北齊書卷十四 列傳第六 上洛王思宗

上洛王思宗は神武(髙歓)の従子。天保初年に上洛郡王に封ぜられ、司空・太傅を歴任し官にあって薨じた。子の元海は乱を好み権謀に長け、孝昭帝没後の帝位継承に武成帝の腹心として深く関わり、和士開・祖珽との確執を経て、北齊末に鄴城で謀反し誅殺された。弟(養子)の思好は驍勇で知られ辺境の要職を歴任したが、武平五年に挙兵して敗死した。

年表(7件)
  • 天保初年上洛郡王に封ぜられる
  • 天保五年蠕蠕討伐の驍勇を称えられ思孝から思好と改名する
  • 皇建末年孝昭帝の晋陽出行中、元海は散騎常侍として鄴の機密を掌る
  • 河清二年元海、和士開の讒言により鞭打たれ兖州刺史に出される
  • 武平中元海、祖珽と共に朝政を執るが確執の末、鄭州刺史に出される
  • 武平五年思好が挙兵し反乱を起こすが敗れて投水死する
  • 周建德七年元海、鄴城で謀反し誅殺される

上洛王思宗

  • 上洛王思宗は神武の従子。性格は寛和で武幹があった。天保初年、上洛郡王に封ぜられ、司空・太傅を歴任し官にあって薨じた。

思宗の子・元海

  • 子の元海は散騎常侍に累遷。山林に隠棲し仏典を修めることを望み、文宣帝はこれを許した。林慮山に入り二年にわたり人事を絶ったが、志を固く保てず自ら願い出て復職、以後は酒に耽り放縦になり、姫妾を広く納れた。また領軍とされ、小才ながら大志を抱き智謀を頼みとした。
  • 皇建末年、孝昭帝が晋陽に出た際、武成帝が鄴を留守し、元海は散騎常侍として機密を掌った。かつて孝昭帝が楊愔らを誅した際、武成帝に「事が成れば汝を皇太弟とする」と言いながら、即位後は武成帝を鄴に留め兵を主らせ、済南(廃帝)の子・百年を皇太子に立てたため、武成帝は不満だった。
  • 孝昭帝は済南を鄴に留め、領軍の厙狄伏連を幽州刺史に、斛律豊楽を領軍に任じて武成帝の権を分けようとしたが、武成帝は伏連を留め豊楽の視事を許さず、河陽王孝瑜と偽って狩りに出て密談した。先んじて童謡に「中興寺内白鳬翁、四方側聴声雍雍、道人聞之夜打鐘」とあり、鳬翁は雄鶏を指し武成帝の小字・歩落稽を暗示、道人は済南王の小名、打鐘は撃たれることを意味するとされた。太史が「北城に天子気あり」と奏上すると、昭帝はこれを済南に当たるとし、平秦王歸彦を鄴に遣わし済南を并州に迎えさせようとした。
  • 武成帝はまず元海に相談し自らの身の処し方を問うと、元海は「皇太后は御健勝、至尊(孝昭帝)は非常の孝性、殿下は別に憂慮すべきではない」と答えたが、武成帝は「それは我が誠意に応えるものか」と問い、元海は「一晩考えたい」と願い出て武成帝の後堂に留まった。元海は夜通し眠らず牀を巡り歩き、夜明けに武成帝が「策はどうか」と問うと、「夜半に三策を得たが用いるに堪えないもの」と答え、梁の孝王が誅を恐れ関に入った故事を引き、上策として「数騎で晋陽に入り、まず太后に哀を求め、次いで主上に兵権を退くことを求め、死をもって国政に関与しないことを誓えば太山の安を保てる」と述べた。中策は「威権が盛んすぎると謗りを招くとして青斉二州刺史を願い出て静かに身を処す」こと、下策を問われると「発言すれば族誅を恐れる」と渋りつつ、「済南は世嫡であるのに主上が太后の令を仮りてこれを奪った。今文武を集めこの詔を示し、豊楽を捕らえ歸彦を斬り、済南を尊んで天下に号令し、順をもって逆を討つ、これが万世一時の機である」と答えた。武成帝は大いに喜んだが、なお疑い用いなかった。
  • 鄭道謙に占わせるとみな不利と出、曹魏祖に問うと「大凶あり」と答えた。また占候に通じた林慮令の潘某が「宮車が晏駕し殿下が天下の主となる」と密告し、武成帝はこれを内に拘えて様子を見た。巫覡に占わせても「挙兵せず自ら大慶あり」との答えが多く、武成帝はついに詔に従い数百騎で済南を晋陽に送った。孝昭帝が崩ずると武成帝が即位し、元海を侍中・開府儀同三司・太子詹事とした。
  • 河清二年、元海は和士開の讒言により馬鞭六十の答を受け、「鄴城で我に弟をもって兄に反せよと説いたのは不義、鄴城の兵馬で并州に抗せよと説いたのは無智不義無智だ」と責められ、兖州刺史に出された。まもなく元海の後妻が陸太姫の甥女であったため再び任用された。武平中、祖珽と共に朝政を執ったが、元海は太姫との密語を多く珽に告げ、珽が領軍を求めた際に元海がこれを不可とすると、珽は告げ口を太姫に密告し、太姫は怒って元海を鄭州刺史に出した。鄴城が敗れる頃、尚書令に召され、周の建徳七年、鄴城で謀反し誅殺された。
  • 元海は乱を好み禍を楽しむ性格だったが、うわべは仁慈を装い酒肉を断っており、文宣帝の天保末年に内典(仏教)を信奉し宗廟の血食まで絶やしたのはみな元海の謀るところだった。右僕射となってからも後主に屠殺の禁止と酤酒の停止を説いたが、本心は安寧を望むものではなく、ついに覆敗を招いた。

