北齊書卷二 帝紀第二 神武下

高歓(神武皇帝)の後半生を描く。東西魏分裂後、東魏の丞相として西魏の宇文泰と各地で激戦を重ね(沙苑・河陰・芒山・玉壁)、勝敗を繰り返しながら東魏の実権を握り続けたが、玉壁攻防での大敗を機に病を得て547年に薨去した。

年表(11件)

天平元年(534年)――東西魏分裂

  • 正月壬辰、神武は費也頭紇豆陵伊利を河西で討滅し、その部族を河東に移した。二月、永寧寺の九層浮図が焼失し、東萊や海上の人々が海中にそれを見たとの噂が広まり、識者は「永寧の災は魏の不安、渤海(神武)の応」と解釈した。
  • 魏の孝武帝は次第に神武と距離を置き、侍中封隆之への妻あてがいの話を巡り孫騰との間で疑心が生じ、隆之がこれを斛斯椿に漏らしたことから帝の不信が深まった。孫騰が武具を帯びたまま入省し御史を殺した廉で出奔し帝の暴行を訴えたこと、領軍婁昭が病と称し晋陽に帰ったこと、帝が斛斯椿を領軍に据え河南・関西の刺史を独自に配置したことなど、両者の対立が表面化した。
  • 神武配下の刺史たちも圧迫を受け、帝は「宇文黒獺(宇文泰)征討」を名目に南征を装い戒厳を布告した。神武はこれに応じ河東・恒州・瀛州・汾州・并州・冀州などから合計十六万余の兵を動員する旨を上表したが、実際には帝への防備であった。
  • 帝は神武の上表を公にして議論させ出兵を止めようとしたが、神武は僚佐と協議のうえ改めて上表し、忠誠を誓う一方で佞臣の排除を求めた。帝は舎人温子昇に勅を起草させ(子昇が躊躇すると帝は剣を抜いて促した)、両者の間で長文の応酬が交わされた。帝の勅は神武の忠誠を疑いつつも、封隆之・孫騰の逃亡の不審、諸方面軍の動員の不審を鋭く指摘し、「朕は薄徳だが、そなたが立てた以上、事あれば朕の悪評となる。誠を守るなら百万の兵があろうと憂いはない。邪に傾き南進すれば匹馬なくとも空拳で争おう」と痛烈に述べた。
  • 帝は当初、洛陽が久しく戦乱を経て地勢も狭いことから鄴への遷都を神武に勧められたが、「高祖が定めた都を軽々には動かせない」と拒み、神武は詔に従いつつも別途謀を続けた。帝はさらに、神武が兵を退き糧道を絶てば疑いは晴れると説いたが、両者の溝は埋まらなかった。
  • 帝は左僕射任祥の逃亡や北来の文武官への去就自由の布告など、対応に苦慮した末に神武討伐の詔を発した。神武は「孤は尒朱氏の専横を討ち帝室を奉じたのに、斛斯椿の讒により逆賊とされた。今回の進軍は椿を誅するのみ」と宣言し高昂を先鋒として進軍した。
  • 帝は関中に兵を召し賀抜勝を呼び寄せ、各所に守備を配したが、神武配下の竇泰・莫多婁貸文・韓賢らが各方面で迎撃し、行台賈顕智も寝返って帝方の侯幾紹が戦死した。七月、帝は河橋に布陣したが、神武が引き続き恭順を示しても応じず、ついに神武は河を渡って進軍。帝は羣臣と協議の末、関中の宇文泰を頼って長安へ出奔した。
  • 己酉、神武は洛陽に入り永寧寺に駐屯。八月甲寅、百官を集め「危難に処して諫めず、逃げもせず寵栄を貪った者は臣節に悖る」として、開府儀同三司叱列延慶ら数名を誅殺した。神武は政務空白を避けるため清河王元亶を大司馬として政務を代行させた(元亶が警蹕を称したことを神武は快く思わなかった)。
  • 神武は西進して潼関を落とし、長城・龍門を攻め、都督薛崇礼が降伏。河東に退いて防備を固めた後、九月庚寅、洛陽に戻り孝武帝へ再三使者を送ったが応答なく、百僚・耆老を集めて後継を議し、清河王世子善見を立てることに決した(善見は「天子に父無し、我が身を惜しまぬ」と即位を受諾、これが孝静帝である)。これにより魏は東西に分裂した。
  • 神武は洛陽が梁と接する立地の不利を考え、鄴への遷都を決断(護軍祖瑩が賛同)。詔から三日で戸四十万が鄴へ移住し、以後軍国の政務はすべて丞相府に帰した。当時「可憐なる青雀子、飛びて鄴城裏に来る」との童謡があり、青雀子は孝静帝、鸚鵡子は神武を指すとの噂が立った。
  • また孝昌年間から自立していた山胡の劉蠡升(年号「神嘉」を称す)の討伐にも着手し、天平二年正月、西魏渭州刺史可朱渾道元が帰順、神武は劉蠡升を急襲して大破。魏帝(孝静帝)は神武を相国・仮黄鉞・剣履上殿・入朝不趨に進めたが、神武は固辞した。三月、神武は蠡升の太子への婚姻話を利用し不意を突いて蠡升を討たせ、その北部王が蠡升の首を献じた。残党の擁立した南海王・北海王・西海王および皇后・公卿以下四百余人、胡魏五万戸を捕らえた。

