平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十八年 1679年

七月壬寅 周邦寧の河内帰鎮

  • 侍郎宜昌阿らは、大將軍貝勒察尼軍前に湖広経制の隨征緑旗兵2万7千がいるとし、河南總兵官周邦寧を豫へ戻して鎮守させるべきと奏した。康熙帝は、河南は広大で提督も既に裁缺され内郷・淅川両県は深山にあり旱害も重なっているとし、周邦寧に標兵1500を統べさせ豫へ帰還・鎮守させた。

癸卯 孔國岱らの莽依圖軍前派遣

  • 尚之信は、痔を患い横州から封川へ戻ったが病が悪化し治療のため6月18日に会城へ戻ったと奏した。康熙帝は、剿撫並用の折に尚之信配下の広西平定軍を学士孔國岱らに率いさせ將軍莽依圖軍前へ送り、莽依圖の統攝下で共に進勦させ、奮武大將軍の印勅は尚之信のもとに留めた。

丙午 輔國公温齊らの官爵剥奪

  • 先に温齊らは賊の逃走を追撃せず殺賊数を偽って報告していた。康熙帝は供詞を厳しく取らせ、大將軍貝勒察尼らがこれを報告した。
  • 康熙帝は、我が国の軍法が虚偽の首功報告を許さぬ厳格なものであるとし、温齊が罪を贖う努力もせず岳州から徒歩で逃げる賊を追撃せず、殺賊数も実際の300余人と当初の上奏で大きく異なっていたこと、一等台吉格哷爾圖がなお追撃・城の奪還を望んでいたのに温齊が道の険しさと馬の疲弊を理由に退却し軍機を大いに誤ったことを咎め、温齊の官爵と參贊を剥奪し、署副都統達頼のニ哈番(阿思哈尼哈番)・佐領・加級を、喀住の副都統を、麻尼の護軍參領・佐領・加級をそれぞれ削った。

壬子 投誠兵の内地調配

  • 將軍侯林興珠は、投誠した偽總兵王度冲・偽將軍陳珀の標兵各千人が軍前に留まっているが父母妻子が雲南にあり隙を見て逃げ軍情を漏らす恐れがあるとして内地への転属を求めた。
  • 康熙帝は、投誠官兵を悉く内地へ撤すれば以後の帰順者が躊躇するとし、大將軍貝勒察尼らに現地の情勢を踏まえ、雲南に家口があり疑わしい者に限り適宜内地へ撤して営伍に編入させるよう命じた。

癸丑 彜陵・襄陽の外藩蒙古兵の京師帰還

  • 大將軍順承郡王勒爾錦らは、湖南の各大將軍麾下の蒙古兵は既に撤還済みだが、彜陵・襄陽の蒙古兵1700余人も撤還すべきと奏し、康熙帝はこれを許し、荆州諸処の満洲緑旗官兵から適宜補充して地方を鎮守させた。あわせて兵部に、投誠官員柯鐸らを都度荆州経由で送り出し、大將軍王・將軍らに知らせるよう命じた。

徐治都の歸州方面討伐命令

  • 徐治都は、五板船100艘を設け彜陵鎮臣胡世英に統率させ水路に備え、自らは官兵を率い襄陽鎮臣と水陸並進で歸州・興山・巴東の要地へ赴き逆賊を討撫すると奏した。康熙帝は、必要な戦艦を督撫に速やかに造らせ、徐治都に彜陵・襄陽總兵官と共に歸州方面へ赴き討撫を並行させるよう命じた。

乙卯 莽依圖、新村西山で大勝・南寧の包囲解除

  • 偽將軍呉世琮らが南寧を長く包囲し城中の食糧が尽きかけていたところ、投誠した偽將軍馬承廕が救援を求め、總督金光祖は總兵官譚昇・楊國泰らを派遣した。世琮は渡江して山を越え新村西山の山頂に鹿角を並べ迎え撃ったが、莽依圖は將軍覺羅舒恕・額楚・都統・貝勒らと分路で撲討し多くの賊を殺し、世琮は重傷を負って逃走、南寧の包囲は解かれた。金光祖はまた、太平の偽知府林輔世・新泰偽參將何應魁が城内の文武官と共に薙髪して投誠したと報告した。

