平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十四年 1675年

七月 平凉攻略の督促

  • 将軍阿密達は、王輔臣が精鋭を率い秦州から敗走した残党も平凉・慶陽の山地に結集しており、孤軍での攻略は困難として、洞鄂らに秦州の兵を回し平凉に集結させ、陳福・鄂爾多斯兵に定辺・固原を攻めさせるとともに、自らは涇州から白水経由で平凉東面を攻めたいと上奏した。
  • 皇帝は「兵は神速を貴ぶ」として阿密達の逗留を非難し、増兵・紅衣砲の送致も済んでいるとして期限を切って攻取するよう命じ、陳福には定辺・固原、畢力克圖には延安平定後の平凉会勦を命じた。

庚寅 耿昭忠らの赦免

  • 耿精忠の叛乱の罪は本来一族連座に値するが、祖父耿仲明・父耿継茂の太宗・世祖朝以来の功績を考慮し、弟の耿昭忠・聚忠ら親族は同謀していないとして罪を免じ官爵を旧に復させた。
  • 史臣は、本来なら族誅すべき重罪だが、皇帝が先人の功に免じ、道が隔たり同謀していない者まで連座させない仁徳を、天の好生の仁になぞらえて称えた。

延安の回復

  • 畢力克圖が綏徳より延安へ進み、六月二十五日に城に迫ると賊は夜逃げし、延安に入城。宜川県で追撃し多数を斬獲、宜川・保安塞・延安・安定の各県を回復した。

王輔臣への重ねての勅諭

  • 呉三桂叛乱当初に忠節を守り逆書を献じたことを嘉したが、経略莫洛の進蜀の際の調度失宜で叛乱に巻き込まれたことを聞いても誅を加えなかった経緯を述べ、秦州・延安・蘭州・鞏昌の平定が進み大兵が平凉に迫る中、投降すれば標下官兵・地方官民の罪も全て赦し、拘留した祝表正の罪も赦すとして再度自新を促した。
  • 史臣は、皇帝が撫勦を併用し、無辜の民を巻き込まぬよう再三招撫を尽くしたが王輔臣が終始不誠実であったため、最終的に図海を大将軍として平凉城北で大敗させ、輔臣がようやく降ったことを評した。

丙申 河南・荊州・兖州への分兵

  • 都統噶爾漢を鎮安将軍とし佐領ごとの護軍・蒙古兵一千七百を率いて河南を駐守させ、副都統龔図らの河南満洲蒙古兵を荆州へ、散秩大臣博羅特の蒙古兵六百を副都統額赫訥に付して兖州へ、後続の蒙古兵七百を尚書科爾拡岱に率いさせ兖州駐防とした。皇帝は噶爾漢に、蒙古兵の沿道での掠奪を厳禁し行軍を満兵に近づけて統率するよう論した。

癸夘 蘭州の回復

  • 西寧総兵官王進宝が蘭州を包囲した官兵を率い、出撃した賊数路を撃破、木筏で渡河逃亡を図る賊を沿河に伏兵を設けて阻み、偽総兵趙士昇らが六月二十六日に城を挙げて投降、布政使成格らも帰順したが、のち成格は京師に拘禁され誅に伏した。

甲辰 鞏昌の回復

  • 陳可らが拠る鞏昌を張勇・巡撫華善が二か月囲んでも下せなかったが、秦州陥落後に将軍穆占らが来援すると賊は勢窮して降伏した。

乙巳 定辺の回復

  • 提督陳福が蒙古貝子達爾扎・各台吉・郎中額業図らと定辺を囲み、沙家澗で朱龍父子を捕らえて斬り、定辺を平定した。

丙午 平凉への諸路分進

  • 王輔臣が兵民赦免の恩を謝しつつ撫輯の詳細を求める上奏を再度出したが、皇帝はこれを緩兵の計と断じ、張勇に秦州へ急行させ洞鄂らと協力して平凉へ進ませ、陳福に固原を取らせて挟撃、畢力克圖・海爾図らにも急派・紅衣砲輸送を命じ、隴州を固めて賊の後路を断つよう指示した。

安親王岳樂らの失利についての処分議

  • 建昌回復後、附近の残賊平定のため都統霍特らに石峡村を攻めさせたが、盛暑の中で賊の伏兵に遭い署副都統雅賚らが戦死し、霍特らは新城に退いた。皇帝は事平定後に議処するよう命じた。
  • 史臣は、皇帝が盛暑を理由に大軍を南昌に戻し秋涼を待つよう指示していたにもかかわらず、岳樂が小利に走り攻撃を急いだ結果、暑さで人馬が疲弊し将を失ったことを、皇帝の遠慮の正しさを裏付けるものとして評した。

戊申 洞鄂らへの戒諭

  • 秦州・鞏昌・蘭州の回復は保寧からの帰還兵らの労苦の賜物であるとし、洞鄂らに将士を労わり公平に軍務を執り、張勇の功に驕らせず一致協力して速やかに平定を図るよう諭した。

己酉 潼関等の防備強化

  • 総督哈占の上奏により興安の遊撃王可成らが再叛し西安が動揺したため、鄂善・張徳地の延安赴任を止めて省城に留めていたことを咎め、延安への赴任を改めて命じるとともに、潼関の守りを烏丹らに固めさせた。

辛亥 荆州・彛陵の増兵

  • 大将軍順承郡王勒爾錦の要請により、龔図の兵を南漳経由で荆州へ、南漳・襄陽の満洲蒙古兵を近隣から回させ、さらに緑旗鳥槍手三千と近隣の満洲兵の急派も命じた。

壬子 祖沢清討伐

  • 総兵官祖沢清が高州で叛いたため、尚可喜・尼雅翰・金光祖らに協議して討伐させ、沿辺の防備も厳飭させた。

癸丑 張勇の還師願いを却下

  • 張勇は辺境の異情を理由に荘浪への帰駐を願い出たが、皇帝は平凉未平定のうちは秦省の民が安んじないとして許さず、洞鄂らと協議して平凉討滅を急がせ、辺民への実害が生じた場合のみ孫思克を甘州に戻すこととした。