天平三年(536年)――夏州・沙苑への攻防

  • 正月甲子、神武は厙狄干らと騎兵一万で西魏夏州を四日間で急襲し、刺史費也頭斛抜俄弥突を捕らえ、都督張瓊に守らせて五千戸を連れ帰った。西魏霊州刺史曹泥とその婿涼州刺史劉豊が内属を求めると、周文(宇文泰)が霊州を水攻めにしたが、神武は阿至羅の騎兵三万を送り西軍の背後を突かせて撤退させ、自ら泥・豊の遺民五千戸を迎え帰した。魏帝は神武に九錫を加えようとしたが固辞。
  • 二月、阿至羅に西魏秦州刺史万俟普撥を圧迫させ、三月甲午、普撥とその子受洛干、幽州刺史叱干宝楽、右衛将軍破六韓常ら三百余人が投降。八月、斗尺の統一を全国に布告。九月、汾州の胡人王迢触・曹貳龍が反乱し年号「平都」を称したが討平。十二月、神武は自ら西討に出て、竇泰を潼関に、汝陽王元暹・高昂らを上洛方面に進めたが、天平四年正月、竇泰軍は敗れ自殺し、神武は蒲津まで進んだが氷が薄く渡れず撤兵。高昂は上洛を陥落させた。
  • 四月、并・肆・汾・建・晋・東雍・南汾・秦・陝の九州が干魃と飢饉に見舞われ、開倉賑給を上奏。六月、天池で瑞石を得たとの奇瑞。十一月、神武は西討に出て蒲津から二十万を渡河させたが、周文の軍が布陣する沙苑で地の利を失い西軍の鼓譟に紛れて大混乱に陥り、甲十八万を捨てて敗走(沙苑の戦い)。神武は駱駝に乗り小舟で帰還した。

元象元年(538年)――河陰の戦い

  • 三月、神武は丞相の辞任を求め許された。七月、行台侯景・司徒高昂が西魏の独孤信を金墉で包囲すると、西魏帝と周文が救援に赴いたが、神武自ら大軍を率いて河陰で決戦しこれを大破、数万を捕虜とした(河陰の戦い)。ただし司徒高昂・都督李猛・宗顕らが戦死。独孤信は関中へ逃れ、都督長孫子彦は金墉を放棄して逃走。神武は追撃したが崤に至らず撤退し、金墉城を破棄して帰還した。

興和元年(539年)~四年(542年)

  • 興和元年七月、魏帝は神武を相国・録尚書事に進めようとしたが固辞。十一月、新宮完成に伴い鄴で朝賀、宴では神武自ら階を降りて祝賀した。渤海王・都督中外諸軍事の号も辞退したが許されなかった。
  • 二年、阿至羅の別部が投降を求めたが会えず撤退。三年、蠕蠕(柔然)と通好。四年、百官への政務簡素化・諫言奨励などの上奏を行い、九月、西魏の玉壁城(王思政)を包囲したが十二月、大雪により士卒の死者多数で撤兵。

武定元年(543年)――芒山の戦い

  • 二月、北予州刺史高慎が武牢で西魏に寝返り、三月、周文がこれを支援して河橋南城を包囲したが、神武は芒山で西魏軍を大破し督将四百余人を捕虜、六万を斬獲した(芒山の戦い)。この戦いの最中、軍令違反で驢馬を盗み殺した兵を神武が処罰しないでいたところ翌日西軍に投降し神武の所在を漏らしたため西軍の猛攻を受け、神武は落馬し親信都督尉興慶らの助けでかろうじて脱出、興慶は矢が尽きて戦死した。西魏の賀抜勝が十三騎で追撃したが叚孝先の反撃で難を逃れた。豫・洛二州は平定され、劉豊が追撃して弘農まで拓地した。
  • 七月、神武は周文に孝武帝殺害の罪を問う書を送った。八月、相国・録尚書事を再び固辞。肆州北山に長城を築くなど北辺防備も進めた。

