平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十七年 1678年

三月癸酉 漳州・海澄の増兵

  • 總督郎廷相は、海澄が漳泉の要衝であるところへ海賊が上陸し王洲などの砦を占拠、石碼・江東橋方面へも侵攻していると報告し、副都統瑚圖・海澄公黄芳世と協議して満漢官兵を派遣したが兵力が不足していると奏した。
  • 康熙帝は、大將軍康親王傑書に増兵を命じ、郎廷相・黄芳世と協力して漳州・海澄を守り海賊を討滅させた。

乙亥 華善らの茶陵派遣

  • 穆占は、簡親王配下の護軍統領哈克三らの兵が長途で馬が疲弊しており、暑さの中でその到着を待てば茶陵方面の守備が手薄になるとし、江西の馬が肥えた兵を佐領ごとに2、3人選び大臣1人に率いさせ先に茶陵へ派遣すべきと奏した。
  • 康熙帝は、簡親王に佐領ごとに2人を選抜させ和碩額駙華善に定南將軍印と學士薩海を付けて茶陵へ急行させ沃赫らと共に守らせ、哈克三らは吉安で休養後に簡親王軍に合流させることとした。華善はなお兵力不足を訴えたが、康熙帝は茶陵の重要性を踏まえ穆占・簡親王に良将精兵を選んで万全を期すよう命じた。

戊寅 賀県・開建の守備

  • 康熙帝は兵部に、江西平定を受け簡親王に永州・宝慶攻略、將軍舒恕に韶州・南雄防守、尚之信に広西出兵、額楚らに肇慶から梧州への進軍を命じてきたが、總督金光祖の報告する要地・賀県開建(広東東の門戸)が守られなければ封川からの兵餉輸送に支障が出るとし、莽依圖・傅宏烈が平樂から退いて肇慶・徳慶に留まれば賀県・開建が賊に死守されて梧州以下も危うくなると憂慮し、莽依圖らに賀県・開建の固守と機を見た前進を命じ、金光祖には糧餉輸送を厳命した。

癸未 内外官への訓戒、尚之信の広東駐留

  • 康熙帝は吏戸兵三部に、戦乱による財政負担軽減のため駅站官俸・存留銭糧の削減や漕白二糧の改折、塩課・房田税契・牙行雑税などの新定則例を設けたことを説明し、平定後には裁量で緩和するとして、督撫提鎮以下に民生への配慮を命じた。
  • 尚之信は、広西進軍による兵力減少に乗じて逆賊が潯梧を窺い、高雷廉三郡もなお人心が定まらぬことを理由に省城駐留を願い出た。康熙帝は尚之信の藩下兵から精鋭1万を選んで広西へ派遣させ、尚之信自身は広東省城に留まり潮恵も兼顧させた。

甲申 尚善の功による贖罪、広東援兵の中止

  • 康熙帝は議政王らに、岳州の船は賊の数倍あるのに尚善が数年間対陣しながら大きな戦果を挙げていないことを咎め、安親王の分兵で平江を克服し江西・湖広の道が通じたことを踏まえ、公温齊らの兵や陝西からの兵が岳州に到着次第、尚善に佐領ごとに5人を率いて長沙駐守に回させ、安親王配下の佐領ごとに5人を岳州攻略に回すなど、鳥船を使った水陸挟撃・石首県攻略・南潯港での糧道遮断など具体的な攻略策を示した。尚善は、これまで戦果がなかったことを謝し、なお自ら舟師を率いて岳州攻略に当たり罪を贖いたいと願い出て、康熙帝はこれを許した。
  • 大將軍康親王傑書は、海賊が海澄などを侵しているため広東への援兵を出す余力がないと奏し、康熙帝は尚之信・耿精忠・將軍頼塔が潮恵を守っているため広東への応援は不要とし、康親王には海澄の海賊討滅に専念させた。

乙酉 簡親王・穆占の合力進軍

  • 韓大任が投降し江西の追討兵が概ね帰還した機に、康熙帝は議政王らに簡親王喇布へ湖南進撃を命じ、穆占と協議して合力か分道かを決めさせた。穆占は、簡親王軍と合流し茶陵から郴州・耒陽方面、あるいは永州から渡江して衡州へ直進する案を奏し、康熙帝は簡親王に軍馬を整え穆占と協議し、江西・茶陵・安親王後方の安全を確保したうえで湖南平定に当たらせ、哈克三ら韓大任追討で疲弊した兵馬には南昌の馬千匹を補給させた。

