平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十七年 1678年

四月庚午朔 雅塔里の福建派遣

  • 漳州の安塘筆帖式は、副都統伯穆赫林・海澄公黄芳世らの軍が灣腰樹で賊に衝かれ平和県が陥落し、賊が潮州近くまで迫っていると報告した。
  • 康熙帝は、大將軍康親王への援軍派遣で蒙古兵も撤回した結果、閩省の兵力が手薄になっているとし、浙江が平定されたことから杭州・台州・衢州三府の満洲蒙古漢軍から600人を選び副都統雅塔里に率いさせ福建へ派遣、康親王の指揮下に置くとともに、將軍拉哈達・頼塔・靖南王耿精忠らに協議のうえ漳州・潮州間の賊を討滅させるよう命じた。

己卯 郴州・宜章の防備増強

  • 康熙帝は將軍穆占に、郴州・宜章方面の防備兵を派遣するよう命じた。穆占は、郴州・桂陽・興寧・宜章の回復地が広大で防兵が必要だが、手持ちの兵を残せば進撃兵力が弱まると奏し、別に官兵を回すよう求めた。
  • 康熙帝は、大將軍簡親王に穆占の進軍を継続させず和碩額駙華善と協力して守らせ、護軍統領哈克三らにも穆占と合力して進撃させることとし、増兵は粤東の情勢次第で將軍舒恕の兵か簡親王の兵、哈克三の兵から穆占の裁量で行うよう命じた。
  • のち穆占は、偽總兵王育らを招撫し臨武・藍山・嘉禾・桂陽・桂東五県を回復したとし、永興渡河後の進撃にあたり將軍華善へ永興への遣兵を求めたが華善は茶陵方面の兵不足を理由に応じず、郴州・永興・桂陽・興寧方面は都統伊里布・前鋒統領碩岱・護軍統領拉賽・副都統託岱・祖澤純・宜孝思らに分守させたが、新復地が広大なため茶陵の満兵や總兵官趙應奎の兵、簡親王の兵の一部を郴州・桂陽・永興方面へ回すよう求めた。
  • 康熙帝は重ねて、將軍舒恕の兵の調守や簡親王・哈克三の兵の配分は穆占が現地で緩急を判断し、前の勅旨どおり機に応じて対処するよう命じた。

庚辰 広東進軍糧餉の調達

  • 広東の糧秣不足を受け、康熙帝は先に江西銀10万両・安徽銀15万両を割き江西で米穀を購入し広東へ輸送するよう命じていたが、總督董衛國は江西が戦乱で疲弊し購米が難しいと奏した。
  • 康熙帝は、安徽の銀15万両は江南督撫に付けて調達させ順次江西経由で広東へ転送させることとし、戸部郎中吳什巴・員外郎莫洛を江西・広東へ馳駆させ、民力を損なわず軍需を誤らぬよう適宜差配させた。

甲戌 福建総督増設と海澄公標下兵の増強

  • 海澄公黄芳世は、閩省変乱の際に叔梧・弟芳度配下の官兵が離散したが漳州到着後に収集できたとし、弟芳泰に3千の兵を統轄させたいと求めた。總督郎廷相も海賊の勢いが盛んで自らの標兵2500では対応できないとし、2500人の増兵と五営設立、韓大任投降兵の充当を求めた。
  • 康熙帝は、黄芳世の収集兵3千を認めて弟芳泰の標下に管轄させ、郎廷相の増兵2500・五営設立も認めたが、招撫したばかりの韓大任の兵は一軍に集めず、大將軍康親王・參贊大臣・將軍耿昭忠・督撫提督らが協議し、旧兵と新附の兵を混成して統轄官員を選ばせることとした。
  • あわせて祖澤清が高州から山海の賊と結び電白へ侵犯したため、康熙帝は既に平南王尚之信・副都統額赫訥・將軍傅宏烈・都統勒貝らに鬱林方面の攻略を命じていたが、尚之信・將軍額楚らに電白の賊を急ぎ討滅するよう命じた。

戊子 降兵の雲南帰還

  • 康熙帝は兵部に、呉三桂配下で長く朝廷の恩を受けてきた者の中には脅従の者も少なくないとし、韓大任らと共に投降した護軍甲兵は父母妻子が賊中にあるため願う者は雲南へ帰らせて団欒させ、続いて投降する者も逐一問明し希望者は奏聞のうえ帰らせるよう命じた。

庚寅 康親王への海澄救援督促

  • 漳州の安塘筆帖式は、海賊が水陸から海澄を囲み官兵が灣腰樹で敗れ、海澄城内は糧が尽き賊は連日漳州も攻めていると報告した。總督郎廷相は兵力不足を理由に江南・浙江・広東三省の満漢官兵と水師戦艦の派遣、福建での水卒募集による厦門攻略を求めた。
  • 康熙帝は、江南舟師は岳州方面へ、京口も要地であり、広東の兵は祖逆討伐やその他の派遣で余力がなく、江南・浙江・福建三省の兵は既に各所へ分遣済みで再調発は難しいとし、郎廷相の厦門攻略要請は却下、康親王に雅塔里の兵・黄芳世と郎廷相標下の増兵を適宜調度させ、海澄の包囲解除と漳州侵犯の賊討滅を急がせた。

