八月庚申 福建大軍の削減と経制兵の制定
- 厦門・金門の平定を受け、福建駐留の満洲兵を大幅に削減し、拉哈達に福州・漳州守備の兵を統轄させ、残余は尚書介山・侍郎呉努春が率いて還京させた。
- 福建の常備兵制度を定め、総督・提督標下各五千、巡撫標下千五百とし、防守兵は既定の五万一千七百五十人を残し約一万九千人を裁汰、水師も二万人に縮減した。
甲子 雲南進取の路線変更
- 貴州は土地が狭く糧が乏しいとの彰泰の上奏を受け、烏丹・趙良棟の軍は遵義攻略後に貴州を経ずそのまま雲南へ進むこととし、進撃時期を定めて湖広・広西の各軍と呼応させることとした。
戊辰 呉世璠招撫論への叱責と史論
- 総督蔡毓栄が呉世璠への招撫の勅を求めたのに対し、皇帝は「賊魁が窮まってもいないのに招撫しても無益であり、しかも前の招撫勅にはすでに呉応麟・胡国柱に世璠帰順を説く条項がある」として却下し、兵部が安易にこれを認めた対応も戒めた。
- 編者は、呉世璠は呉三桂の孫として頑強に抵抗し民を害した大逆であり、他の党与は情状により赦しうるが世璠だけは断じて撫納すべきでないとし、蔡毓栄の請奏を大義に暗いものと評した。まもなく大軍が滇城に迫って世璠は誅され、これは皇帝の深謀遠慮が及ぶところであったと結んでいる。
己巳 広東藩下兵への諭示と広州防守の強化
- 尚之信の不正告発を受けて之信を入京させたのは事の真偽を明らかにするためであり、平南王旧部の官兵を解体する意図はないと諭し、頼塔・宜昌阿に周知させた。
- 簡親王喇布に精騎を分けさせ副都統博霽に広東を守らせる一方、総漕帥顔保を広東へ送り南雄・韶州の要地を鎮めさせた。
壬申~壬午 広西進撃の督促と将帥の交代
- 皇帝は簡親王喇布に対し、尚之信・馬承廕の反乱が収まった以上ためらう理由はないとして精鋭の即時進撃を命じた。
- 都統勒貝を、病没した将軍莽依図に代えて鎮南将軍に任じた。
閏八月己丑 雲貴進取の総合部署
- 趙良棟の上奏(偽将軍海潮龍の投誠)を受け、皇帝は諸路の進撃期日を定め、海潮龍を懐忠将軍として先導とし、旧臣の張国柱・李本深らにも馬宝の例にならい招撫の道を開くよう命じた。
辛邜~乙未 諸将の配置と軍紀の督励
- 靖南藩下の福州駐兵を都統馬九玉の統轄に移し、耿聚忠の親族・散兵の処遇を定めた。
- 八月中の進撃期日の到来を受け、諸路の将軍・督撫に遅滞なき進撃を重ねて命じるとともに、緑旗の将帥が兵士を私用に酷使し逃亡を招いている実態(桑額標兵千余の逃亡など)を厳しく戒めた。
丙申 蔡毓栄の指揮系統一元化
- 貝子彰泰の上奏により、貴州進取にあたり蔡毓栄の軍事も大将軍彰泰に関白させ、指揮系統を一本化した。
癸邜 尚之信の謀反発覚と処刑
- 尚之信は凶暴で酗酒を好み、呉三桂反乱時には父尚可喜に従賊を迫って憤死させ、帰順後もなお二心を抱いていた。湖南への進兵命令を無視し、永興の危急を座視し、出師してもすぐ退き、部下の出撃を密かに制止するなど不忠の行状が重なった。広西協剿の功も部下との謀略で虚飾し、軍餉を騙取し無辜を誅殺するなど専横を極めた。
- 藩下の張永祥・張士選が入京して不法を告発し、母舒氏・胡氏、都統王国棟、総督金光祖、巡撫金儁も相次いでその罪状を上奏した。皇帝は宜昌阿を遣わし密かに執らせようとしたが、之信は上疏して弁明し、皇帝も直ちには処断しなかった。
- 之信はさらに弟之節らに王国棟暗殺と挙兵を謀らせたが、頼塔が急ぎ包囲してこれを捕らえ、審問により謀反の実状が明らかとなった。母舒氏・胡氏は謀反の跡はなく告発は国棟らの偽作と弁じたが、議政王らは之信とその同謀者を棄市とする律を上奏した。
- 皇帝は、父尚可喜の帰順の功と忠節に免じ舒氏・胡氏の死一等を減じ籍没も免除し、尚之孝・之璋・之隆らも革職・枷責にとどめる一方、尚之信本人は親王待遇として斬に代えて賜死とし、その他の関係者は律に照らして処罰した。之信らは広東で処刑された。
丁未以降 四川方面の増援部署
- 護軍統領佟佳らを四川へ、総督哈占を永寧へ、都統范達礼を重慶へ差し向け、京師の満洲・蒙古・漢軍から千人規模の増援を発した。大将軍図海には、増援到着前の急変に備え漢中の兵を機動的に運用させることとした。