北齊書卷一 帝紀第一 神武上

渤海郡蓚県の人、高歓(字は賀六渾、諡は神武皇帝、廟号高祖)。北魏末の動乱期に尒朱栄に仕えて頭角を現し、栄の死後は信都で挙兵して尒朱一族を韓陵の戦いで打倒、孝武帝を擁立して東魏の実権を握った権臣。本巻(上)は出自から尒朱兆討滅・孝武帝との軋轢の兆しまでを描く。

年表(7件)

出自と生い立ち

  • 高祖神武皇帝は姓を高、名を歓、字を賀六渾といい、渤海郡蓚県の人である。六代前の祖先隠は西晋の玄菟太守で北方に逃れ、隠―慶―泰―湖と続いた。湖は慕容氏に仕え、慕容宝の敗亡後は北魏に帰順して右将軍となった。湖の四子の三男謐は侍御史となったが法に触れて懐朔鎮に流された。謐の子が皇考樹である。
  • 樹は家業を顧みない豪放な性格で、住居に赤光・紫気の怪異が現れても意に介さなかった。神武が生まれた後、母の韓氏は早く亡くなり、姉婿で鎮獄隊の尉景の家で育てられた。北辺の地で育ったため鮮卑の風俗に馴染み、度量大きく財を軽んじ士人を重んじる性格で、豪侠の徒に推戴された。眼光鋭く容貌は傑物の相をもつが家は貧しく、武明皇后(婁氏)を娶って初めて馬を得て隊主となった。
  • 鎮の隊主から函使(駅使)に転じ、洛陽に赴く道中で怪異な瑞祥が現れた。ある時、令史の麻祥に無礼な扱いを受けたが怒らず耐えた。しかし洛陽で羽林の兵が権臣張彝の邸を焼いても朝廷が処罰しないのを見て、天下の乱れを痛感し、私財を投げうって侠客と交わり天下を清める志を抱いた。司馬子如・劉貴・賈顕智・孫騰・侯景らと親交を結んだ。
  • 猟の際、劉貴の鷹が兎を追って民家の犬に阻まれ、その家の盲目の老婆が二人の子を叱った上で客をもてなし、相を見て「皆貴人だが、その中でも神武が最も優れる」と告げた逸話が伝わる。のちに再訪すると誰も住んでいない廃屋であったという。

尔朱栄への帰属(孝昌元年〔525年〕以降)

  • 孝昌元年、柔玄鎮の杜洛周が上谷で反乱を起こすと、神武は一時これに投じたが、その所業を醜として尉景・叚栄・蔡儁と誅殺を謀ったものの果たせず逃亡した。追手に迫られ、世子文襄と魏の永熙皇后(まだ幼く)を武明后が牛の背に抱えて逃げる危難に遭ったが、叚栄の助けで免れた。のち葛栄のもとへ逃げ、さらに秀容の尔朱栄を頼った。
  • 当初は憔悴した姿のため軽んじられたが、劉貴の取り成しと、栄の悪馬を難なく手なずけた逸話により重んじられるようになった。栄との密談で神武は「今上は愚弱、太后は淫乱、佞臣鄭儼・徐紇が権を専らにしている。公の武威をもって討てば覇業は挙げて成る」と説き、栄は深夜まで語り合って大いに喜んだ。以後、軍議に参与するようになった。
  • 栄が并州に移ると神武も従った。竜蒼鷹の逸話(赤気・青衣の人・赤蛇などの瑞祥)が伝わり、栄は神武を親信都督とした。
  • 当時、魏の明帝は権臣鄭儼・徐紇を憎みつつも霊太后を憚って手を出せず、密かに尒朱栄に挙兵を促す詔を下したが、直後に翻意した。まもなく明帝が急死すると栄は洛陽に入り簒奪を図ったが、神武の諫めで思いとどまり、鋳像による占いも成らず断念した。栄は孝荘帝を擁立し、神武はその擁立の功で銅鞮伯に封じられた。
  • 神武は栄の命で葛栄の残党を招降し(王を称する七人を含む)、于暉と共に羊侃を泰山で破り、元天穆と共に邢杲を済南で破る功を挙げた。栄の帳内で第一の酋長として重んじられ、栄は側近に「自分に万一のことがあれば軍を統べうるのは賀六渾(神武)のみ」と語り、尒朱兆に「お前はいずれ賀六渾の下風に立つ」と誡めたという。神武は晋州刺史に任じられ、栄の下で財を蓄えた。

