十一月 耿精忠の投降
- 康親王傑書が延平に至ると偽将軍耿継美が開城、耿精忠は恐懼して総統将軍印を献じ、子の顕祚を遣わし迎えさせ、十月四日に自ら文武官を率い出城して投降、官兵の冊籍を献じた。皇帝は精忠に靖南王爵を留保したまま従軍・立功贖罪させ、旧巡撫劉秉政らは京師へ召還した。
丙戌 福建への増援
- 議政王らの議により、江寧・盛京・京口の兵を将軍楊鳳翔らに率いさせ福建へ増派し、馬二千も送った。あわせて拉哈達が烏龍江南で海賊偽総統許耀の三万余を大破し四十余里を追撃した。
丁亥 湖広諸将への叱責と督励
- 三年間戦果の乏しい湖広の王・貝勒・参賛大臣・将士を厳しく叱責し、征南将軍穆占への協力と、蒙古兵への予備馬の補給を命じた。
辛夘~壬寅 醴陵・萍郷・吉安・長沙の攻防
- 醴陵陥落を受け董衛国・喇布に建昌・撫州・楽平・饒州・南昌の兵を集めて袁州・萍郷を防備させた。
- 呉三桂が馬寳・高啓隆・胡国柱を長沙救援に、自らも松滋から岳麓山へ出陣したため、穆占に荆岳彛陵の精鋭を率い長沙救援へ向かわせた。
- 吉安に手間取る哈爾噶齊・額楚、南昌に逗留する喇布・希爾根を厳しく督促し、遅滞すれば重罪に処す旨を通告した。
十二月 福建平定後の体制整備
- 左都御史介山・侍郎吴努春を康親王の軍務参賛とし、耿昭忠を鎮平将軍として福州駐守とした。
- 図海の要請で布顔の蒙古兵と満洲漢軍を交換し、河南府の防衛体制を調整した。
江西・広東方面の招撫と処分
- 耿継善らの南豊・広昌侵犯を康親王・耿精忠に実情確認させ、興泉漳の攻略を督促した。
- 尚之信の密かな投降願いを受け、父子二代の功に免じ罪を赦す勅諭を発した。
- 図海の要請により漢中・興安攻略の準備(張勇・王進宝の分兵、来春正月の集結)を進めた。
- 尚可喜病没後に孫延齢が部兵に拘束され線国安が推戴された状況を受け、麻勒吉を派遣し馬雄・線国安への招撫勅諭(過去の罪を赦し旧職に復す)を発した。
- 海澄公黄芳世に太子太保を加え、黄藍を海澄総兵官とした。
長沙・吉安の増援と耿精忠部隊の整理
- 長沙軍への馬の補給、穆占への進兵督促を行った。
- 耿精忠配下の両鎮兵(左右鎮)を、経費節減のため裁革し、祖宏勲は京師へ召還した。
- 康親王が邵武を回復(副都統穆赫林らが浦塘隘口で海賊を大破、偽将軍彭世勲が邵武を献じて投降)した。