爵を復し衛尉卿。山胡の晋州侵乱を討平、正平郡公に進爵、開府。世宗は高祖の遺旨により食邑200戸を減じ、循義に平郷男を別封。天保初め護軍、藍田県公に別封、太子太保。五年七月、77歳で卒、晋太華三州諸軍事・司空・晋州刺史・物三百段を追贈。子文殊が嗣ぐ。
- 循義の従弟嘉族も豪爽な性格で釈褐員外散騎侍郎から正平太守、高祖の信都挙義に応じ韓陵の戦功で華州刺史。賀抜岳の反抗に呼応を命じられるが乗馬を棄て黄河を泳いで渡り高祖に帰し揚州刺史で卒。子震、字文雄。天平初め竜門鎮守中西魏に陥落されるが元象中脱出、広州刺史。慕容紹宗の侯景討伐に従い膚施県男に別封。天保四年山胡・茹茹討伐に功あり譙州刺史。循義の従子元穎(父光熾は東雍州刺史・太常卿)は廉謹信義あり永安王参軍から秀容県事代行、定州別駕、漁陽太守。