尒朱栄の死とその後の政変

  • 孝荘帝が尒朱栄を誅殺すると、尒朱兆は晋陽から洛陽へ向かい神武を召したが、神武は長史孫騰を遣わして絳蜀・汾胡の反乱を理由に赴かず、以後密かに兆打倒を図るようになった。兆は洛陽に入って孝荘帝を捕らえ北へ連行し、神武は驚いて孫騰を遣り兆を偽って賀しつつ帝の所在を探らせ、義挙により帝を奪還しようとしたが果たせず、書を送って帝を弑してはならないと諫めたが兆は聞き入れず、帝を弑して尒朱世隆らと長広王元曄を擁立し建明と改元した。神武は平陽郡公に封じられた。
  • 費也頭紇豆陵歩藩が秀容に迫り晋陽を脅かすと、兆は神武を招集した。神武は内心兆打倒を図りつつも歩藩の勢力を懸念し、兆と力を合わせてこれを破り、歩藩は戦死した。兆は深く神武に感謝し兄弟の誓いを結んだ。
  • 当時、尒朱世隆・度律・彦伯が朝政を、天光が関右を、兆が并州を、仲遠が東郡を占拠して各々暴虐を極め天下は苦しんだ。葛栄の残党二十余万が契胡(尒朱氏配下)の陵虐に苦しみ反乱が絶えなかった。兆が対策を問うと神武は「六鎮の残党を皆殺しにはできない。信頼できる者に統率させ、罪あれば首謀者のみを罰すべき」と献策。賀抜允がこれに異を唱えると神武はその歯を殴り折り、兆の信任を得てこの任を委ねられた。
  • 神武は兆の泥酔に乗じて汾東での軍集結を宣言し軍権を掌握。梗楊駅子(力自慢の無頼)を親信都督に取り立て、兵士の心を得た。劉貴を通じて并肆の飢饉を理由に六鎮残党を山東で食を求めさせるよう兆に献策し、これが認められた。長史慕容紹宗は「高公は雄略と大兵を握っており危険」と諫めたが、兆は香火の誓いを信じて聞かなかった。
  • 神武は滏口路から出陣する途上、尒朱栄の未亡人・北郷長公主の馬三百匹を奪い取ったため、兆は紹宗を釈放し真意を問い質し、自ら神武を追った。漳水で洪水に阻まれ橋が壊れると、神武は「馬を奪ったのは山東の盗賊に備えるためで他意はない」と釈明し、両者は感激して刀を交えて兄弟の誓いを結び直した。しかし尉景ら壮士が兆を捕えようとしたのを、神武は自らの腕を噛んで押し止め、「今殺せば残党が奔り集まって害はさらに大きくなる。今は放置すべきだ」と言った。

信都での挙兵と韓陵の戦い

  • 神武は山東へ赴き養兵に努め、掠奪を禁じて民心を得た。やがて尒朱兆が六鎮の民を契胡の部曲に編入しようとしていると偽って触れを流し、また征討の名で万人を徴発しようとする書を作らせ、衆の不満を煽った。出征に際し神武は自ら郊外まで見送り涙を流して、「留まれば死、遅参も死、契胡に編入されても死。どうすべきか」と衆に問うと、皆「反乱しかない」と答えた。神武は「首領には規律が必要だ、葛栄のように無法では滅びる。私が主となれば異なる」と告げ、衆は皆従うことを誓った。
  • 六月庚子、信都で挙兵(このときはまだ尒朱氏への反旗とは公言せず)。李元忠が高乾と共に殷州を平定し尒朱羽生の首を献じると、神武は殷州刺史に元忠を任じた。神武はやがて尒朱氏の罪状を公にする上表を行ったが、世隆らはこれを秘して伝えなかった。八月、尒朱兆が殷州を陥落させ李元忠が来奔。孫騰の進言により、朝廷が絶えている現状を打開すべく、十月壬寅、章武王元融の子で渤海太守の元朗を皇帝に擁立(廃帝、中興と改元)。
  • 尒朱度律・仲遠が洛陽に進軍し兆も合流しようとしたが、神武は竇泰の計により離間策を用いて度律・仲遠を戦わずして退かせ、兆を広阿で撃破。十一月、鄴を攻め、地道と柱を用いた焼き討ちで相州刺史劉誕の守る城を陥落させた。永熙元年正月壬午、鄴を拠点とし、廃帝は神武を大丞相・柱国大将軍・太師に進めた。
  • 閏三月、尒朱天光(長安から)・兆(并州から)・度律(洛陽から)・仲遠(東郡から)が総勢二十万と号して鄴に迫り、洹水を挟んで対陣。神武軍はわずか騎二千未満・歩兵三万に満たず、韓陵で円陣を敷き牛驢を連ねて退路を断って決死の覚悟で戦い、四方から突撃して尒朱軍を大破した(韓陵の戦い)。兆は紹宗に「お前の言を聞かずこの敗北を招いた」と嘆き敗走、紹宗は旗を翻して残兵をまとめ西へ退いた。この戦いの前月、天文に王者の興る兆しがあったと史官は記す。
  • 四月、斛斯椿が天光・度律を捕えて洛陽へ送り、長孫承業の部将が世隆・彦伯を斬った。兆は并州へ、仲遠は梁州へ逃れそこで死んだ。開戦前夜、章武の張紹が神秘的な将軍に導かれ鄴への道案内を務めたという奇瑞も伝わる。

