北齊書卷十七 列傳第九 斛律金

斛律金(字は阿六敦、天統3年薨・80歳)は朔州勑勒部の出身。高歓の挙義以来これに従い、東魏・北斉の軍功により咸陽郡王・太師にまで至った勲臣。子の光・羨も共に大将軍格に累進し、一門から皇后1人・太子妃2人を出す栄達を極めた。

年表(2件)

斛律金

  • 斛律金、字は阿六敦。朔州勑勒部の人。高祖の倍俟利は勇壮な男として辺境に名を知られ、道武帝の時、戸を率いて内附し孟都公の爵を賜った。祖の幡地斤は殿中尚書、父の那瓌は光禄大夫・第一領民酋長。天平中、金の貴顕により司空を追贈された。金は性格が敦直で騎射に優れ、用兵は匈奴の法に倣い、塵を望んで馬の数を知り、地を嗅いで軍の遠近を知った。
  • 初め軍主として懐朔鎮将楊鈞と共に茹茹主・阿那瓌を北に送り届け、瓌はその射猟の技に感嘆した。のち瓌が高陸に寇すると金はこれを拒撃し破った。正光末年、破六韓拔陵が謀反すると金はその衆に属したが、陵の敗滅後は所部万戸を率いて雲州に赴き降を請い、第二領民酋長を授かった。南下し黄瓜堆に至り杜洛周に破られ部衆が分散、金は兄の平と共に脱身して爾朱栄のもとへ帰した。
  • 栄の表により別将となり都督に累遷、孝荘帝の即位後、阜城県男の爵を賜り寧朔将軍・屯騎校尉を加えられた。葛栄・元顥の討伐に従い戦功を重ね鎮南大将軍を加えられた。爾朱兆らが逆乱を起こすと神武(高歓)は密かに匡復の計を懐き、金は婁昭・厙狄干らと共に大謀を賛成し挙義に従った。
  • 神武が南下し鄴を攻める際、金を信都の守りとし恒雲燕朔顯五州大都督として後事を委ね、別に李脩を討ちこれを破った功で右光禄大夫を加えられ、鄴で神武と合流、晋陽平定と爾朱兆討滅にも従った。太昌初年、汾州刺史・当州大都督となり侯に進爵、神武に従い紇豆陵を河西に破った。天平初年、鄴に遷ると金に歩騎三万を率いさせ風陵を鎮めさせ西寇に備えた。
  • 軍を罷して晋陽に還り神武に従い沙苑で戦ったが利あらず班師、そのため東雍の諸城が再び西軍に奪われると、金は尉景・厙狄干らと共にこれを討ち復した。元象中、周文帝が再び河陽に大挙すると神武は衆を率いて討ち、金に太州へ直行させ掎角の勢を作らせた。金が晋州に至った時軍が退いたため進まず、行台薛循義と共に喬山の賊を包囲し、まもなく神武が至ると共に討ち平らげた。神武に従い南絳・邵郡など数城を攻略。
  • 武定初年、北豫州刺史高仲密が城を挙げて西に叛くと周文帝は洛陽に侵入、神武は金に劉豊・大汗歩薩らの歩騎数万を統べさせ河陽城を守らせ拒ませ、神武が至ると共に仲密の軍を破り還り、大司馬に除せられ石城郡公に改封食邑千戸、第一領民酋長に転じた。
  • 武定三年、神武が山胡を襲う軍を二道に分け、金を南道軍司とし黄櫨嶺から出させ、神武自ら北道から赤谼嶺を渡り烏突戍で金と合流しこれを撃破、軍は還り冀州刺史に出た。武定四年、金は烏蘇道から晋州で神武と合流し玉壁攻めに従い、軍が還ると神武は金に大衆を総督させ晋陽に帰らせた。
  • 世宗が事を嗣ぐと、侯景が潁川に拠り西魏に降ったため、金に繙楽・薛孤延らを率い河陽を固守させ西魏に備えさせた。西魏の大都督李景和・若干寶が馬歩数万で新城から侯景救援に赴こうとすると、金は広武に軍を停めこれを要し、景和らは聞いて退いた。肆州刺史に転じ、宜陽で楊志・百家・呼延の三戍を築き守備を置いて還った。
  • 侯景が南豫に走ると西魏の儀同三司王思政が潁川に入り拠ったため、世宗は高岳・慕容紹宗・劉豊らに包囲させ、金には彭楽・可朱渾道元らを督させ河陽に屯し西魏の奔救の路を断たせ、また金に衆を率い潁川の攻略に加わらせた。事が終わると金に崿坂から宜陽への米の輸送を統率させ、西魏の九曲戍将・馬紹隆が険を拠り妨げると金がこれを破り、軍功により安平県男に別封された。
  • 顯祖受禅後、咸陽郡王に封ぜられ刺史はもとのまま。その年冬、晋陽宮に朝すると金が病を得て帝は自らその邸に幸し見舞い医薬を絶やさず、癒えて州に還った。武定三年、太師に除せられ、帝の奚族討伐にも従軍。帝が肆州に幸すると金と宴射をして去った。四年、州を解いて太師として晋陽に還り、車駕が再びその邸に幸すると六宮・諸王も皆従い夜まで酒宴が続いた。帝は喜び金の第二子・豊楽を武衛大将軍に詔し、金に「公は元勲佐命、父子ともに忠誠、朕は婚姻をもって結び永く藩衛とする」と告げ、金の孫・武都と義寧公主の婚礼の日には帝が皇太后を奉じてその邸に幸し皇后・太子・諸王も皆従うほどの厚遇を受けた。
  • のち茹茹が突厥に破られ種落が分散すると辺境を犯すことを慮り、金に騎二万を率い白道に屯させ備えさせた。虜帥・豆婆吐久備が三千余戸を率い密かに西へ移ろうとするのを候騎が報せると、金は所部を率い追撃し全て捕虜とした。茹茹の但鉢が挙国西遷しようとした際も候騎を捕らえ、これを撃つべき勢を上表、顯祖は金と共に討伐し吐頼で二万余戸を獲て還った。右丞相に進み斉州の幹を食み、左丞相に遷った。
  • 粛宗の即位に際し孫女が皇太子妃に迎えられ、金は歩挽車での朝見を許され、世祖の即位後も礼遇はさらに重く、再び孫女が太子妃となった。金の長子・光は大将軍、次子・羨と孫の武都は共に開府儀同三司として方岳に出鎮、その他の子孫も皆侯に封ぜられ栄達した。一門に皇后一人・太子妃二人・公主三人を出す尊寵の盛んさは当時比べる者がなかった。
  • 金はかつて光に「私は読書はしないが、古来外戚の梁冀らが傾き滅ばぬ例はないと聞く。お前が寵を得れば諸貴人に妬まれ、寵がなければ天子に嫌われる。我が家はただ勲功と忠誠のみで富貴を得た、どうして女(娘の縁)を頼みにできようか」と語り、辞退できず常に憂いとしていた。
  • 天統三年、八十歳で薨じた。世祖は西堂で挙哀し、後主も晋陽宮で挙哀、假黄鉞・使持節・都督朔定冀并瀛青斉滄幽肆汾十二州諸軍事・相国・太尉・公・録尚書・朔州刺史・酋長王はもとのまま、銭百万を贈られ、諡は武。子の光が嗣いだ。