平定三逆方略聖祖仁皇帝 康熙十三年 1674年

二月乙未朔 長沙官吏への宣諭

  • 賊勢が湖南に迫り長沙の人心が動揺していたため、皇帝は吏兵二部を通じて長沙の文武諸官に、逆賊呉三桂の虚勢に惑わされて棄地逃亡した巡撫盧震はすでに追及していること、なお職を守り地方を固守する者には事平定の日に厚く恩賞を与えることを諭した。

諸軍の荆州到着

  • 護軍統領伊勒都斉の兵が荆州に到着した。丙申には護軍統領額司泰の兵も到着した。

戊戍 王輔臣への世職授与

  • 王輔臣はもと陝西の出身で若くして姜瓖の部将となり、姜瓖の反乱に従ったが、王師が大同に迫ると姜瓖を殺して投降し、英王配下を経て正白旗に編入された。世祖皇帝はその壮健さを愛し侍衛として留め、経略洪承疇に従って湖南に転戦して数々の戦功を挙げ、援勦総兵官から陝西提督に累進していた。このとき王輔臣がその子・継禎を京師に遣わし逆書を告発したため、王輔臣に三等精奇尼哈畨を、継禎に四品京官を授けた。

諸将の到着と西安への進発

  • 庚子、都統覚羅巴爾布の兵が荆州に到着した。甲辰、将軍席卜臣が西安へ進発した。

乙巳 巴爾布・珠満への常徳・長沙守備の命

  • 皇帝は巴爾布・護軍統領伊勒都斉・額司泰・前鋒統領碩岱らに、常徳が水陸の要衝であるため、大将軍の兵が至る前にまず護軍統領一人と碩岱の前鋒兵を常徳へ移し固守させ、巴爾布本隊は荆州に留めて大将軍到着後に常徳へ進めるよう命じた。状況に応じて機を見て調整するよう付け加えた。
  • 珠満・副都統阿進泰・肯斉赫らには、武昌・岳州の守備に加え、長沙が武昌の咽喉であり武岡・宝慶へも通じる要地であるとして進駐を命じ、大将軍の兵が荆州に至れば護軍統領一人を派して助けさせるとした。あわせて広西の将軍・提督・巡撫にも湖南保固の状況を伝えさせた。
  • この日、皇帝は兵部に、乱の当初に常徳守備へ派した総兵官徐治都が長く危疆を守り抜いたことを賞し、事平の日に将弁を議叙するとともに、標下の兵丁の労苦にも総督蔡毓栄を通じて恩賞を与えるよう命じた。

史論(臣謹按)

  • 常徳・長沙は湖湘の険を扼し水陸の衝にあたる。ここを堅守すれば賊を挫くことができ、全楚の勢いはこちらに帰したはずであった。しかし守臣が力戦して大兵の到着を待つことができず、盧震がまず逃走し、楊遇明の内応も加わって人心はすでに揺らぎ、援軍も逡巡して進まなかったため常徳・長沙の二郡は失われ、岳州も後に陥落し、その回復には数年を要した。この一件によって、あらかじめ要害を扼して勝ちを制する皇帝の深謀の正しさが、なお一層明らかになった。

丁未 尼雅翰の武昌出兵

  • 原任広東提督楊遇明はもと呉三桂と旧誼があり、老年を理由に致仕して常徳に寓居していたが、その子・楊宝応は雲南知府として呉三桂の反乱後に偽総兵に任じられ常徳を攻めた。楊遇明はこれに内応し、知府翁応兆もこれに従ったため常徳は陥落し、総督蔡毓栄が上奏した。
  • 皇帝は安慶へ向かっていた将軍尼雅翰に、精鋭騎兵と江寧・京口の副都統二員・兵二千名を率いて武昌・長沙方面へ転じ、都統珠満と合流して軍議を行うよう命じた。尼雅翰は将軍印を帯びたまま進み、残兵は副都統席布に率いさせて安慶に留め、船艘は尼雅翰が武昌へ携行することとした。

史論(臣謹按)

  • あらかじめ重兵を安慶に集結させ長江上流の要害を扼していたため、武昌の兵が手薄で湖南が動揺しても、安慶の軍は朝に令すれば夕べに到達できる機動力を有していた。金陵・兖州に置いた軍もまた即座に移動できる態勢にあり、数千里にわたる配置がまさに碁石を布くように機能していたのは、朝廷の深遠な謀略によるものである。