孝武帝の擁立と尒朱兆の滅亡

  • 神武は洛陽に入り、節閔帝(元恭)と中興主(元朗)を廃して孝武帝(元脩)を擁立。孝武帝は神武を大丞相・天柱大将軍・太師とし世襲の定州刺史とし食封を十五万戸増したが、神武は「天柱」の号と五万戸を辞退した。壬辰、鄴に帰還した際、魏帝は乾脯山で見送り手を執って別れを惜しんだ。
  • 七月壬寅、神武は北伐に出発。封隆之の進言により、かつて尒朱氏に仕えた斛斯椿・賀抜勝・賈顕智らを重用すれば禍根となると考え、天光・度律を京師に送って斬った。さらに滏口から尒朱兆の拠る秀容を攻め大掠、兆は北へ逃れ并州は平定された。神武は晋陽が四方に険阻な要害であるとして大丞相府を建て定住した。
  • 尒朱兆は秀容にこもり険を守って抄掠を続けたが、神武が数度出兵の構えを見せて油断させ、正月の宴会を狙って竇泰に精騎を率いさせ一昼夜三百里を駆けさせた。永熙二年正月、竇泰が奇襲し、油断していた尒朱兆軍は赤洪嶺で大敗し、兆は自縊した。神武は自ら弔って厚く葬り、兆に従っていた慕容紹宗は尒朱栄の妻子・残衆を保護して降伏し、神武は厚遇した。尒朱仲遠配下の橋寧・張子期は再三の裏切りにより処刑され、これを見た斛斯椿は不安を覚え、他の廷臣と結んで神武を孝武帝に讒言するようになった。

孝武帝との軋轢

  • 斛斯椿は南陽王元宝炬・元毗・王思政らと結んで神武を讒訴し、舎人元士弼も神武の不敬を奏上したため、孝武帝は神武と対立していた賀抜岳に心を寄せるようになった。かつて「銅拔が鉄拔を打つ」との謡言(拓跋と賀抜の衰亡を暗示)が流行していたという。
  • 司空高乾が密かに孝武帝の二心を神武に告げたが、神武がその上表文を帝に呈したため乾は誅殺された。帝はさらに東徐州刺史潘紹業に長楽太守龎蒼鷹を通じ高乾の弟高昂を暗殺するよう命じたが、昂は事前に知り兄の死を知って抵抗し、紹業を捕えて詔書を得て神武の元へ奔った。神武は乾の首を抱いて慟哭し、白幡でその死を弔った。乾のもう一人の弟高慎も光州から梁への亡命を思いとどまり神武の元へ帰順した。こうして孝武帝と神武の間の亀裂は決定的となった。
  • 阿至羅は正光以前は魏に服属していたが乱後は離反していた。神武が招撫すると帰順し、粟帛を賜って厚遇したため(無駄との批判もあったが神武は聞かなかった)、酋長吐陳らは感恩して従い、曹泥・方俟受洛干討伐に功を挙げた。河西の費也頭紇豆陵伊利は河池に拠って険を恃み従わず、神武は長史侯景を遣わし再三招いたが応じなかった。