北齊書卷十五 列傳第七 婁昭

婁昭

  • 婁昭、字は菩薩。代郡平城の人。武明皇后の母方の弟。祖父の提は雄傑で識度があり、家僮千を数え牛馬は谷で量るほど富み、施しを好み士人が多く帰服した。魏の太武帝の時、功により真定侯に封ぜられた。父の内干は武力があったが仕官前に卒した。
  • 昭が貴顕になると魏朝から司徒を追贈され、斉受禅後は太原王を追封された。昭は方正で大度があり深謀を備え、腰帯八尺、弓馬は世に冠絶した。神武は若い頃から昭を親重し、昭もまた人を見る目に優れ、しばしば神武の狩猟に随行し危険を冒さぬよう請うた。
  • 神武が信都に発とうとする際、昭は大策の賛成者となり中軍大都督に任じられた。爾朱兆を広阿で破った功で安喜県伯に封ぜられ、のち済北公に改め濮陽郡公に徙され、領軍将軍を授かった。魏の孝武帝が神武に背こうとした際、昭は病を理由に辞して晋陽に戻り、神武の入洛に従った。
  • 兖州刺史・樊子鵠が反乱すると昭は東道大都督としてこれを討った。子鵠死後、諸将は残党を尽く誅殺するよう勧めたが、昭は「この州には罪はなく残賊に横に遭っただけ、その君を怨むはずのその民に何の罪があろうか」と述べ皆を赦した。のち大司馬に転じ領軍を兼ね、司徒に遷り定州刺史として出鎮した。昭は酒を好み晩年に偏風(半身不随)を得て、癒えても激務は執れず、州では属僚に事を委ね昭は大綱を挙げるのみだった。州で薨じ、假黄鉞・太師・太尉を追贈され諡は武。斉受禅後、その墓に祭告され太原王に封ぜられ、皇建初年、神武廟庭に配享された。
  • 長子の仲逹が嗣ぎ濮陽王に改封。次子の定逺は若くして顕職を歴任し外戚の中でも特に武成帝に愛され、臨淮郡王に別封された。武成帝の危篤に際し趙郡王(叡)らと共に顧命を受け司空となる。趙郡王が和士開を黜けようと奏したとき、定逺はその謀に加わりながら士開の賄賂を受け、これが趙郡王の禍を成す原因となった、その貪鄙はこの通りである。まもなく瀛州刺史を除せられた。
  • 定逺の弟・李略が穆提婆にその伎妾を求められ許さなかったため、高思好の乱に乗じ提婆は臨淮国郎中令に定逺が思好と内通していると告げさせ、後主は開府段暢に三千騎を率いさせて急襲させた。侍御史趙秀通が州に至り贓貨の事で定逺を弾劾すると、定逺は変事を疑い縊死した。
  • 昭の兄の子・叡、字は仏仁。父の拔は魏の南部尚書。叡は幼くして孤児となり叔父の昭に養われ、神武の帳内都督となり掖県子に封ぜられ、光州刺史に累遷したが在任中貪縦で文襄に深く責められた。のち九門県公に改封、斉受禅後に領軍将軍を除せられ安定侯に別封された。叡は特に才幹はなかったが外戚として貴幸を得、財色を縦にし、瀛州刺史として聚斂すること飽くことがなかった。皇建初年、東安王に封ぜられ、太寧元年、司空に進む。高歸彦を冀州で平定して還ると司徒を拝命。河清三年、みだりに人を殺し尚書左丞・宋仲羨に弾劾されたが赦に遭い免れた。まもなく太尉となり軍功により大司馬に進む。武成帝が河陽に至ると別に一軍を率い懸瓠に赴かせたが、叡は豫州境に百余日留まり専ら不法を行い、詔により官を免ぜられ王として第に還された。まもなく太尉に除せられ薨じ、大司馬を追贈された。子の子産が嗣ぎ開府儀同三司の位にあった。