北齊書卷十三 列傳第五 趙郡王琛

趙郡王琛は高歓(高祖)の弟、字は永寶。北魏末より高歓に仕え要職を歴任したが、高祖の後庭を乱した咎で杖罰を受け23歳で早世した。子の叡(湏拔)は幼くして父を失うも高祖に愛されて育ち、至孝で知られ、地方長官として治績を挙げたのち尚書令・太尉などを歴任したが、佞臣和士開の排斥を巡り胡太后と対立し、36歳で絞殺された。

年表(15件)

出自と経歴

  • 趙郡王琛、字は永寶、高祖(高歓)の弟。若い頃から弓馬に達し、志気があった。高祖が天下を平定すると、中興初年、散騎常侍・鎮西将軍・金紫光禄大夫を授かる。禁衛に仕え慎み深く勤勉だった。
  • 太昌初年、車騎将軍・左光禄大夫に進み、南趙郡公に封ぜられ食邑五千戸。まもなく驃騎大将軍・特進・開府儀同三司・散騎常侍を拝命。永熙二年、使持節都督定州刺史・六州大都督となる。誠意をもって撫育し人材を抜擢したため名声があった。
  • 斛斯椿らと高祖の間に釁が生じ高祖が内討を謀ると、晋陽が根本の地であるとして琛を召還し後事を任せ、并肆汾大行台僕射・六州九酋長大都督として相府の政事を悉く決させた。天平中(534-537年)、御史中尉となり厳正に糾弾し忌避するところがなく、遠近が粛然とした。
  • まもなく高祖の後庭を乱したため杖罰を受け死去。時に年二十三。使持節・侍中・都督冀定滄瀛幽殷幷肆雲朔十州諸軍事・驃騎大将軍・冀州刺史・太尉・尚書令を贈られ、諡は貞。天統三年(567年)、さらに假黄鉞・左丞相・太師・録尚書事・冀州刺史を追贈され王に進爵、高祖廟廷に配享された。子の叡が嗣いだ。

琛の子・叡――孝心の逸話

  • 叡、小名は湏拔。生後三十日で父を失い、聡慧で早熟だったため高祖に特に愛され、宮中で游娘に育てられ諸子と同様に扱われた。魏の興和年間、南趙郡公の爵を襲う。
  • 四歳まで実母を知らず、実母は魏の華陽公主だった。従母の姉妹の娘・鄭氏に実母のことをからかわれたのを機にその存在を知り、精神が不安になった。高祖の計らいで元夫人のもとで実母と対面し、抱き合って号泣した。高祖はこれに深く心動かされ、平秦王に「この子は天性至孝で、我が子たちも及ばない」と語り、その日を休務とした。
  • 叡は十歳の時に孝経を読み「資於事父」の句で涙した。十歳で母を喪うと、高祖自ら領軍府まで送り喪を発し、哀しみのあまり三日間水も喉を通らなかった。高祖と武明婁皇后が慇懃に諭し、ようやく喪礼に従った。仏像を安置し長斎し骨立するほど痩せ、杖をついて立つほどだった。高祖は常山王に共に寝起きさせ日夜説諭させ、左右に水を止めさせぬよう命じたが、それでも清い漱ぎ以外は口にしなかったため、高祖は必ず叡を自分の食膳に同席させて食事を促した。
  • 高祖崩御の際は哭泣のあまり血を吐いた。婚礼を控えた頃も憂色を浮かべ、世宗が鄭述祖の娘を娶らせようとしたところ、叡は孤児として育った身の上を語り咽び泣き、世宗もこれに感じ入った。

叡――地方官としての治績

  • 学問に励み夜遅くまで勉強した。武定末年、太子庶子に除せられる。顯祖が禅を受けると南趙郡王に進封され、食邑千二百戸。散騎常侍に遷る。身長七尺、容儀は堂々とし、吏事に通じ人を見る目があった。
  • 天保二年、定州刺史・撫軍将軍・六州大都督となる。時に十七歳。庶務に心を配り姦邪を摘発し農桑を勧め、士民を礼遇したため大いに治まり、良牧と称された。天保三年、儀同三司を加えられる。
  • 天保六年(555年)、山東の兵数万を率い長城を築く任にあたり、盛夏六月、道中で日除けを退け軍人と労苦を共にした。定州には毎年氷を貯える氷室があったが、長史の宋欽道が叡の暑熱を案じ氷を送らせたところ、叡は「三軍の者は皆温水を飲むのに、自分だけ寒氷を用いるのは義に反する」と嘆じ、氷を溶かすに任せ一切口にしなかった。兵たちはこれに感激した。
  • このとき、役を終えた徒卒がそれぞれ自力で帰路につき、老弱の者が山北に取り残され飢えと病で多くが死んだため、叡は自ら部下を率いてこれと共に帰還し、部隊を編成して強弱を助け合わせ、水草の良い場所で休息させ、余りある物資を分け与えたため、十のうち三、四割が助かった。
  • 天保七年、滄瀛幽安平東燕六州諸軍事・滄州刺史となる。天保八年、鄴に召還され北朔州刺史・都督北燕北蔚北恒三州及厙推以西黄河以東長城諸鎮諸軍事となる。新たに移住した民を慰撫し、烽戍を配置し内外の防禦に条法を整え、大いに軍民に安んじられた。水のない土地では祈って井戸を掘らせ、鍬入れするとすぐ泉が湧いたため、今も「趙郡王泉」と呼ばれる。
  • 天保九年、車駕が楼煩に幸すると叡は行宮に参朝し、そのまま晋陽に従駕した。時に済南(廃帝)が太子監国となり大都督府を立て尚書省と分治していたが、顯祖は特にその人選を重んじ、叡を侍中・攝大都督府長史とした。のち侍宴の際、顯祖が常山王演に「これほどの長史を用いるのはどうか」と問い、演は「陛下が庶政に心を尽くし賢を優遇されるのは、昔からこれほどの人事は聞いたことがない」と答え、帝も「自分でも適切だと思う」と語った。
  • 天保十年、儀同三司・侍中・将軍・長史はそのままに転じ、まもなく開府儀同三司・驃騎大将軍・太子太保を加えられた。