己酉 珠満の武昌到着と岳州・長沙防備の議

  • 都統覚羅珠満の兵が武昌に到着した。ほどなく湖広巡撫張朝珍が、常徳は水陸の要衝であり荆州にはすでに重兵を置いたが岳州もまた固守すべきで、長沙・粤西との連絡や省会の防衛に資すると上奏した。
  • 皇帝は珠満が長沙へ向かったのち武昌に至り、さらに将軍尼雅翰が兵を率いて合流することとなったため、尼雅翰未着の間は珠満が岳州・長沙のいずれかの要地を選んで固守するよう命じた。

壬子 総督蔡毓栄の澧州敗退報告

  • 総督蔡毓栄の上奏により、本月八日に呉三桂の兵が澧州の渡河点に至り、澧州の城守官兵が城をあげて賊に呼応して叛いたため、提督桑額・総兵官周邦寧が常徳から澧州城外まで進んだものの孤軍で迎え撃てず荆州へ退いたこと、大兵の急行を求めることが伝えられた。

甲寅 巴爾布への湖南進兵命令

  • 澧州がまだ叛く前、巴爾布は護軍統領伊勒都斉・額司泰・前鋒統領碩岱らとともに荆州に至り、沅州・辰州・常徳の陥落と四川全省の変事、澧州の桑額からの再三の救援要請を受けて護軍二百人を澧州へ発したが、常徳を取っても守城の糧秣や水路の舟楫がなく、川賊が荆州を窺う恐れもあるため、いったん荆州に留まり馬を休ませ大将軍の到着を待つ方針を上奏していた。ところがこの時、総督蔡毓栄より長沙の副将黄正卿・参将陳武衡が城をあげて賊に降ったとの報が入った。
  • 皇帝は大将軍順承郡王勒爾錦に対し、巴爾布らの軍が二月初旬に荆州に到着していながら常徳・澧州がまだ無事なうちに進軍せず、遅延の末に常徳・澧州が相継いで陥落し長沙にも変事が及んだことを咎め、都統鄂鼐らの兵が荆州に到着次第、鄂鼐に荆州・彛陵方面の守備を委ね、巴爾布らを常徳・澧州の攻略に進ませるよう命じた。鄂鼐配下の漢軍は荆州へ、襄陽には漢軍都統・副都統を留めて守らせることとした。
  • これに先立ち皇帝は勒爾錦に、常徳の叛乱と四川・䕫州方面の賊勢の激化を伝え、巴爾布の兵力だけでは両路の防備に不足するため、精鋭の馬を選んだ増援を副都統一員に率いさせて速やかに荆州へ送るよう命じていた。

乙夘 広西将帥への宣諭

  • 皇帝は広西の孫延齢・都統線国安・巡撫馬雄鎮・提督馬雄らに、大軍がすでに武昌に至ったことを伝え、賊が武岡・宝慶・長沙方面を犯した際には後方から追勦し、大兵が前面で迎え撃つことで賊を撲滅できるとし、状況に応じて協力するよう命じた。功のあった者には将帥から卒伍に至るまで厚く恩賞を与えるとし、機密の軍情は寧南靖冦大将軍や武昌方面の各将軍・都統にも共有するよう指示した。

己未 勒爾錦の襄陽分兵防守

  • 大将軍順承郡王勒爾錦は、彰徳に至った際、護軍統領伊勒都斉らの報告で常徳がすでに叛き賊兵が蜀道から巴東に迫っていることを知り、襄陽の危急を懸念して都統鄂鼐と両翼の副都統に佐領ごとの驍騎三人・漢軍二人を率いさせ襄陽へ急派したことを上奏した。
  • 皇帝はこれを受け、鄂鼐に襄陽から鄖陽方面の情勢を偵察させ、鄖陽に事なければ両副都統の兵は荆州の巴爾布軍へ転進させるよう命じた。また勒爾錦には、襄陽総兵官楊来嘉が海上投誠の出身で才乏しく所属官兵も統制を欠くため他変の懸念があるとして、漢軍官兵を襄陽に留鎮させる旨を密かに伝えつつ、警戒を露骨にして事を早めぬよう注意した。

庚申 軍紀厳守の再申明

  • 皇帝は兵部に対し、大将軍・貝勒・将軍らに出師の当初から再三面諭してきた略奪・婦女への暴行の禁を改めて厳達し、無知の徒が紀律を乱し良民を害することのないよう、経過地の督撫にも布告させ、違反者は統兵主帥から督撫に至るまで厳しく処分する旨を通達した。

史論(臣謹按)

  • 出師の当初にすでに紀律を厳にしていたにもかかわらず、間もなくして重ねてこれを戒めたのは、皇帝の愛民の心が片時も緩まなかったからである。将帥への処罰、督撫への参奏の権限付与、法による裏づけをもってその仁心を貫いたことで、以後の用兵は常に民生への配慮を伴い、行く先々に恩沢が及んだ。良民のみならず賊中に陥った者までもが王師の到来を待ち望んだのは、この愛民の心に発するものであった。

