尉景
- 尉景、字は士真。善無の人。秦漢に尉候の官が置かれ、その先祖がこの職にあったことから氏とした。性格は温厚で俠気があった。魏の孝昌中、北鎮が反すると景は神武と共に杜洛周の軍に入り、共に爾朱栄に帰し、軍功により博野県伯に封ぜられた。
- 神武の信都挙兵に従い、韓陵の戦いでは景の統率した軍のみが敗れたが、神武が洛陽に入ると景を鄴の留守とし、まもなく公に進封した。景の妻・常山君は神武の姉。勲戚として軍事の重責を委ねられたが財利への執着が消えず、神武はしばしば嫌責した。冀州刺史に転じてからも大いに賄賂を納れ、夫役を発して猟に用い死者三百人を出した。
- 厙狄干が景とともに神武の前で「御史中尉になりたい」と願うと、神武が「なぜ卑官を望むのか」と問い、干は「尉景を捉えたいのだ」と答え神武は大笑いした。俳優の石董桶が景をからかい衣を剥ぎ「公が百姓を剥ぐのになぜ董桶が公を剥いではいけないのか」と言った。神武が「貪ってはならぬ」と戒めると、景は「お前と比べればどちらが多く生活の糧を得ているか、私はただ人から取るだけ、お前は天子の調を割いているではないか」と答え、神武は笑って答えなかった。
- 長楽郡公に改封され太保・太傅を歴任したが、亡命者を匿って禁止された事件で、崔暹が文襄(世子澄)に「阿惠(神武)の子は富貴を得て我を殺そうというのか」と讒言、神武はこれを聞いて泣きながら闕に詣で「臣は尉景がなければ今日はない」と三度請い、帝はようやく許した。だが景は驃騎大将軍・開府儀同三司に黜され、神武が見舞いに訪れると景は怒って臥したまま動かず「殺せ、なぜ急ぐのか」と叫んだ。常山君は神武に「老人は死に近いのに、なぜこれほど追い詰めるのか」と述べ、「私はお前のために水を汲み手にたこができた」と手のひらを見せると、神武は景を撫でて跪いた。
- かつて景が果下馬を持っていたのを文襄が求めたが、景は「土が支え合えば墻となり、人が支え合えば王となる。馬一頭さえ持てず求めるのか」と断り、神武は景と常山君の前で文襄を責め杖罰を科した。常山君が泣いて庇うと、景は「小児は慣れて放縦にすれば心腹となる、乾いた泣き声で許すな、打て」と言った。
- まもなく青州刺史を授けられ操行を改め百姓に安んじられ、大司馬に召されたが病を得て州で薨じた。太師・尚書令を追贈され、斉受禅後は元勲として墓に祭告され、皇建初年、神武廟庭に配享され長楽王を追封された。
- 子の粲は若くして顕職を歴任し性格は荒々しかった。天保初年、厙狄干らが王に封ぜられたのに粲の父が王爵に及ばなかったため大いに恨み十余日閉門し朝せず、帝が怪しんで問わせると、粲は門越しに「天子が父を王に封じないなら死んだほうがましだ」と告げ、開門を命ぜられても弓を彎いて使者を射た。文宣帝は段韶を遣わし諭旨させたが、粲は撫膺して大哭するのみで答えなかった。文宣帝が自らその邸を訪れ慰めるとようやく朝請に復した。まもなく景に長楽王を追封し、粲がこれを襲爵し司徒・太傅に至り薨じた。子の世辯が嗣ぎ、周軍が鄴に迫ると千余騎を出して斥候させたが、羣鳥の飛び立つのを西軍の旗と誤認して逃げ帰った。隋の開皇中、浙州刺史で卒した。