十二月 平凉の糧道遮断
- 洞鄂は平凉第一関廂まで攻め寄せたが、溝深く城険しいため速攻できないと上奏した。皇帝は平凉が糧を恃みに久しく踞っているとし、固原へ通じる糧道を断って窮せしめるよう命じた。
庚申 湖広督糧官の処分
- 湖広の糧餉総理を命じられていた左都御史多諾・侍郎勒布が成果を挙げぬまま自ら帰京を願い出たことなどを皇帝が咎め、議政王らの議を経て多諾・勒布の官職・佐領を一部革め、簡親王軍務参賛の阿範も候補侍郎の職を革めて江西軍前で従軍させた。皇帝は多諾・勒布の佐領・世職の一部留任を命じ、残りは議の通りとした。
壬戌 荆岳大将軍らへの長沙挟撃命令
- 安親王が江西から長沙へ進む中、荆州・岳州方面の大将軍らにも挟撃を命じた。荆州の緑旗兵・鳥槍兵の増強、彛陵で数か月未だ捷報のない察尼への留守兵配置と余兵の荆州兵合流、尚善の岳州攻撃姿勢の継続などを指示し、久しく尺土も得ていない怠慢を厳しく戒めた。
- あわせて岳樂の上奏(偽総兵張存・羅元生・彭世勲ら耿逆内部の不和を利用した進攻策)を受け、簡親王・希爾根・額楚・董衛国らに機を見て福建進攻を行わせつつ、長沙攻略も王(岳樂)の判断に委ねた。
癸酉 尚可喜の広東移師要請を却下
- 尚可喜は劉進忠・鄭錦・馬雄らの侵攻で広東東部十郡のうち四郡を失ったとして、安親王の広東転進を求めたが、皇帝は呉三桂が滅びない限り諸賊の跳梁は止まないとし、湖南攻略を優先させつつ、簡親王喇布に佐領ごとの護軍を追加派遣させ広東救援に充てた。
乙亥 順承郡王勒爾錦への譴責
- 勒爾錦が満兵の大幅増派を求めたのに対し、皇帝は呉三桂叛乱当初に速やかに討たなかったこと、大兵集結後も渡江の時機を逃し続けたことを列挙して厳しく咎め、参賛の巴爾布・伊勒都齊・碩岱らの任を解いて留任のまま功で贖わせた。
丁丑 陳福の固原攻略
- 陳福は固原の賊が万余に及ぶため、まず固原を包囲・牽制してから平凉へ赴く方針を上奏し、皇帝はこれを認めた。