丙戌 図海の漢中・興安進軍中止、莽依圖の梧州守備、譴責

  • 康熙帝は圖海に、以前は秦地守備が手薄と言いながら今は漢中・興安攻略の好機と言うが、秦地の安全が最重要であり圖海自身が大兵を率いて前進すれば留守が手薄になるとし、漢中・興安攻略を一旦中止して要害を固め、招撫による懐柔を優先し、好機があれば改めて上奏するよう命じた。
  • 康熙帝は議政王らに、賊が潯州方面を侵し梧州・高州が要地であるとして、莽依圖に梧州駐守を、傅宏烈には平樂・桂林進軍の準備を命じた。
  • 続けて康熙帝は、尚之信が正しく帰順して以降、傅宏烈が俸餉も受け取らず梧潯を回復し功を重ねてきたのに対し、莽依圖が平樂まで進みながら緑旗の敗戦を口実に中山鎮まで退き、さらに糧餉不足を理由に賀県からも退いて梧州・徳慶まで戻り、傅宏烈が回復した城を次々放棄したことを厳しく非難し、このままでは広東も危ういとして、莽依圖に猛省と奮起を厳命した。

史論(臣謹按)

  • 広東から雲南への進撃には必ず広西を経由する必要があり、傅宏烈の孤軍では力不足として莽依圖らを合流させたのは大きな好機であった。しかし莽依圖が平樂攻城で手を緩めた隙に呉世琮の援軍が来て傅宏烈軍が敗れ、莽依圖はさらに緑旗の敗戦や糧餉不足を口実に退却を重ね、潯州は失われ祖澤清も高州で再び叛いて広東も動揺した。それでも朝廷が急ぎ増兵し要害を固めさせたことで賊の勢いを抑え、澤清はほどなく捕縛され広東は無事、広西も次第に平定されて大兵は雲南へ長駆した。これは皇帝の的確な調度によるものであり、諸将が命に従った時は勝利を収め、遅滞があれば失敗したのである。

広西兵餉の広東協済

  • 傅宏烈は、広西でなお存する梧州一府だけでは満漢の兵馬・糧秣を賄いきれないと奏した。康熙帝は、広東からの協済を命じ、尚之信に餉銀20万両を広西へ送らせ、広東督撫にも糧草の輸送を命じた。

癸巳 杜輝への招撫

  • 尚之信は、偽水師將軍杜輝の子杜國臣を岳州へ送ったと報告した。康熙帝は、杜輝が雲南永北總兵官出身であることから帰順を促す好機とし、大將軍貝勒尚善に賢能な者を密かに派遣して杜輝を説得させ、状況次第で慎重に事を進めるよう命じた。あわせて詹事宜昌阿を岳州へ派遣し尚善と協議のうえ招降と戦況視察に当たらせた。

庚子 蔡毓榮の岳州出兵

  • 大將軍貝勒尚善は、岳州の鳥船・沙船の配備状況を報告し緑旗兵5千の増派を求めた。康熙帝は、必要な兵船数は尚善自身が把握すべきであったとしつつ、總督蔡毓榮に標兵3千と荆州随征緑旗兵2千を率いて岳州へ急行させ尚善と協力して岳州を攻略させ、荆州・彛陵の防備が手薄になる分は順承郡王・参賛大臣・蔡毓榮が協議して補うよう命じた。

閏三月辛丑朔 馬雄・孫延齡残党の招撫

  • 簡親王喇布は、理事官麻勒吉らが吉安に到着し、孫延齡は呉三桂に殺害され馬雄は病死したと報告した。康熙帝は、両者の残党がなお広西に拠っていることから、麻勒吉らに簡親王軍と行動を共にしながら赦罪の意を布告させ、脅従の投降者を招撫するよう命じた。

癸丑 祖澤清の討伐

  • 広東肇慶の報告により、高雷總兵官祖澤清が3月22日に再び叛き、提督王可臣が24日に病没したことが伝えられた。康熙帝は、澤清が以前の叛乱後に寛宥され總兵・鑾儀使に取り立てられながら再び叛いたことを重く見て、尚之信・莽依圖・額楚・傅宏烈・金光祖らに協議のうえ討滅させ、提督の職務は總兵官侯襲爵に暫定的に管理させた。

丙辰 辺海地方民の内地移住

  • 康熙帝は議政王らに、海賊が厦門などに拠り山賊と結んで地方を乱すのは沿海居民が拠り所となっているためとし、順治18年の立界の例に倣い界外居民を内地へ移し海禁を厳格化することとした。困窮する民への配慮として本年分の地丁銭糧・差徭雑項を免除し、督撫に能吏を選んで移住を実施させ、民の生活が立ち行くよう命じた。