思宗の弟・思好

  • 思好はもと浩氏の子。思宗が養って弟としたが遇いは薄かった。若くして騎射に長じ文襄・文宣に仕え、左衛大将軍となる。本名は思孝。天保五年、蠕蠕討伐で文宣帝がその驍勇を「鶻の鵶群に入るごとし」と称えたことから思好と改名した。
  • 尚書令・朔州道行台・朔州刺史・開府・南安王を歴任し辺境の朔人に慕われた。後主の時、斫骨光弁が使者として州に至り、思好は丁重に迎えたが光弁は傲慢に接し、思好は内心恨みを抱いた。
  • 武平五年、ついに挙兵し反した。并州の諸貴に宛てた文書で「主上は深宮に長じ人の情偽を弁えず、凶狡を近づけ忠良を疎んじ、宦官が軒階に溢れ商胡の類が権を帷幄に擅にし、生霊を剥削し朝市を刼掠している。聴受に暗く残忍を専らにし、母を幽閉し人子の礼を失い、二人の弟を残殺し孔懐の義を絶った。子(和士開)を縦にして東門で馬を奪わせ、光弁は西市で鷹を挙げ、駮龍は儀同の号を得、逍遥は郡君の名を受けるなど、犬馬すら班位栄冠に浴し、人はこの役に堪えられない」と乱の由来を訴え、「趙郡王叡は宗室の英才、社稷の寄る所であるのに、左丞相斛律明月は世々元輔として隣国に威を著したのに、無実の罪で誅殺された。孤は皇枝に連なり殊遇を蒙った身、今義兵を率いて君側の害を除く」と述べた(行台郎・王行思の起草)。
  • 思好は陽曲に至り自ら大丞相を号し百官を置き、行台左丞の王尚之を長史とした。武衛の趙海は晋陽で兵を掌っていたが事が急で矯詔をもって兵を発しこれを拒もうとしたところ、軍士は「南安王(思好)が来た、我らはただ万歳を唱え迎えるのみ」と応じなかった。
  • 帝は変を聞き、唐邕・莫多婁敬顯・劉桃枝・中領軍厙狄士文を晋陽に馳せさせ、自らも兵を率いて続いて進んだ。思好の軍は敗れ、思好は王行思と共に投水して死んだ。その麾下二千人は劉桃枝に包囲され、殺されるか招かれるかしたが最後まで降らず全滅した。
  • 時に帝は道中にあり、叱奴世安が晋陽から露布を平都に送り、斛斯孝卿に会うと孝卿は誘って食事をさせ、馳せて行宮に赴き叫んで報せると帝は大いに喜び左右は万歳を呼んだが、しばらくして世安が実情を述べると、帝は「告げた内容も知らず座って食っていたのか」と孝卿を賞し世安の罪を免じた。
  • 思好の屍は七日晒された後、屠剝され焼かれた。王尚之は鄴市で烹られ、その妃は宮内で内参に射られたのち焼き殺された。思好の反乱の五十日前、謀反を告げる者があったが、韓長鸞の娘が思好の子に嫁いでいたため誣告として処理され、貴人の間の騒動を鎮めるためその告発者は斬られた。思好誅殺後、その死者の弟が闕下に伏して兄の贈位を訴えたが、長鸞はこれを取り次がなかった。