十月 噶爾漢の襄陽派遣
- 大将軍順承郡王勒爾錦の上奏により、逆賊楊来嘉・洪福・謝四らが五路から均州方面へ出撃し荆州の兵が手薄なため、河南の鎮安将軍噶爾漢に応援を求めた。皇帝は護軍二百・蒙古兵六百を河南府に残し両翼護軍参領に統轄させ、残りの満洲蒙古兵は噶爾漢に襄陽へ急行させるよう命じた。
陝西諸将への固守指示
- 総督哈占の上奏により、偽総兵魏某が洋県から黒水峪・豊峪口・西洛口に、偽将軍王屏藩が漢中から畧陽に、譚洪が西河から、呉之茂が単家河に、それぞれ賊を進めて秦州を犯していることが報告された。皇帝はこれらを我が兵力を分散させる陽動と見なし、諸将に要地を固守させた。
癸亥 大峪口への援兵
- 総督哈占の上奏により興安の叛賊が大峪口へ渡江しようとしていると報告され、皇帝は西安に近い大峪口を重視し、哈占・席卜臣らの漢中還兵から精鋭を選んで守らせ、あわせて大同察哈爾兵・太原満洲兵を潼関に回した。のち商州・舊県関にも賊が及んだため、噶爾漢が残した河南護軍・蒙古兵を潼関へ急派し、京師からも佐領ごとの甲兵一人を叅領瑚什巴・額勒布に率いさせ河南府に駐守させた。
甲子 尚善への譴責
- 尚善は長沙・岳州は唇歯の関係にあり両方を攻めねば破れないとして、河南・山東の兵の増派を求めた。皇帝は岳州の兵を荆州方面へ分遣したのは岳州攻撃を止めたわけではないとし、賊将呉三桂が既に岳州の賊党を彛陵へ召還したことも踏まえ、現有兵力で十分として増派を認めず、攻略方針を自ら考えるよう命じた。
壬申 固原方面での敗戦と処罰
- 提督陳福の上奏により、九月二十三日に平凉の賊が固原を急襲し城内からも呼応して出撃、副将太必図が応戦する中、中衛副将賈従哲・遊撃張元経が退却し全軍が動揺、太必図が戦死したことが報告された。皇帝は従哲・元経を軍中で斬らせ、大同・帰化城の兵を副都統恰塔・員外郎拉篤祐に率いさせ固原へ急行させ、陳福とも協議のうえ固原・平凉のどちらを先に取るか決めさせた。
甲戌 洞鄂への平凉攻略方略の授与
- 皇帝は、興安・商州・大峪口・四川方面から賊が次々と平凉救援に動くのは王輔臣が滅びず大兵が平凉に集中しているためだとし、平凉が破れれば諸賊の来援の意図も潰えるとして、南山を奪取し紅衣大砲で城を攻めるよう洞鄂らに督促した。
- その後、慶陽が偽将周養民に包囲され陥落、皂社にも賊が及んだとの報を受け、皇帝は洞鄂らが平凉で久しく逗留し攻戦を怠っていることを厳しく咎め、速やかに討伐するよう命じた。
辛巳 穆成額の広東派遣
- 覚羅舒恕の要請により、江西駐在の署副都統穆成額を広東軍務の参賛として派遣し、吉安守備は簡親王が別の大臣に代わらせることとした。
十一月丙戍朔 張勇の鞏昌固守
- 平凉の攻略が長引き川賊も来援する中、皇帝は張勇に鞏昌の守りを固めつつ自ら洞鄂の軍前へ赴き平凉攻撃に協力するよう命じたが、張勇は呉之茂が単家河に屯し鞏昌を離れられないと上奏、議政王らも鞏昌固守を支持し皇帝はこれに従った。
丁亥 都統海爾図の参賛解任
- 海爾図が砲運搬の屯夫の逃亡や砲手不足を理由に増兵・時日を求め続け、洞鄂もこれを黙認していたことを皇帝は厳しく咎め、紅衣砲での平凉攻略を急がせるべきところ遅滞を招いたとして海爾図の参賛職を解いた。
丁酉 喇布の増兵要請を却下
- 簡親王喇布は江西各地の守備で兵が不足しているとして江寧・盛京の兵の増派を求めたが、皇帝は要地の兵は動かせないとし、既に十分な緑旗官兵を配置済みとして、緩急を見極めて自ら調整するよう命じた。
庚子 趙国祚らの安親王軍への合流
- 岳樂の上奏により、長沙攻略には険阻を越える緑旗兵と営塁を破る紅衣砲が要るとして、経験豊富な提督趙国祚・都督陳平の兵、および軽便な西洋砲二十具の配備を求め、皇帝はこれを全て認めた。
壬寅 喇布への広東分兵の勅命
- 総督金光祖の上奏により、叛鎮馬雄・王宏勲らの約十万の兵が高州方面から迫り、孫延齢の梧州侵攻も懸念されると報告された。皇帝は喇布に江西の精鋭を選んで広東へ急派させ、あわせて兖州蒙古兵・江寧の烏喇盛京兵を江寧・江西の防衛に再配置した。