丁巳 穆占の進軍方針

  • 穆占は、安親王からの檄で偽將軍林興珠が投降を約し湘潭渡江の機会があるとの報を受け、簡親王の到着を待たず進軍したいとし、南昌方面は總督董衛國、贛州・南安方面は將軍舒恕に守らせ、吉安には佐領ごとに2人を副都統1人に付けて泰和・万安を守らせ、永新にも満兵300を置き郭應輔ら残賊と茶陵後方に備え、袁州副都統席布には佐領ごとに2人で袁瑞・臨江諸郡と安親王後方を守らせ、広信の残賊には總兵官許貞の標兵2千を、總兵官高登科・贛州緑旗兵は簡親王指揮下に置く配置案を奏し、自らは前鋒統領希福・副都統公沃赫の兵を華善と共に攸県・安仁守備に残し、本月12日に茶陵を出発して耒陽・郴州・桂東・桂陽へ進軍すると報告した。
  • 康熙帝は、將軍舒恕を南贛へ移し巡撫佟國禎・總兵官哲勒肯に南贛守備を固めさせるなど穆占案をおおむね承認し、耒陽方面への進撃と、渡江可能なら賊の帰路を断ち、不可能でも渡江の構えを見せて安親王軍の声勢を張るよう命じた。

莽依圖への再度の譴責

  • 莽依圖は、麾下の満洲蒙古兵の馬が疲弊し甲冑も破損していると奏したが、康熙帝は、広西で奮戦せず退却を重ね、糧餉不足に続き今度は馬・甲冑の不足を口実にするのは委任に背くものであり、莽依圖の退却によって賊勢が強まり広東も動揺し祖澤清の再叛を招いたとして、高州討伐が一段落するまで処分を留保しつつ厳しく咎めた。その後、莽依圖は平樂での敗退・地方喪失を自ら陳謝し將軍職の罷免を願い出たが、康熙帝は、平樂で拓地できず擅に退却しながら傅宏烈・金光祖の失地を理由にするのは責任転嫁であるとし、なお將軍職に留めて功を立てさせ罪を贖わせることとした。

己未 拉篤祜の凉州派遣

  • 康熙帝は兵部に、拉篤祜が凉州近隣の情勢に通じているとして、モンゴル・厄魯特部の噶爾丹の動静を探らせるため凉州へ派遣し、随時報告させるよう命じた。拉篤祜は將軍侯張勇の標員1人の同行を願い出て許された。

庚申 尚善への進軍督促

  • 穆占の奏上により、偽將軍林興珠が安親王軍に投降を約し逆賊の士気が揺らいでいること、岳州と長沙が近接していることが伝えられた。康熙帝は、尚善がかねて鳥船・沙船の完成を待つと述べていたが、賊が動揺する好機を逃さず、船が揃わなくとも現有の船艦で進撃するよう命じ、穆占の報告を尚善・順承郡王に共有させた。

丙寅 周邦寧の荆州派遣

  • 順承郡王勒爾錦は、總督蔡毓榮の兵5千を岳州へ回すよう命じられたが、荆州から彛陵にかけての汎防が手薄になり大江の賊船の動きも警戒すべきとして懸念を示した。康熙帝は、岳州攻略が重要であり蔡毓榮の派遣は変えず、河南南汝總兵官周邦寧の標兵1500を襄陽へ急派し、順承郡王に襄陽總兵官劉成龍の標兵を荆州へ回させることとしたが、のち勒爾錦は劉成龍配下の兵も各汎防守に必要と再奏し、康熙帝は劉成龍を襄陽に留め、周邦寧を荆州へ直行させ、巡撫張朝珍に武昌方面の兵から2千を選んで蔡毓榮と共に代わりの討伐兵として派遣させた。

丁卯 林興珠の投降と授爵

  • 大將軍安親王岳樂は、3月28日夜、偽親軍水師右翼將軍林興珠が湘潭から投降の意を伝え、副都統幹都海・阿進泰が兵を率いて出迎え、参領沙納哈にも船砲の接収を命じたが、林興珠配下の官兵は潰散し、幹都海・阿進泰は湘潭を守らずまた指示も仰がず、接収した船を焼き払ってしまい、4日に林興珠のみを連れて帰還、沙納哈も船艦を得られなかったと報告した。
  • 康熙帝は、林興珠が国恩を忘れず帰順したことを深く嘉し侯爵に叙し建義將軍に任じ、投降を仲介した楊廷言らも議叙、妻子は督撫に安置させた。一方、幹都海・阿進泰が湘潭を守らず接収した船艦を勝手に焼き捨てて退却し要害を賊に奪わせたことを重い軍機の失策として革職・江西南昌への収監を命じ、安親王岳樂も適任者を選ばず幹都海らに任せたことを不当として戒めた。林興珠は安親王軍に留め賊党の招撫に当たらせた。

己巳 哈克三の湖南急行

  • 將軍華善は、茶陵が江西の門戸であるのに穆占が残した兵が少なく、呉三桂が衡州から安仁・攸県方面を突く恐れがあるとして増兵を求めた。康熙帝は、茶陵・攸県は江西全省の安危に関わる要地であり、穆占は安親王が渡江したとの誤報で深入りしたが実際には安親王は未渡江であるとし、簡親王に華善・前鋒統領希福・學士薩海らと協議して茶陵の守りを固めさせ、護軍統領哈克三の兵を穆占の進軍路経由で急行させ合力して破賊に当たらせ、穆占軍の動静と賊情を随時奏報するよう命じた。