丁巳 馬の長沙送付

  • 康熙帝は兵部に、江西南昌備蓄馬2400余匹・湖広武昌備蓄馬1千匹を、能吏を選んで長沙へ送らせ、途中の管護を徹底し巡撫韓世琦に飼養を委ね、痩馬なきよう長沙到着後に世琦から報告させた。

図海への漢中・四川平定督促

  • 圖海は、驛門鎮の逆賊を破り追討したが賊が偏橋を毀して道が通じず、提督孫思克・趙良棟の到着を待って進軍を協議すると奏した。
  • 康熙帝は、賊が敗れて動揺している今こそ追撃・回復に努めるべきなのに、圖海が寶鷄駐屯の賊への進軍を主張しながら賊が敗れた後は橋の破壊を理由に退いたことを怯懦と咎め、速やかに孫思克・趙良棟らと漢中・四川を平定するよう命じた。

莽依圖への南寧進発・雲南平定督促

  • 莽依圖は、南寧が険阻で輓運が難しいとして將軍額楚・都統馬九玉に永淳駐屯を命じたと報告した。
  • 康熙帝は、賊が震動動揺する今こそ将帥は機を逃さず滅賊に努めるべきなのに、南寧大勝を得た莽依圖が輓運の困難を理由に額楚らを永淳に留めたことを怯懦と咎め、粤西平定を機に都統希福らの兵を率い南寧経由で直ちに雲南へ進むよう命じた。

八月癸亥朔 將軍頼塔の潮州兼轄

  • 總督姚啟聖は、將軍頼塔が久しく潮州を鎮め兵民の信頼を得ているとして、漳州・潮州の兼轄を求めた。康熙帝はこれを許したが、後に頼塔は自身が漳州で賊と対峙中であり満洲大兵は大將軍康親王の統轄下にあるため潮州との兼轄は実際には難しいと奏した。康熙帝は成命どおり頼塔に潮州兼轄を続けさせ、満洲大兵を要する場合は調遣と大將軍康親王への報告を並行させるよう命じた。

乙丑 哲勒肯の南寧派兵

  • 廣西提督哲勒肯は、潯州三合嘴で両江の押さえと大兵への接応に当たっているが、慶遠・太平・思恩三府が交趾に近く雲貴に接する広西の藩籬でありながら苗蛮の逆賊が拠って未回復であるとし、南寧へ先行し將軍と協議して剿撫に当たりたいと求めた。
  • 康熙帝は、哲勒肯に西粤保守の重責を認め、南寧へ急行して莽依圖・金光祖と協議し疆域を安んじさせ、潯州三合嘴の守りは総督・提督が兵を派遣し汛守させるよう命じた。

丁卯 順承郡王勒爾錦の均州・鄖陽守備

  • 將軍噶爾漢は、總督楊茂勲・提督佟國瑶らと興安の賊を討つと奏した。康熙帝は、賊寇平定の最中に噶爾漢らが均州・鄖陽方面へ進む影響は大きいとし、順承郡王らに荆州・岳州の兵から適宜抽調して均州・鄖陽を固守させた。

庚午 馬承廕への伯爵授与

  • 投誠した馬承廕が効力による贖罪を求めたことを受け、康熙帝は議政王らに、原任広西提督馬雄の子馬承廕が国恩を忘れず偽勅印を奉じて投誠したことを嘉し、伯爵と将軍勅印を授けて大兵に随行させ、標下の官兵配置は理事官麻勒吉らに總督金光祖・馬承廕と協議させ、帰農希望の兵丁は安挿し、入伍希望者は選抜、来帰した文武官員には劄を給して鼓舞するよう命じた。

