北齊書卷四 帝紀第四 文宣

高歓の第二子、文襄帝の同母弟の高洋(字は子進、諡は文宣皇帝、廟号威宗のち顕祖、?-559年)。兄文襄の暗殺後を受けて東魏の政務を掌握し、孝静帝から禅譲を受けて斉(北斉)を建国した初代皇帝。即位当初は吏治を整え契丹・柔然・突厥を破るなど武功を挙げたが、晩年は酒色に溺れ暴虐な行いが目立った。

年表(8件)

出自と生い立ち

  • 顕祖文宣皇帝は諱を洋、字を子進といい、高祖(神武)の第二子で世宗(文襄)の同母弟。母(婁太后)が身籠った際、夜ごと赤光が室を照らしたという。かつて神武が尒朱栄の下で困窮していたころ、飢寒に苦しむ中で幼い洋が突然「生きられる」と口にし、周囲を驚かせた逸話が伝わる。
  • 成長すると色黒で頬が張り、下顎が尖り、鱗のような肌、重なった踝を持ち、遊戯を好まない深沈とした性格であった。晋陽の異能の沙門「阿禿師」が禄位を問われても手で天を指すのみで答えなかった際、居合わせた洋を見て人々は怪しんだという。神武が諸子の意識を試そうと乱れた糸の束を与えた際、洋だけが刀で断ち切り「乱れたものは断つべし」と述べ、神武はこれを是とした。また偽の襲撃を装う訓練で他の兄弟が怖じ気づく中、洋は落ち着いて彭楽の襲撃を退け生け捕りにした。世宗に従い遼陽山を通った際、他の誰にも見えなかった「天門が開く」異象を独り見たとも伝えられる。表面は明敏さを隠して鈍く見えたため世宗はしばしば侮ったが、神武だけはその非凡さを見抜き、師の范陽盧景裕も「この子の見識の深さは自分にも測りかねる」と語ったという。
  • 天平二年、散騎常侍・驃騎大将軍・儀同三司・左光禄大夫・太原郡開国公。武定元年、侍中を加え、二年、尚書左僕射・領軍将軍に転じ、五年、尚書令・中書監・京畿大都督を授けられた。

