平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十九年 1680年

五月丙申 南寧防守と沅州駐屯

  • 将軍額楚は江寧帰還の途中、馬承廕の柳州再反と賊将何継祖・王宏勲の侵攻の報に接し、莽依図の柳州平定まで南寧に留まって守備することとなった。
  • 大将軍貝勒察尼は常徳での糧秣不足と沿道の疲弊を上奏し、皇帝は沅州に暫く屯し、雲貴進取の好機があれば定期を待たず進撃するよう命じ、糧餉遅延の原因を巡撫韓世琦に糺させた。

辛丑~己酉 情報収集と各地の戦況

  • 呉三桂とダライラマの往復書簡を各路の将軍・督撫が見つけ次第兵部へ回送するよう命じた。
  • 彰泰らの上奏により、沅州回復に伴い投降した偽将軍呉有爵・崔世禄を京師へ送らせた。
  • 蔡毓栄が思南府を回復した。
  • 耿精忠に脅迫されながらも屈せず殺害された総督范承謨に太子少保・兵部尚書を追贈し、子弟一人の入監を許した。理藩院郎中詹璧喇を辺地偵察に派遣し、松潘方面の動静とダライラマ側との往来を密かに探らせた。
  • 孫延齢の乱で脅されながら屈せず一家で殉じた巡撫馬雄鎮、耿精忠の乱で福寧を死守して殺された総兵官呉万福にも、それぞれ太子少保等の追贈と子弟の登用を許した。

六月戊午朔 沅州兵の還京と諸将の処分

  • 貝勒察尼配下の大軍のうち、雲貴進取に必要な人数を残し、その他は貝子彰泰の指揮下で還京させることとした。
  • 投誠の李芳述を随征総兵官に任じ、趙良棟の標下に配した。
  • 常徳・澧州で退却した提督桑額・総兵官周邦寧は、遷延して要害を失陥させた責を問われ、桑額は革職、周邦寧は加級削減のうえ降格とし、いずれも留任のまま戴罪立功とした。
  • 趙良棟は永寧で賊の精鋭を破り、投誠の李芳述らが偽総兵毛有貴らを斬って賊を大敗させた戦果を上奏した。
  • 平南王旧部の兵が流言により動揺し脱走した事件を受け、頼塔・宜昌阿・金光祖・金儁・王国棟らに安撫を命じた。

七月辛夘 柳州の平定と馬承廕の処分

  • 簡親王喇布・莽依図・金光祖らの分進により、金光祖が武宣を、莽依図が象州を回復し、喇布は柳州で馬承廕の投降を受けて柳州を平定した。
  • 皇帝は馬承廕の再叛の罪を赦して伯爵・将軍とすることとしたが、標兵は各営へ分散配置して党与の再結集を防がせ、被害を受けた広東の民は故郷へ帰す一方、提督哲爾肯を柳州に駐屯させた。

蜀餉輸送の督励と諸将の処遇

  • 川陝督撫の糧餉輸送の遅延を厳しく戒め、意見の食い違いで責任を押し付け合うことのないよう命じた。
  • 王進宝の撤兵願いは、八月の雲貴進取が迫っていることを理由に却下された。
  • 驛站での官兵の擾民・不正徴発を厳禁し、地方官の隠蔽も含め厳しく取り締まるよう命じた。

丁酉 左都御史覚羅舒恕の処分

  • 病を口実に広西の戦線から退いていた覚羅舒恕について、実際は病状が偽りで、広西・江西各地で敗走・擄掠・恐喝を繰り返していた実態が明らかになり、宗人府預かりのうえ議政王らが左都御史・佐領・世職を革め家産籍没を議したが、皇帝は籍没のみ免じた。

戊申以降 緑旗兵の調発と順承郡王勒爾錦の召還

  • 雲貴進取に向け、烏丹・趙良棟らの緑旗兵調発を大将軍図海・総督哈占と協議のうえ進めさせた。
  • 順承郡王勒爾錦が重慶進軍を果たさず途中で引き返し大将軍職の解任を願い出たため、皇帝はこれを不当として、勅印と所属の兵を率いて京師へ帰らせた。
  • 張勇の四川出兵願いは陝西防守を優先させ却下し、標兵三千のみ賢能の官に率いさせて四川へ送った。
  • 平南親王旧部の脱走兵の撫剿を頼塔・金儁・侯襲爵・王国棟らに命じた。