北齊書卷三 帝紀第三 文襄
高歓の長子、高澄(字は子恵、諡は文襄皇帝、廟号世宗、?-547年)。父神武の後継として若くして東魏の朝政を統轄し、吏治の刷新や侯景との和解交渉にあたったが、皇帝禅譲を目前にして厨房の捕虜蘭京らに暗殺された。
年表(8件)
- 中興元年531年渤海王世子に立てられる
- 中興二年532年侍中・開府儀同三司に加えられ孝静帝の妹馮翊長公主を娶る
- 天平元年534年使持節・尚書令・大行台・并州刺史を加えられる
- 元象元年538年吏部尚書を摂し、年功序列によらぬ人材登用に着手
- 興和二年540年大将軍・領中書監を加え、崔暹を御史中尉に推挙し権豪の不正を糾弾させる
- 武定五年正月547年父神武の薨去に伴い喪を秘し、司徒侯景が河南で反乱
- 武定五年七月547年使持節・大丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行台・渤海王とされる
- 武定五年七月547年晋陽で厨房の捕虜蘭京らに刺殺される。時に年二十九
出自と生い立ち
- 世宗文襄皇帝は諱を澄、字を子恵といい、神武の長子で母は婁太后。生まれつき聡明で神武にその非凡さを見出された。魏の中興元年(531年)、渤海王世子に立てられ杜詢に学び、その理解の速さは師をも感嘆させた。中興二年(532年)、侍中・開府儀同三司に加えられ、孝静帝の妹馮翊長公主を娶った。時に十二歳ながら成人のような立ち居振る舞いで、神武が時事の得失を問うても道理に適った受け答えをしたため、以後は軍国の策謀にも参与するようになった。
天平元年(534年)~興和二年(540年)――朝政への参与
- 天平元年、使持節・尚書令・大行台・并州刺史を加えられ、三年には朝政の輔弼・領軍・左右京畿大都督となった。当初は年少ゆえに軽んじられたが、その機略と厳明な統率により朝野は粛然となった。
- 元象元年、吏部尚書を摂し、崔亮以来の年功序列による人選の慣例を改め、真に得難い人材の登用に力を注いだ。尚書郎も精選し、才名ある士人を積極的に抜擢し、まだ顕職に就いていない者も賓客として招き、山園の遊宴では射・賦詩を競わせ各人の長所を発揮させた。
- 興和二年、大将軍・領中書監を加え吏部尚書を摂し続けた。正光以後の乱世で官吏の廉潔さが失われていたことから、吏部郎崔暹を御史中尉に推挙し権豪の不正を糾弾させ、風俗を一新させた。街頭に告示を掲げて政治の要諦を説き、直言の道を開いて、諫言する上書には厳しい内容でも寛容に応じた。
武定四年(546年)~五年(547年)――神武の死と侯景の乱
- 武定四年十一月、神武の西討が病により班師すると、文襄は軍中に駆けつけ晋陽まで付き従った。五年正月景午、神武が薨去したが喪は秘され、辛亥、司徒侯景が河南で反乱を起こし、潁州刺史司馬世雲がこれに応じた。侯景は豫州刺史高元成・襄州刺史李密・広州刺史暴顕らを捕らえ、司空韓軌が討伐に赴いた。四月、文襄は鄴で朝見し、六月、韓軌らは潁州から班師、文襄は晋陽に戻ってようやく喪を発表し、神武の遺志を文武に告げた。
- 七月、魏帝の詔により文襄は使持節・大丞相・都督中外諸軍・録尚書事・大行台・渤海王とされたが王爵を辞そうとした。魏帝は太原公高洋(後の文宣帝)に軍国の統理を代行させようとしたが、文襄は八月、神武の遺令を奉じ食邑・封賞の削減を上奏し、丞相位も固辞したが、朝野の信頼は文襄に集まっているとして認められなかった。
- 侯景についてはなお北への帰順の意があるとの説もあり、その部将蔡遵道の伝える悔悟の様子を信じた文襄は、侯景に降伏を勧める長文の書を送った。書中では旧誼を説き、西の宇文氏・南の梁との連携に頼る侯景の窮状を指摘し、「卷甲して来朝すれば豫州の地位を保証する」と説得したが、侯景は返書で「自分は畏懼と自衛のためにやむなく叛いたのであり、羣帥の苛烈な包囲攻撃こそが事態を悪化させた。両者は本来対等の位にあり、権勢の違いはあれど臣従の理はない。梁との連携を頼み、割地講和による三分鼎立を提案する」と応じ、和解には至らなかった。文襄はこの返書の文章を見て行台郎王偉の作と見抜き、その才を惜しんだという。また侯景を梁から離間させるため偽の書を送る策も講じたが、その書が梁側に漏れ信用されなかった。
- 三月辛亥、孝静帝と文襄が鄴東で狩をした際、帝の不興を買う言動(「臣澄、陛下に酒を勧む」との言に帝が「昔より亡びぬ国はない」と応じたこと)から文襄が怒り、崔季舒に命じて帝を三度殴らせるという事件も起きた。帝は謝罪の使者季舒に絹を賜ったが、文襄はこれを一段に減らさせ、帝は謝霊運の詩を吟じて涙したという。
- 文襄はその後、黎陽から虎牢を経て太行山より晋陽へ戻り、道中の百僚に自戒の書を送るなど朝野を引き締めた。六月、北辺を巡視して城戍に賞賜。七月、晋陽に戻った辛卯、賊に襲われ薨去した。時に年二十九、峻成陵に葬られた。斉の受禅後、文襄皇帝・廟号世宗と追諡された。
暗殺の顛末
- 薨去に先立ち「百尺の高竿摧折し、水底の燈滅す」との童謡があり、識者は文襄の死の予兆と見た。数日前、崔季舒が北宮門外で理由もなく鮑明遠の詩「将軍既に下世すれば、部曲も亦罕に存す」を悲痛な声で吟じ、これを見た者は皆怪しんだという。
- ことの発端は、梁の将蘭欽の子蘭京が東魏の捕虜となり厨房に配されたことにある。父欽が贖おうとしたが文襄が許さず、京が再訴すると監厨の薛豊洛が「また訴えれば殺す」と杖で打った。京は六人の同志と共に謀反を計画。文襄は北城の東柏堂で琅邪公主への寵愛のため護衛を薄くしており、太史が「宰輔の星に異変があり一月を出ずして凶あり」と奏したが、文襄は「先日杖で打たれた小人が私を脅しているだけだ」と取り合わなかった。
- 禅譲を目前に控え、陳元康・崔季舒らと左右を退けて百官の人選を議していたところ、京が食事を運んできた。文襄は「昨夜この奴が私を斬る夢を見た、殺せ」と命じたが、京はこれを聞き刀を盤に隠して「食事を持ってきた」と偽って進み出た。文襄が「まだ食事は求めていない、なぜ来た」と咎めると、京は「殺しに来た」と刀を振るった。文襄は自ら床に飛び込んで傷を負い、賊党が床を除けて殺害した。これに先立ち「軟脱帽、床底に喘ぐ」との訛言があり、まさにその通りとなった。当時、東城の双堂にいた太原公高洋が駆けつけて賊を討ち、京らを八つ裂きにしてその首を漆で塗り喪を秘し、「奴が反乱を起こしたが大将軍は軽傷で大事ない」と徐に発表した。