北齊書卷十七 列傳第九 斛律羨

斛律羨(字は豊楽)は斛律金の次子。幽州刺史として突厥の来寇を防ぎ長城・戍邏を整備した辺境の功臣。兄・光の誅殺と同時に勅使に捕らえられ命を落とした。

年表(2件)
  • 河清3年564年使持節・都督幽安平南北営東燕六州諸軍事・幽州刺史に転じる
  • 武平3年7月572年兄・光の誅殺と共に勅使に捕らえられ、長史庁で死ぬ

斛律羨

  • 羨、字は豊楽。若くして機警で射芸に優れ、神武はこれを見て称賛した。世宗のもとで開府参軍事に擢用され征虜将軍・中散大夫に遷り、安西将軍を加えられ大夏県子に封ぜられ通州刺史に除せられた。顯祖受禅後、征西の号を進め顯親県伯に別封。河清三年、使持節・都督幽安平南北営東燕六州諸軍事・幽州刺史に転じた。
  • その年秋、突厥十余万が州境に寇すると羨は諸将を総率して禦ぎ、突厥は軍容の整いを望見して戦わず款を求めた。羨はこれを詐と疑い、「お前らのこの行いは元より朝貢ではなく機を見て変じたのだろう、実誠があるならすぐ巣穴に帰り改めて使者を寄越せ」と諭すと突厥は退いた。天統元年夏五月、突厥の木汗が朝献を請う使者を寄越し、羨がこれを奏上して以後、朝貢は絶えることなく続き、羨の功であった。行台僕射を加えられ、北虜の侵犯に備え庫堆戍から東は海に至るまで山に沿い屈曲二千余里、うち二百里の間に険要ごとに山を斬り城を築くか谷を断ち障を起こし、戍邏五十余所を設けた。また高梁水を導き北で易水と合し東で潞水に会させ田を灌漑し辺境の備蓄を年々増やし漕運の費えを省き公私共に利を得た。
  • その年六月、父の喪により去官したが兄の光と共に起復され燕薊の鎮に復帰、天統三年、特進を加え、天統四年、行台尚書令に遷り高城県侯に別封された。武平元年、驃騎大将軍を加えられた。時に光の子・武都が兖州刺史となっており、羨は数帝に仕え謹直をもって推され、栄寵を極めても驕らず、一門の貴盛を深く憂え上書して所職の辞退を願い出たが優詔により許されなかった。その年秋、荊山郡王に進爵。
  • 武平三年七月、光が誅されると、勅使・中領軍賀拔伏恩ら十余人が駅を発し羨を捕らえに赴き、領軍大将軍鮮于桃枝・洛州行台僕射独孤永業が定州の騎卒を発して続いて進み、永業が羨に代わることとされた。伏恩らが到着すると、門者が使者が甲を着け馬が汗ばんでいると告げ城門を閉じるよう進言したが、羨は「勅使をどうして疑い拒めようか」と門を開き出迎え、伏恩に手を取られ捕らえられ長史庁で死んだ。臨終に「これほどの富貴、娘は皇后・公主が家に満ち、常に三百の兵を擁しながら、どうして敗れずにいられようか」と嘆いた。子の世達・世遷・世辨・世酋・伏護と十五歳以下の子は宥された。羨が誅される前、州にいた諸子・伏護以下五、六人に頸を鎖で繋がせ驢に乗せ城を出させたが、一家が泣いて見送り日暮れに帰った様子に吏民は驚き異とした。
  • 燕郡守・馬嗣明は医術の士として羨に信頼されていたが密かに問われ「禳厭が必要だ」と答え、数日後にこの変が起きた。羨と光は共に若くして騎射に工み、父母が日々狩りの獲物を較べさせると、光の獲物は少なくとも必ず急所を射抜いていたため常に賞を得たが、羨は獲物が多くても急所を外すことが多く、しばしば捶撻を受けた。人がその理由を問うと、金は「明月(光)は必ず背から急所に矢を当てるが、豊楽(羨)はどこでも当たった所で手を下すだけ、数は多くても兄には遠く及ばない」と答え、聞く者は皆その言に感服した。

金の兄・平

  • 金の兄・平は弓馬に長じ幹用があった。魏の景明中、殿中将軍として仕官し襄威将軍に遷り、正光末年、六鎮擾乱の際、大将軍尉賔に属し北討したが軍が敗れ賊に虜われた。のち脱走し弟の金の下る雲州に奔り龍驤将軍の号を進められ、金と共に南に出て黄瓜堆に至ったが杜洛周に破られ部落は離散、爾朱栄に帰すとその厚遇を受けた。父の爵・第一領民酋長を襲い、神武の挙義に都督として従い平北将軍・顯州刺史に累遷、鎮南将軍を加えられ固安県伯に封ぜられ、まもなく侯に進爵、肆州刺史の事を行った。
  • 周文帝が右将軍李小光を遣わし梁州に拠らせると平は偏師をもってこれを討ち擒とし、燕州刺史に出、入って左衛将軍を兼ね衆一万を率い北徐の賊を討ち破った。済州刺史に除せられ、侯景が長江を渡ると詔により大都督として青州刺史敬顯儁・左衛将軍庫狄伏連らを率い寿陽・宿預など三十余城を平定して州に還り、開府を加えられ驃騎大将軍に進み公に進爵した。顯祖受禅後、羨陽侯に別封され兖州刺史の事を行ったが贓貨により除名された。のち開府儀同三司に除せられ、廃帝の即位に際し特進を拝し滄州楽陵郡の幹を食んだ。皇建初年、定陽郡公に封ぜられ護軍を拝し、のち青州刺史となり卒し、太尉を追贈された。

史論

  • 史臣曰く、斛律金は高祖の撥乱の始めに王業を翼成し、忠欵の至りによってこの大功を成した。ゆえに長寿を全うし位は百辟の上に立ったが、その盈満の戒めを観るに、動きの微かなところからわずか後嗣の代で誅夷に至った。威権の重さは道家の忌む所に符合すると言うべきである。
  • 光は上将の子として沈毅の資を備え、戦術兵権は暗に韜略に通じ、敵に臨んでは変化自在に勝を制した。関河が分かれてより四紀の間、高祖の覇業の時期から宇文氏の草創の時に至るまで出軍薄伐して屡々兵鋒を挫き、大寧以後は東隣(北斉)が関西を侵し弱め、先に巴蜀を収め、また江陵を滅ぼし、瓴を建てるがごとく武を用いて併呑の壮気を示した。斛律氏が軍を治め衆に誓うところ、戦えば完全な陣を破らぬことなく、攻めれば全城を残さぬことがまれで、斉はまさに原を拘える師を致し、秦人(西魏北周)は再び関を啓く策を持たなかった。だが世が乱れ讒言が勝り、加えて主を震わす威をもって、暗愚な主が艱難の時に自ら藩籬の固めを毀した。
  • 昔、李牧が趙将であった時、北は胡冦を翦り西は秦軍を却けたが、郭開の讒言により牧は死に趙は滅んだ。光を誅せんとした議もまた秦の反間の術と同じではないか、何とその術も滅びの道も似ていることか。内では諸将の心を解き、外では強敵に讐を報いる結果となった。ああ、後の君子はこれを深く戒めとすべきである。
  • 賛に曰く、赳赳たる咸陽(斛律金)は邦家の光、明月(光)は忠壮にして代々将相となり、声は関右を震わせた。勢い高く時望に迫ればこそこの威名は讒謗を生みやすく、始めは巧言により終わりは相共に喪われた。