武定七年(549年)~八年(550年)――魏より禅譲を受ける

  • 武定七年八月、兄世宗(文襄)が蘭京に暗殺されるという急変に際し、洋は顔色一つ変えず賊を斬り、その首を漆で塗って「奴が反乱を起こしたが大将軍は軽傷」と偽り動揺を鎮めた。晋陽に赴いて政務を総覧し、寛厚な処置で不便な諸事を改めた。十月、咸陽王元坦を太傅、潘相楽を司空に任じ、周辺諸国・州郡の内属が相次いだ。十二月、彭楽を司徒太保、賀抜仁を并州刺史とした。
  • 八年正月、魏帝は世宗のため哀を挙げ、諸州の内属が続いた。戊辰、魏の詔により洋は使持節・丞相・都督中外諸軍事・録尚書事・大行台・斉郡王に進み、食邑一万戸。三月、さらに斉王に進封され渤海など五郡十万戸を食邑とした。夢占い(額に点が加わり「主」の字となる)により進位の兆しとされた。五月、鄴に赴き相国・総百揆に進み、冀州・并州・定州の十郡二十万戸を加増、九錫の礼を受けた。
  • 魏帝は冊命の詔で、神武・文襄父子二代の功業(東魏建国の擁立、内乱の平定、南征北討による威名の確立、江淮・関峴・晋熙・南海方面への拡大、諸胡族の帰順、祥瑞の出現など)を長大な美辞で称え、洋にその功業を継ぐ者として大路・戎路の車、衮冕の服、軒懸の楽、朱戸、納陛、武賁の士三百人、鈇鉞、彤弓彤矢・盧弓盧矢、秬鬯の九錫を授けた。
  • 続いて魏帝は禅譲の詔を発し、「魏の宗祧は孝昌以来衰え、献武王・文襄王の功により再興したが、天命は既に斉に帰した」として帝位を斉に譲る旨を宣言。戊午、洋は南郊で即位式を行い、皇天上帝に告げる祭文で魏晋の禅譲の故事に倣うことを述べた。この日、京師で赤雀が獲られる瑞祥があったという。太極前殿に戻り、天保元年と改元し大赦。百官に進階、鰥寡孤独への賜与を行った。
  • 己未、魏帝(孝静帝)を中山王に封じ食邑一万戸、上書に臣と称さず詔を受けず天子の旌旗を用いることを許した。皇祖文穆王を文穆皇帝、皇考献武王を献武皇帝、皇兄文襄王を文襄皇帝とそれぞれ追尊。魏朝からの官爵降格に例外規定を設け、信都以来の功臣は対象外とした。
  • 六月、風俗の奢侈(婚喪の華美な浪費、奴婢の贅沢な服飾)を戒める詔を発し、また孔子祭祀のための崇聖侯の封(食邑百戸)、魯郡の廟宇修築、堯舜廟・孔子廟・老子廟など祀典に載る祭祀の励行を命じた。冀州渤海・長楽二郡(神武の始封地)、太原(挙兵の地)、青州斉郡(覇業の地)への租税免除も行った。
  • かつて神武・文襄に仕えて没した孫騰・尉景・婁昭・高昂・慕容紹宗・万俟干・叚栄・劉貴・竇泰・劉豊・蔡儁らに使者を遣わし墓を祭らせ遺族を慰問させた。宗室の高岳・高隆之・高帰彦・高思宗・高長弼・高普・高子瑗・高顕国・高叡・高孝緒をそれぞれ王に、功臣の厙狄干・斛律金・賀抜仁・韓軌・可朱渾道元・彭楽・潘相楽を王に封じた。さらに諸弟の高浚(永安王)・高淹(平陽王)・高浟(彭城王)・高演(常山王)・高渙(上党王)・高淯(襄城王)・高湛(長広王)・高湝(任城王)・高湜(高陽王)・高済(博陵王)・高凝(新平王)・高潤(馮翊王)・高洽(漢陽王)を封じ、子の高殷を皇太子、皇后李氏を立てた。
  • 厙狄干を太宰兼司徒、彭楽を太尉兼司空、潘相楽を司徒、司馬子如を司空とするなど人事を整え、文襄妃元氏を文襄皇后に、文襄の子高孝琬を河間王、高孝瑜を河南王に封じた。国子学の整備、蔡邕石経の学館移設、直言の奨励、農桑の勧奨なども詔で命じた。高麗王高成を冊封し、梁の蕭綸を梁王に封じるなど周辺国との外交も進めた。十月、皇太后への朝見の礼を行い、相国府を廃して騎兵・外兵の二省を機密掌握のために別置した。十一月、周文帝(宇文泰)が陝城から出兵したが北斉の軍容を見て「高歓は死んでいなかったか」と嘆じ撤退した。

天保二年(551年)~四年(553年)

  • 二年正月、圓丘の祭祀で神武皇帝を配祀し、籍田の礼を行った。二月、太尉彭楽が謀反を企て誅殺された。三月、梁の湘東王蕭繹(後の元帝)を相国・建梁台に承制。梁の内乱(侯景による簡文帝廃立、蕭棟擁立)が続く中、南朝諸州の内属が相次いだ。
  • 三年正月、庫莫奚を代郡で大破し十余万の家畜を得た。二月、蠕蠕(柔然)主阿那瓌が突厥に敗れ自殺、その一族が北斉に亡命し新たな主が擁立された。四月、南征軍が広陵で伝国璽を送還させ、梁の内乱に乗じ南方経略を進めた。十一月、蕭繹が江陵で即位(梁元帝)。
  • 四年、常平五銖の新銭を鋳造。契丹の侵入に対し、帝自ら北巡して精鋭を率い、平州から白狼城・昌黎城を経て契丹を急襲し十万余口・数十万頭の家畜を得る大勝を収めた(帝自身が露頭・徒歩で先頭に立ち千里を進んだという)。閏月、梁と通聘。十二月、突厥が蠕蠕を攻め蠕蠕が南奔してきたため、帝は自ら北討して突厥を降し蠕蠕の新主を擁立、馬邑川に安置した。

天保五年(554年)~七年(556年)