叡――中央での重用と非業の死

  • 皇建初年(560年)、并州の事を行い、孝昭帝の崩御に際して顧命を受け、鄴で世祖(武成帝)を迎え、その功により尚書令を拝命、別に浮陽郡公に封ぜられる。太史・太子太傅を監し律令を議定、また北狄討伐の功により潁川郡公に封ぜられ、再び尚書令を拝命、大宗正卿を攝す。
  • 天統中、父琛に假黄鉞、母元氏に趙郡王妃・眞昭華陽長公主の諡を追贈され、有司が礼を備えて墓に赴き拝授した。時は隆冬の厳寒であったが、叡は跣足で哭泣し顔を破裂させ数升の血を吐いた。帰還後も参謝できないほどで、帝は自ら邸に赴き見舞った。司空を拝命し録尚書事を攝す。突厥が并州に侵入した際、帝が自ら軍を率い、進退はすべて叡の節度に従わせた。その功により宣城郡公に復封され、宗正卿を攝し、太尉に進み五礼を監議した。
  • 叡は長く朝政を掌り清廉であったが、名声が高まるにつれ次第に疎まれ忌まれ、古の忠臣義士を選び「要言」という書を著してその意を託した。
  • 世祖の崩御後数日、叡は馮翊王潤・安徳王延宗・元文遥と共に後主に上奏し、和士開を宮中に留めるべきでないと述べ、太后にも奏上した。これにより士開は兖州刺史に出されたが、太后は「士開は長く仕えてきたので百日ほど留めたい」と言い、叡は正色して許さなかった。太后は数日にわたり側近を通じて意向を伝えたが、叡は「国家の事は重く死をも恐れぬ。もし生を貪り国家の混乱を放置すれば、我が志ではない。まして先皇の遺旨を受けた重い託を負う身、幼い嗣主のもとに邪臣を侍らせてよいはずがない」と述べ、なおも懇切に諫言した。太后が酒を賜おうとすると、叡は「今は国家の大事を論じているのであり、酒宴の座興ではない」と正色し、言い終えると退出した。
  • その夜、叡の夢に長さ一丈五尺、腕の長さ一丈余りの人物が現れ門前で叡を圧するように立ち、やがて消え去った。叡はこれを不吉として起き上がり、「大丈夫の運命がここに至るとは、太后に殺されるのではないか」と嘆いた。翌朝入朝しようとする叡を妻子は諫めたが、叡は「古来忠臣は身命を顧みない。社稷の事は重く死をもってこれに報いる。婦人の言葉で危難を避けるつもりはない。和士開ごとき小物にこれほど横暴を許すくらいなら、いっそ死んで先皇に仕えたい方がよい」と述べ、殿門で「入るな、危険がある」と警告されても「天に恥じることなく死んでも悔いはない」と入内し太后に会った。太后がなお和士開のことを持ち出すと、叡はますます強く固辞した。
  • 永巷を出たところで兵に捕らえられ、華林園の雀離仏院に送られ、劉桃枝に絞め殺された。時に年三十六。大霧が三日続き、朝野はこれを痛惜した。一年後、王の礼で改葬することが許されたが、贈諡はなされなかった。子の整信が嗣ぎ、散騎常侍・儀同三司を歴任し、学を好み品行があったが、若くして狩猟中に落馬し腰脚を傷め、二度と歩けぬまま長安で没した。
  • 琛の同母弟・惠寶は早世し、元象初年(538-539年)に侍中・尚書令・都督四州諸軍事・青州刺史を追贈され、天統三年にさらに十州都督・陳留王を追贈され、諡は文恭。清河王岳の第十子・敬文がその後を嗣いだ。