八月 席卜臣兵の接応
- 総督哈占が、漢中に出た将軍席卜臣らの帰路が不明として佛尼勒に進兵を停止させたことを報告した。皇帝は佛尼勒の兵を六百と副都統阿爾祐の駐守兵に分け、阿爾祐に棧道の要路を守らせ、残兵は西安に留めて席卜臣の帰路が判明次第迎えに行かせるよう、洞鄂・哈占らに手配させた。
己未 総督哈占への譴責
- 哈占は興安の叛兵が蜀寇と合流して舊県関を陥れ西安に迫り、龔図の派遣を求めた。皇帝は、王輔臣叛乱当初から哈占が西安への増兵ばかり求め続け蘭州・延安の陥落を招いた経緯を列挙して厳しく咎め、蜀寇と興安兵の合流はあり得ず動揺を誘う虚報に過ぎないとし、平凉攻撃を緩めぬよう命じつつ、潼関には烏丹の兵を、西安には鄂爾多斯・土黙特の蒙古兵を回すこととした。
己夘 耿精忠への招撫
- 額駙耿聚忠を派遣し、耿精忠に勅諭を送った。祖父・父の功に免じ在京の昆弟・属員を寛宥し官職を還したことを述べ、なお改悟して帰誠すれば王爵・鎮守を旧に復し、海寇討伐に功あればさらに賞賚するとし、使者周襄緒らの留置についても意に介さないとして招撫を促した。康親王傑書には耿聚忠と協議して招撫を進めるよう命じた。
辛巳 黄巖の攻略
- 貝子傅喇塔が土木嶺経由で副都統吉勒塔布らを進ませ、半山嶺で賊を大敗させて黄巖に迫ると、賊将曽養性は囲まれて夜中に温州へ突囲し、残賊は開城降伏、黄巖を回復した。
九月丁亥 湖広援勦二営の新設
- 大将軍順承郡王勒爾錦の上奏により、賊の営塁・壕塹・鹿角に対し騎兵の突破が困難なため、緑旗精兵七千・箭簾車二百輛・砲車百輛・熟鉄砲百具を用いた攻撃態勢を援勦二営として編成することが認められ、工部から鳥槍二千五百桿を荆州へ急送、両営は総督蔡毓栄の統轄とした。
- あわせて漢中から西安へ撤退した席卜臣兵に馬匹・器械を支給するよう陝西督撫に命じた。
戊子 平凉攻撃の督促
- 洞鄂は、王輔臣が赦を得るため大臣の派遣による招降を求めていると上奏したが、皇帝は既に再三勅諭で招撫しており、これは緩兵の詐降であるとして、投降すれば誅を加えず改めて上奏させるが、投降しなければ討伐の正当性を布告するよう命じ、攻取を急がせた。
- 史臣は、皇帝が王輔臣の詐降を見抜き、洞鄂が安易に代弁したことを戒めつつ、最終的に図海の督戦により輔臣が来降した経緯を、皇帝の明察によるものと評した。
丁酉 太原の蒙古兵駐防
- 理藩院郎中瑚什巴が四子・烏喇特・茂明安三部落の蒙古兵一千を率いて殺虎口経由で太原に至り、蒙古領兵都統と共に太原を鎮守させた。
庚子 彛陵の戦況詳奏
- 貝子凖達の要請で貝勒察尼が満洲蒙古緑旗兵一千八百を率いて彛陵に赴いたが久しく音信がなかったため、皇帝が詳奏を督促した。察尼の報告では、賊は鎮荆山に塁を築き堅守しており、湖南からの糧道は長江経由に限られるため、これを断てば賊は困窮するとして、荆州の划子船百四十隻と佟徽年の兵を派遣した。
長沙・江西方面の進兵
- 皇帝は安親王岳樂に長沙の急速な攻略を促した。岳樂は希爾根の軍と合流して石硤・貴溪の賊を殲滅してから進むとしたが、皇帝は呉三桂本体を滅ぼさねば意味がないとし、江西の守りを固めつつ冬中に長沙を取るよう命じ、簡親王喇布に江南兵二千を率いて江西へ赴かせ希爾根を副将軍として鎮守させ、副都統額赫訥の兖州・盛京烏拉兵を江寧経由で哈爾噶齊の指揮下に置き、布顔を兖州の鎮東将軍とした。
壬寅 洞鄂らへの重ねての譴責
- 洞鄂は、王輔臣が派遣した王起鳳の帰還が遅れていることを理由に、輔臣とその属官兵の罪を重ねて赦し平凉駐守を許すよう求めた。
- 皇帝はこれを厳しく非難し、大兵が既に平凉を包囲しているのに突囲を恐れて寛宥を求めるのは、輔臣の逃亡に備えた予防線であると喝破し、貝子・公・参賛大臣らが異論を唱えないのは洞鄂の意向に従っているに過ぎないとして、速やかに囲城を徹底し賊を殲滅するよう命じ、王起鳳は平凉へ帰すこととした。