任延敬
- 任延敬、広寧の人。伯父桃が太和初め雲中軍将となり延敬は雲中に家をなす。延敬は少く和厚で器度あり、初め葛栄に従い重職を委任される。栄敗北後所部を率いて先んじて降伏、鎮遠将軍・広寧太守・西河県公。高祖の建義に従い中興初め光禄大夫、太昌初め尚書左僕射・開府儀同三司。斛斯椿の変で家を棄て河北郡に北走しこれを土民と共に拠り高祖を待つ。魏武帝入関後の荊蛮不順を持節南道大都督として討平。天平初め侍中、范陽の盧仲延の反乱・西兖州の田龍の呼応を大都督東道軍司として都督元整・叱列陁らと討伐、行台僕射・徐州刺史。梁の元慶和らの侵寇を破り、仁州刺史黄道始を北済陰で、梁儁を単父で破り万人を俘斬。
- 侍中兼務も受納多く、政は残虐でなく民に慕われた。潁川長史賀若徽の刺史田迅捕縛・西魏降伏事件に対し豫州刺史堯雄らと討伐、西魏将怡鋒の援軍と戦い失利、北豫に帰還後行台侯景・司徒高昂らと潁川を攻略。元象元年秋鄴で45歳で卒、使持節太保太尉公録尚書事都督冀定瀛幽安五州諸軍事・冀州刺史を追贈。子胄が嗣ぐ。
- 胄は軽俠で敏恵、高祖の側近から東郡太守に抜擢されたが豊財を頼み聚斂・豪奢を極め、賓客の往来を厚くした。贓汚の罪で有司に弾劾されるも高祖は赦し、郡を解いた後は都督とした。興和末の玉壁攻めの帰途、晋州西南の要地を清河公岳に委ね胄をこれに隷属させたが胄は飲酒遊興で防守を怠り、高祖に責められて周への内通を図った。糾弾されたが実態が明らかにならず高祖は特に免じ、「私は誠を人に尽くす、卿にそのようなことがあろうか。黒獺(宇文泰)に降る者が後を絶たない今、卿の虚実はいずれ知れよう」と告げた。しかし胄は不安を抱き、儀同尒朱文暢・参軍房子遠・鄭仲礼ら険薄無頼の徒と結び高祖暗殺を謀り、武定三年正月十五日夜、高祖の遊興に乗じて決行しようとしたが密告により露見、胄とその子弟は誅殺された。