北齊書卷十 列傳第二 上黨剛肅王渙

上黨剛肅王渙は神武帝の第七子、字は敬寿。武勇に優れ、天保6年(555年)に梁将裴之横を斬るなど軍功を挙げたが、文宣帝に召された際に恐れて逃亡し捕らえられ、永安簡平王浚とともに地下牢に幽閉されて殺された(享年26)。

年表(8件)

上黨剛肅王渙

  • 上党剛粛王渙、字は敬寿、神武帝の第七子。生来雄傑不羈で、幼少より常に将略を自負していた。神武帝は成長した渙を愛して「この子は私に似ている」と言った。成長すると力は鼎を持ち上げるほど、武才は並ぶ者なく、常に左右に「人は学がなくてはならないが、必ずしも博士になる必要はない」と語り、読書して大意を掴む程度で深く耽ることはなかった。
  • 元象年間、平原郡公に封ぜられた。文襄帝が賊に遭った際、渙はまだ幼く西学で学んでいたが、宮中の騒ぎを聞いて「大兄はきっと難に遭ったのだ」と言い、弓を引いて飛び出した。武定末、冀州刺史に任じられ善政を行った。天保初め、上党王に封ぜられ、中書令・尚書左僕射を歴任し、常山王演(孝昭帝)らとともに悪しき勢力を討伐して諸城を築いたが、鄴下の軽薄な者たちを集めて郡県の権限を侵し法司に糾弾され、文宣帝はその側近数人を処罰し、渙も譴責を受けた。
  • 天保6年(555年)、衆を率いて梁王蕭明を江南へ送り返し、あわせて東関を破り梁の特進裴之横らを斬った。威名は甚だ盛んであった。8年(557年)、録尚書事となった。初め術士が「高氏を滅ぼす者は黒衣を着る」と言ったため、神武帝以来外出の際には僧を見ることを忌んで黒衣を避けるようになっていた。この時文宣帝は晋陽におり、忌む所を左右に問い「何が最も黒いか」と尋ねると「漆に勝るものはありません」と答えた。帝は渙が七男であることからこれに当てはめ、庫真都督破六韓伯昇を鄴に遣わして渙を召した。渙は紫陌橋に至って伯昇を殺して逃亡し、河に頼って渡ろうとしたが土地の人に捕えられ帝の元に送られた。鉄の籠に入れられ永安王浚とともに地下牢に置かれ、1年余り後に浚とともに殺された。時に年26。
  • その妃李氏は馮文洛に配された。文洛はもと帝の家の旧い使用人で、功労を積み刺史の位に至った。帝は文洛らに渙を殺させたため、その報いとして妃を与えたのである。乾明元年(560年)に至り、二王の遺骨を集めて葬り、司空を追贈され剛粛と諡された。勅により李氏は邸に戻ることを許されたが、文洛はなお未練を持ち李氏を訪ねた。李氏は左右を居並ばせ、文洛を引き連れて階下に立たせ、これを責めて「難に遭い流離してこの上ない辱めを受けた。志操は薄弱で自ら命を絶つこともできなかった。幸いにも恩詔を蒙り藩闈に戻ることができた。お前は誰の家の奴僕か、なおも私を侮ろうというのか」と言い、杖打ち100回を加え、血が地に流れた。渙には嫡子がなく、庶長子宝厳が河清2年(563年)に爵位を継ぎ、金紫光禄大夫・開府儀同三司で終わった。