甲戌 郭義の左江総兵官任命

  • 將軍莽依圖は、南寧包囲時に郭義・齊人龍が力を尽くして固守し賊とたびたび交戦したことは他の投誠者と比べものにならないとし、左江總兵官の欠員に湖北總兵官傅魁が調補される予定だったが、郭義か齊人龍への授与を求めた。
  • 康熙帝は、郭義の勤労を評価し原任の左江總兵官へ復させ、齊人龍にも功があるとして欠員あれば將軍の推挙に任せ、湖北總兵官の元の欠員は傅魁を原任に戻すこととした。

庚辰 簡親王喇布らの武岡進兵

  • 喇布は、將軍穆占が本月1日に新寧県を回復し、大將軍安親王と期を合わせ武岡の逆賊を討つと奏した。
  • 康熙帝は、新寧に屯聚していた賊が武岡へ逃げた今、簡親王らに速やかに大兵を統べ安親王軍と合流し武岡・楓木嶺を回復・撲滅して靖州・沅州を定め、鎮遠から雲貴平定へ進む事宜を協議・上奏させ、逆賊が支えきれず逃走を重ねれば安親王らに追撃させ、賊が武岡から逃げれば烏拉・寧古塔の兵は京師へ帰還させることとした。
  • 大將軍安親王岳樂らは、武岡州・楓林嶺の回復を報告した。賊首呉國貴が武岡に拠り偽將軍胡國柱らと2万余で隘口で迎撃したが、將軍侯林興珠・提督趙國祚らが奮撃してこれを大破し、國貴は砲に中たって死し残賊は武岡を捨てて逃走、貝子彰泰らが木瓜橋で追撃し再び大破、武岡州城・楓林嶺を回復した。

乙丑 佛倫らの湖広軍前糧餉督理派遣

  • 康熙帝は議政王らに、大兵が数路から並進し深く討賊に入る中で糧餉輸送が重要であり、今年湖南が旱魃で輸送が滞る恐れがあるとし、学士佛倫・侍郎金鋐と部院の賢能な官員を選び湖広へ派遣し、督撫と協議して諸路大兵の糧餉を総理させた。

庚寅 図海らの漢中平定・四川平定進発

  • 圖海は、漢中・興安攻略の兵を四路に分け、自らは將軍佛尼勒らと興安から進み總兵官程福亮を後援として舊縣關諸処に駐守させ、將軍畢力克圖・提督孫思克らは畧陽から西寧へ進み總兵官朱衣客を後援として西河諸処に駐守、將軍王進寳・漢中總兵官費雅達らは棧道から延綏へ進み總兵官髙孟を後援として寶鷄に駐守、寧夏提督趙良棟らは徽州の巴都山から進み、自らは9月8日に四路並発すると上疏した。
  • 康熙帝は、莽依圖らが逆賊呉世琮を大破し粤西を平定して雲貴進取に向かい、大將軍安親王が武岡州・楓木嶺を回復して賊渠呉國貴を撃殺し、大將軍貝勒察尼が常徳から辰州へ、將軍噶爾漢らが鄖陽から興安へ進む中、賊が処々で敗れ動揺している今こそ分路撲滅の好機であるとし、大將軍公圖海に速やかに漢中方面の逆賊を殲滅し四川を平定、賊が敗走すれば追撃して険要を占拠させぬよう命じた。

辛卯 簡親王喇布への譴責

  • 喇布は、安親王大兵が既に武岡を克し逆賊が敗走したと知り烏拉・寧古塔兵を京師へ帰し、自らは一支の兵で東安県に駐屯、將軍印を都統穆占に与え一支の兵で新寧に駐屯させ聖旨を待つと奏した。
  • 康熙帝は、逆賊が敗れた今こそ簡親王らも速やかに追撃し安親王と共に賊を破るべきなのに、追勦せず新寧に留まって軍機を大いに誤ったとし、本来は厳処分すべきだが目下は進勦中のため事平定後に議すこととし、簡親王には速やかに安親王と合流し靖州・沅州を平定させ、鎮遠に至った時点で雲貴平定の事宜を定議・上奏するよう命じた。