平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十六年 1677年

正月 荆州への増兵と穆占の湖広進軍

  • 順承郡王勒爾錦の要請により、穆占の湖広派遣に伴う荆州の兵力低下を補うため、河南府・陝西の満洲漢軍を荆州へ回した。
  • 図海の要請(漢中・興安進取の時期を巡る議論)に対し、皇帝は漢興討伐を一時停止し、秦州の防備を固めつつ五千の兵を大臣一人の統率で荆州へ回すよう命じ、順承郡王らに穆占の進軍に呼応した渡江を督促した。

辛夘~庚子 萍郷・醴陵・吉安の攻防と処分

  • 董衛国の萍郷危急の報を受け、喇布・希爾根に守備策を協議させた。
  • 額楚らの吉安での三度の敗戦を受け、戸部侍郎班廸を派遣して罪状を調査させ、議政王らは臨陣逃亡者を軍前で処罰する方針を定めた。喇布らには建昌の兵を集めて吉安攻略を急がせ、穆占にも岳州・長沙いずれかへの進撃を促した。
  • 援軍が撤退したとの報を受け、喇布らに吉安速攻と袁州固守を命じた。

穆占の増兵要請却下と船舶の集結

  • 穆占の後詰め要請は、荆岳の兵力不足を理由に却下し、尚善には水陸攻撃の構えのみを取らせた。
  • 京口・江南・荆州の沙船を岳州へ集結させ、長沙攻略後は岳州への水陸挟撃に転用する計画を立てた。

甲辰・二月 汀州の回復と福建の田租蠲免

  • 穆赫林らが泰寧・建寧・寧化・清流の四県および汀州府を相次いで回復した。
  • 三年の戦乱で疲弊した福建の田租を全て免除する詔を発した。

壬戌~丙寅 岳州・長沙攻略の督促

  • 安慶提標兵を吉安へ増派した。
  • 尚善の要請により都統鄂鼐に岳州行きの兵を統率させ、勒爾錦らには渡江か岳州分兵かを速やかに決するよう命じた。

丁卯 岳州将士への慰諭

  • 郎中色度らを岳州へ派遣し、岳州・長沙が「両足」の関係にあることを説き、将士が一致団結して奮戦すれば恩賞を惜しまないと諭した。尚善らは水陸挟撃の準備を整え自ら進軍する方針を上奏し、皇帝はこれを許した。
  • 史臣は、岳州・長沙が互いに支え合う形勢を皇帝が見抜いていたとしつつ、後に鄂鼐の拙劣な指揮で洞庭での攻撃が失敗し、岳州の糧道が再び通じて二年延命した経緯にも触れた。

興化の回復

  • 拉哈達が興化城西北の太平山で偽総督趙得勝・偽虎衛将軍何祐の四万余を大破し、興化府を回復した。

己巳 進蜀軍功の叙功停止

  • 保寧・隴州で敗走・軍紀違反のあった官兵について、実態不明を理由に不問としつつ、署護軍統領喀西泰の部下で戦わず逃げた者は拿問とした。

癸酉・甲戌 蒙古諸王への加封

  • 定辺・花馬池の乱を鎮めた達爾扎を多羅貝勒に、駅伝に功のあった索諾木を多羅郡王にそれぞれ進封した。史臣は、蒙古諸部が代々の恩に感じ自ら効力を申し出たことを、朝廷の徳化の表れと評した。

貝勒洞鄂の爵位剥奪

  • 秦中出征で疆土回復も安民もできず軍機を誤ったとして、貝勒洞鄂の爵位を剥奪し閑散宗室に落とし、貝子温斉を輔国公に降格、都統・宗人府右宗人の職を解いた。綽克託も宗人府右宗人を罷免し二年間停俸とした。