慕容紹宗
- 慕容紹宗、慕容晃の第四子太原王恪の後裔。曾祖騰が魏に帰し代に居した。祖父郁は岐州刺史、父遠は恒州刺史。紹宗は容貌恢毅で寡黙深沈、胆略があり、爾朱栄の従舅の子。北辺擾乱で晋陽の栄に身を寄せる。栄の洛陽入城時、栄は「洛中の人士は驕侈が習俗、除去せねば制御できない、百官の出迎えに乗じて誅殺しようと思うがどうか」と密かに諮ったが紹宗は「太后臨朝は淫虐無道で天下が棄てているのに、忠義の公が多士を殲滅すれば長策にあらず」と諫めた。栄は従わなかった。軍功で索盧県子、侯に進爵。高祖の羊侃討伐、元天穆の邢杲討伐に従軍、并州刺史。
- 紇豆陵歩藩が晋陽に迫り爾朱兆が撃つも歩藩に敗れ続け、晋州の高祖を召還して共に図ろうとした際、紹宗は「今の情勢で有能な士を蛟龍に譬えるなら、それに雲雨を借すべきではない(高歓に力を貸すべきでない)」と諫めたが兆は怒り「私と晋州は誠を尽くしあう仲、なぜそのようなことを言うのか」と紹宗を数日禁足した。結局鮮卑を高祖に割いて共に歩藩を討滅。高祖の信都挙義に、兆は紹宗を長史・行台とし壺関に軍を出させ高祖に抗したが、広阿・韓陵の敗戦後、兆は「お前の言葉通りになった」と自責。兆敗走時、士卒が離散し兆が潜遁しようとするのを紹宗は旗を掲げ角を鳴らして義徒を招集し軍容を立て直した。高祖が鄴から兆を晋陽で討ち、兆が赤谼嶺で自縊すると紹宗は馬突城で高祖の追撃に遭い、栄の妻子と兆の余衆を連れて帰順、官爵は元のまま優遇された。
- 天平初め遷都鄴の際、庶事未整理のため高隆之と府庫図籍を管理。二年宜陽の李延孫の乱を西南道軍司として都督厙狄安盛らと討平、揚州刺史代行、豫州刺史代行。丞相府記室孫搴が紹宗に兄を州主簿にするよう頼むが用いられず、搴は高祖に「紹宗は広固城に登り大丈夫の先業を継ぐべきと嘆いた」と讒言し徴還された。元象初め西魏の独孤如願の洛州拠点化・梁潁の間の賊蜂起に対し、紹宗は武牢に赴き行台劉貴らと平定、公に進爵、度支尚書。晋州刺史・西道大行台を経て御史中尉。梁の劉烏黒の徐方侵入を討ち、烏黒は散った衆を再び集めるが紹宗は密かに徒党を誘い烏黒を捕殺、徐州刺史。
- 侯景の反乱に東南道行台・開府、燕郡公。韓軌らと瑕丘で進撃、梁武帝が甥の貞陽侯蕭明ら十万を寒山に駐屯させ景と掎角して彭城を泗水で灌水した際、紹宗は行台節度三徐二兖州軍事として大都督高岳らと大破、蕭明らを捕縛。渦陽で侯景を討伐、景軍は紹宗と岳の来着を聞き恐れをなし諸将に慎重を促したが、紹宗の進撃に諸将が続き大捷、景は逃走。永楽県子に別封。高祖はかつて世宗に「侯景が反乱すれば紹宗に当たらせよ」と遺命しており、その通り功を挙げた。
- 西魏の王思政が潁州に拠った際、紹宗は南道行台として太尉高岳・儀同劉豊らと洧水を堰いて潁川を灌水させたが、頻繁に凶夢を見て「私の蒜髪(白髪)がにわかに尽きた、算(寿命)が尽きるのでは」と側近に語った。堰の視察中、北方の塵気を見て艦に乗り込んだところ暴風が東北から吹き、周囲が暗くなり艦の縄が切れ敵城へ流された。紹宗は逃れられぬと悟り投水して死去、49歳。三軍将士は悲しみ朝廷も嗟傷、使持節二青二兖斉済光七州軍事・尚書令・太尉・青州刺史を追贈、諡は景恵。長子士肅は散騎常侍を除せられたがまもなく謀反で誅殺、朝廷は紹宗の功罪により士肅一身に止めた。皇建初め世宗廟庭に配享。士肅の弟建中が爵を襲い武平末儀同三司、隋開皇中大将軍・畳州総管。