乙未 張勇の甘州駐鎮

  • 將軍侯張勇は、呉三桂が達頼台吉ら諸勢力に贈物をして連結し、松潘・茂州の蕃地から西寧への通路を狙っていると奏した。
  • 康熙帝は、甘州・粛州・涼州が辺境の要地であり、川賊の秦州・河東侵犯で張勇を蘭州へ移していたが、呉三桂が彜人と通じ辺境を窺う今、威名のある張勇を甘州へ戻し防禦・調度に当たらせ、不遜な彜人には厳しく備え、大將軍公圖海らと協議のうえ対処するよう命じた。

五月庚子朔 尚善への岳州攻略方針下達

  • 先に一等護衛雅圖・侍讀學士格爾古徳が長沙から、投降した偽將軍林興珠の献策(船の半分を君山に泊めて常徳への道を断ち、残りを香爐峽・扁山・布袋口や九貴山陸路に配し長沙・衡州への道を断てば、岳州の賊は糧道を絶たれ戦わずして疲弊する)を奏し、康熙帝は詹事宜昌阿にこれを伝えさせた。
  • 宜昌阿は、高家廟・君山・扁山・九貴山・九馬嘴に船を並べて賊路を断ち、九貴山に陸営も設けて水陸相応じ、岳州の賊が出撃しても各方面からの援軍も併せて阻絶できるが、岳州攻略後の進軍先はその時になって旨を仰ぐと後れると奏した。
  • 康熙帝は、貝勒尚善らに万全を期して速やかに岳州を克復し、克復後は直ちに常徳・澧州へ進むよう命じ、これまでの逗留を戒め自ら奮励させた。

五月庚子朔 京師兵の福建交代派遣

  • 康熙帝は兵部に、福建討伐の官兵が長く労苦しているとし、佐領ごとに護軍1人・甲兵2人を選び代戍として派遣、福建から蒙古兵を率いて帰京していた署副都統岳爾多に統轄させ再び赴かせるよう命じた。

頼塔らの海澄救援

  • 大將軍康親王傑書は、海澄危急のため駐潮州將軍頼塔にその兵の半分と緑旗兵を率いて救援させ、残兵は副都統沃伸巴圖魯に統轄させ靖南王耿精忠と共に潮州を守らせたと奏した。
  • 康熙帝は、海澄の包囲が長引き危急であるため頼塔を急派させる一方、潮州も要地であるため沃伸巴圖魯らに固守を命じ、海賊の勢いが激しいため浙江の緑旗精兵3千を提督石調聲に統率させ急派し、遅延あれば重罪に処すとした。

黄芳泰の海澄公襲封

  • 海澄公黄芳世は病篤の中、叔梧・弟芳度が一族殉難し孤児は残されず、自らの子は9歳しかないため弟總兵官芳泰に爵位を継がせたいと上疏し、まもなく病没した。總督郎廷相がこれを報告した。
  • 康熙帝は芳世に少保を贈り、總兵官黄芳泰に海澄公を襲封させた。

癸卯 出征病没兵士の撫恤

  • 康熙帝は兵部に、各路出征の兵士に陣亡・水土不服による病没者が多く憐憫に堪えないとし、遺骨帰還に際し撫恤銀を速やかに支給し埋葬させるよう命じた。

己酉 楊捷の福建提督転任

  • 康熙帝は、福建総督郎廷相・提督段應舉が就任以来、山谷の残賊を平定できず民生も窮乏したまま、海賊の侵犯にも事前事後とも対応できなかったのは両者の無能によるとし、大將軍康親王・參贊大臣らに厳議を命じていたが、康親王らはこれを認め厳処分を求めた。
  • 康熙帝は郎廷相・段應舉を解任し吏兵二部に厳議させ、江寧提督楊捷を才望あるとして原銜のまま少保兼太子太保を加え福建全省水陸提督總兵官に転任させ、討賊と地方保全の全責を委ねた。

庚戌 嗒喇沁土黙特部落将士の議叙

  • 署副都統岳爾多が福建出征の蒙古兵を率いて帰京した折、康熙帝は兵部・理藩院に、喀喇沁・土黙特部落の塔布囊善達・台吉察渾塔布囊・霍濟格爾らが浙江から福建へ深入りし奮戦した功を賞すよう議叙を命じた。

乙丑 尚之信、高州・雷州を回復

  • 尚之信・副都統額赫訥らは4月11日に電白へ至り賊を大破、6日後に電白城を克復し、祖澤清はこれを聞いて夜逃げした。19日に高州を回復し、雷州へも招降の使者を送った。