莫多婁貸文
- 莫多婁貸文、太安狄那の人。驍果で胆気あり高祖の挙義に従い中興初め伏波将軍・武賁中郎将・虞候大都督。爾朱兆を広阿で討ち功により前将軍・石城県子(食邑300戸)、韓陵の戦い後侯に進爵。爾朱兆を赤谼嶺で追撃し自縊した屍を得て左廂大都督。斛斯椿の変で魏武帝の将賈顕智の石済拠守に対し高祖の命で竇泰らと定州で合流し石済で顕智を撃退。天平中晋州刺史、汾州の胡族の反乱を高祖親征に従い先鋒として討伐、奴婢30人・牛馬各50匹・布千匹を賜与。汾陝東雍晋泰五州大都督、尉景と東雍・南汾二州を攻略。元象初め車騎大将軍・儀同・南道大都督として行台侯景と独孤如願を金墉城で攻める際、周文帝軍の函谷出撃に対し高昂と共に軍を整えて待つべきと議されたが、貸文は前鋒撃破を求めたが許されず、独断で軽騎千で前進して源澗で周軍と遭遇し戦没。并肆恒雲朔五州軍事・并州刺史・尚書右僕射・司徒公を追贈。
- 子敬顕は武力に優れ、斛律光の征討に常従し戦功多数。光は敬顕を前駆とし夜間巡察を任せ臨戦の陣立ても任せるほど信頼した。領軍将軍まで昇進、武平中車駕の晋陽行幸の際は留台の兵馬を督察し都を粛然とさせた。七年後主の平陽敗戦後、并州で唐邕らと安徳王を尊号に推立するが失敗、群官は周軍に投降する中、敬顕のみ鄴に走り司徒を授かった。周武帝の鄴平定翌日、晋陽を守らなかった責を問われ閶闔門外で斬られた。