岳州守備の強化

  • 皇帝は珠満に、馬が肥えれば岳州守備に向かうとの上奏を良しとし、岳州が水陸の要地であるため将軍尼雅翰の水陸両路の軍とともに固守するよう命じた。
  • あわせて巴爾布には、岳州の参将が信任し難く兵力も単弱との報を受け、桑額・周邦寧の派遣は遅きに失するとして、偏沅巡撫韓世琦軍中の遊撃哈什庫を岳州参将代理とし緑旗兵を率いて急行させるよう命じた。

史論(臣謹按)

  • 湖南に事変が起きた当初から皇帝は岳州守備に将を派した。岳州は洞庭の険を扼し、賊がここに拠れば巣窟となり容易には抜けない要地であり、賊がここを得れば武昌の防備も緊迫する。実際、諸将の畏縮によって岳州は一時失陥したが、皇帝は早くからその要害を見抜き、進撃を促す詔旨は終始厳しく、退却の請いを許さなかった。のちに岳州回復の報が届くと戦況は破竹の勢いとなり、六年におよんだ賊も数か月で掃討された。要害の地を制することの重要性と、皇帝の先見と善後策がいかに的確であったかが、これによって明らかである。

辛酉 莫洛の陝西経略任命

  • 陝西は西は諸蕃・回部を制し南は巴蜀に通じる要地であり、四川の従逆によって秦省の人心が動揺する恐れがあった。皇帝は刑部尚書莫洛が前任の陝西総督として軍民の心を得ていたことから、これを経略に任じ、満兵を率いて西安に駐屯し将軍・総督と合議のうえ巡撫以下を節制させ、兵馬糧餉の調発や文武官の選用について朝廷の掣肘を受けず自ら裁量できることとした。湖広・四川が平定され次第、召還することとした。
  • 莫洛には武英殿大学士を加え、刑部尚書のまま兵部尚書事を管理させ都察院右副都御史を兼ねさせ、勅印を授けた。

直省人民への宣諭

  • 皇帝は戸兵二部に対し、呉三桂の背恩反逆の経緯を詳述する諭旨を発した。明末の李自成の乱に窮して投降した呉三桂を世祖章皇帝が厚遇し王爵を授け、雲貴平定後も重用したこと、即位後さらに恩遇を加え、その願いに応じて藩の撤収・帰郷を許し行資まで手厚く配慮したにもかかわらず、呉三桂は禍心を包蔵し反乱を起こして百姓を蹂躙し偽の檄文を各地にばらまいて人心を惑わしていることを述べた。すでに大兵を発して各路から進勦しており、遠からず殲滅されるとし、民には流言を軽々しく信じず各々生業に安んじるよう布告させた。

孫延齢の反乱と馬雄鎮の拘禁

  • 孫延齢は雲貴の擾乱に乗じて異図を懐き、都統王永年がかつてその過失を暴いたことを恨みに思っていたため、王永年・副都統孟一茂らを殺害して兵を挙げ、巡撫馬雄鎮の署を包囲して陽朔・大榕江の隘口を占拠し、桂林への道を塞いだ。三月七日、両広総督金光祖がこの状況を上奏した。

陝西督撫による四川糧餉の協理

  • 蜀地は人民が少なく大兵の供給が困難であるため、皇帝は隣接する陝西の総督・巡撫に四川総督と協力して兵糧を協理させるよう命じた。

癸亥 根特巴図魯・席布の江西移兵

  • 江西巡撫董衛国の上奏により、袁州・吉安の両郡が長沙に接し兵力が単弱であるとの訴えがあった。皇帝は江西が東は福建、南は広東、西は湖広に接する三省の要地であるとして、兖州の副都統根特巴図魯・安慶の副都統席布に江西省城への急派を命じ、江寧駐防の副都統瑪哈逹には京師から率いた甲兵を安慶へ移させ、察哈爾の左右両翼官兵は兖州で秣馬したのち左翼を江寧、右翼を安慶へ分遣した。

史論(臣謹按)

  • この時、閩・粤はまだ動いていなかったが禍心はすでに久しく包蔵されており、江西に重兵を配して彈圧したことで賊勢は阻絶され、後に三逆がそれぞれ一隅に困窮し連結して披猖することができなかったのは、この一挙によるところが大きい。

真定総兵官張和善の武昌応援

  • 皇帝は兵部に、武昌守備の満兵が岳州・長沙方面へ転出したため、南汝を守っていた真定総兵官張和善に武昌応援を命じた。真定から河南、さらに武昌へと転戦させる労苦を思い、将士に白金を賜って労った。