  • 五年正月、山胡を石楼で大破し平定(自魏代未踏の険地であったという)。三月、蠕蠕が叛くとこれを親征し大破。四月、茹茹(蠕蠕)の襲撃を金山下で迎撃し虜衆三万余人を捕らえた。十月、西魏が梁元帝を江陵で滅ぼし(元帝は西魏将于謹に殺害された)、梁将王僧辯が蕭方智を擁立。北斉は清河王高岳らを送り梁の内乱に介入。
  • 六年、清河王岳の軍が長江を渡り夏首を落とし、蕭明を梁王に擁立して送り込んだが、まもなく陳霸先が王僧辯を殺して蕭明を廃し蕭方智を復立した。北斉は茹茹討伐も続け、白道から沃野にかけて追撃し大きな戦果を得た。
  • 七年、蕭軌らの軍が長江を渡ったが霖雨で戦況が悪化し鍾山で敗北、多数の将が戦死し兵の八割近くを失った。この頃、帝は肉食を断つなど禁欲的な行動も見せた。長城の大規模築造(幽州から恒州まで九百里、動員百八十万人)も行われた。

天保八年(557年)~十年(559年)――晩年

  • 八年、蝦蟹の類の捕獲を禁じ鷹狩りも禁止する詔を発する一方、大規模な馬射で京師の婦女に強制的な観覧を課すなど専横的な振る舞いも見られた。冀州民劉向の謀反を鎮圧。丘郊・禘祫などの祭祀を簡素化する詔も出された。河北・河南の広域で蝗害が発生。周では宇文護が閔帝を廃殺し明帝を擁立。陳霸先が梁主蕭方智を廃して自立(陳の建国)。
  • 九年、蝗害対策や旱害への対応(西門豹祠の破壊なども含む)が続き、北予州刺史司馬消難が周に投降するなど動揺も見られた。鄴の三台(金鳳台・聖応台・崇光台)が完成し、大規模な造営が続いた。梁の残存勢力(王琳ら)が蕭荘を梁主に擁立し北斉に帰属を求めた。
  • 十年正月、甘露寺での禅居を始め、軍国の大事のみ奏聞させる隠遁的な統治に移行。皇太子紹義を広陽郡王に封じるなど後継体制も整えたが、十月甲午、晋陽宮徳陽堂で崩御。時に年三十一。遺詔で喪の簡略化(三十六日制)を命じた。乾明元年二月、武寧陵に葬られ、諡は文宣皇帝、廟号は威宗(のち武平初年に文宣・顕祖と改諡)。

史論

  • 帝は若くして大度あり見識も沈着で、外柔内剛、果断な性格であった。吏事を好み事務処理に長け、即位当初は法により部下を統御し公正を第一とし、身内・旧臣であっても違反を許さず、内外は粛然とし、軍国の大計は独断で決し、天下三分・諸夷未服の情勢を睨んで甲兵を整え、自ら戦陣に立って矢石を恐れず、しばしば危難を犯して勝利を収めた。関隴平定に向け激怒して魏収に詔を起草させた逸話も伝わる。
  • しかし治世六、七年を過ぎると功業を誇り酒色に溺れるようになり、自ら舞い歌い昼夜の別なく耽溺し、時に袒身に胡服・錦綵をまとい市中を闊歩し、酷暑・厳冬にかまわず裸身で馳駆するなど常軌を逸した行動が目立つようになった。殺害された者を解体し焼く・河に投げるなど残虐な行為も多く、晩年には幻覚・幻聴を訴え、些細な機嫌の悪化で誅殺に及ぶことも増えた。元宗室は永安王(高浚)・上党王(高渙)を含め多くが害され、高隆之・高徳政・杜弼・王元景・李蒨之らも無実の罪で殺された。都督尉子耀を矛で刺殺し、都督穆嵩を鐻で撃ち殺し、都督韓悊を理由なく斬るなど酷濫な事例も多い。それでも厳格な統御と博識強記により百官は畏れて非違を犯さず、造営や賞賜の乱発で国庫は窮乏し、皇太后以下の縁者も憂慮したが、帝を諫める術はなく、晩年は食を摂らず飲酒に耽って崩じたと伝えられる。
  • 論じて言う。高祖(神武)は四方の異民族を平定し、鄴遷都以後は権力の基盤が整えられていたため、顕祖はこれを承継するだけで内外の帰服を得た。即位一年足らずで政治を整え数年で治世を成したが、その後は酒色に溺れ猖狂・昏暴に至り、近世に類を見ない暴政となった。享国が長くなかったのはこの病のためであり、子孫が絶えたのもその余殃であろう。
  • 賛にいう。天保帝位に即き、天命はその身に帰した。区夏を治め帝籙を受けたが、その勢いは頌歌に相応しくとも、心は龜玉のように毀たれた。当初は政術に励み善き名声を得たが、克己の心を忘れ放埓に走り、理を極めながらも残虐に、性を尽くしながらも荒淫に陥った。