武定二年(544年)~三年(545年)

  • 二年、冀定二州を巡視し旱害への蠲免・恤窮を上奏。十一月、山胡を討平し一万余戸を諸州に配した。三年正月、開府儀同三司尒朱文暢らの謀反未遂を鎮圧。晋陽宮の設置を上奏。北辺の城戍整備を進める一方、芒山の戦いの俘虜の桎梏を解いて民間の寡婦と娶わせた。

武定四年(546年)――玉壁攻防と死の予兆

  • 八月、神武は西伐のため晋陽に集結。占い師曹魏祖は日取りの凶を理由に諫めたが従わなかった。当時、東西魏の戦の前には黄黒の蟻の合戦が現れ、黄は東魏、黒は西魏の戦衣の色に見立てて勝敗の前兆とされたが、この年は黄蟻が全滅していたという。九月、玉壁城を包囲。西魏の晋州刺史韋孝寛が鉄の面で防戦し、神武は元盗に射させて目を狙わせるなど激しい攻城戦となったが、土山を築き二十一の坑道を掘っても孝寛に先んじられ、五十日包囲しても落とせず、死者七万を数えるほどの損害を出した。営中に星が墜ち驢馬が一斉に鳴くなど不吉な予兆が続き、神武自身も病を得た。
  • 十一月庚子、病のまま撤兵。世子高澄(文襄)が急ぎ晋陽に召され、亭の悪鳥を射殺させるなど不穏な兆しが続いた。西魏側は神武が弩に当たったとの噂を流し、神武は病をおして重臣たちと会見し、斛律金に敕勒歌を歌わせ自ら和して涙を流したという。
  • 侯景は世子高澄を軽んじ「王がいる間は異心を抱かぬが、王が亡くなれば鮮卑の若造とは共に事をなせぬ」と司馬子如に語っていた。高澄が神武の名で侯景を召したところ、事前の合図(書の裏の点の有無)がなかったため侯景は応じず、神武の病を聞いて自ら兵を擁して割拠する構えを見せた。
  • 神武は世子に「お前の憂い顔は侯景の叛意を案じてのことだろう。景は河南を十四年統べ、常に驕慢の志を抱いていたが、私が彼を用いてきたのはお前のためではない。天下未定の今、事を急ぐな」と告げ、厙狄干・斛律金・可朱渾道元・劉豊生・賀抜焉過児・潘相楽・韓軌・彭楽ら諸将それぞれの人物評を語り、「侯景に対抗できるのは慕容紹宗のみだが、あえて重用せずお前のために残しておいた。厚く用いよ」と遺言した。

武定五年(547年)――神武の死

  • 正月朔、日食があり、神武は「これは私のための兆しか。死んでも恨みはない」と語った。丙午、魏帝に上表した同日、晋陽で薨去した。時に年五十二。喪は秘され、六月壬午にようやく発表、魏帝は東堂で哀悼し緦衰の喪に服した。詔により漢の霍光、東平王蒼の故事に倣い、仮黄鉞・使持節・相国・都督中外諸軍事・斉王の璽紱、輼輬車・黄屋左纛・前後羽葆鼓吹・輕車介士・九錫殊礼を追贈し、諡は献武王とされた。八月甲申、鄴の西北・漳水の西に葬られた。
  • 天保初年に献武帝と追尊し廟号太祖、陵を義平とし、天統元年にさらに神武皇帝・廟号高祖と改諡された。
  • 論評として、神武は深沈にして威厳があり、その機微は人には測りがたく、軍国の大略はほぼ独断で行い、文武の将吏でその全貌を知る者は少なかった。統率は法令厳粛、決断は明察で欺けず、人を知り士を愛し功臣・旧臣を大切にした。文教を重んじ、質実を尊び驕奢を好まず、才能によって人材を登用し、身分によらず抜擢した。虚名だけの者は用いられなかった。将たちは方略を守れば勝利し、違えば敗北するのが常であった。倹素を尚び刀剣・鞍勒に金玉の飾りを用いず、酒量も三杯を超えなかった。仁恕にして士を愛し、明経で知られた范陽の盧景裕、能書で知られた魯郡の韓毅は共に反逆に連座したが恩宥を受け館舎に置かれ諸子の教育に当たった。降将であっても節を尽くした者は罪に問わなかったため遠近の人心を得た。南は梁、北は蠕蠕・吐谷渾・阿至羅まで招き従え、その謀略は深遠であったと評される。