三月乙丑朔 各路への筆帖式配置による軍情伝達の迅速化
- 軍事が緊迫し通常の駅逓では軍機を誤る恐れがあるとして、兵部に命じ四百里ごとに筆帖式一員・撥什庫一名を置いて郵伝を速めさせた。京師から荆州までに七か所、河南鄭州から武昌までに三か所、直隷真定から漢中までに十か所を設け、遅延して軍機を誤った者は罪に問うこととした。ほどなく江西の駅路も要衝であるとして、南昌から京師までの十一程にも筆帖式を置かせた。
史論(臣謹按)
- 兵は神速を貴ぶが、従来の駅伝には他に策がなかった。皇帝が駅逓の外に別途官を設けて往来させたことで、一昼夜に千余里を伝達でき、互いに交代して人馬を疲弊させることなく、諸将は遠く軍中にありながら朝廷の指図を目前にあるかのように受けられた。この郵伝の速さが軍機に資するところは大きかった。
都統鄂鼐の荆州到着
丙寅 広東裁兵の一時停止
- 広東の経制額兵は七万六千八百二十人であったが、康熙八年の議で一万二千八百二十人を裁減することとし、未裁の兵がなお六千余人残っていた。皇帝は粤東の海疆が広大であるとして、この未裁の兵を留めて守禦に充てさせた。
丁夘 糧餉督理官の荆州派遣
- 都察院左都御史多諾・兵部侍郎勒布・内閣学士李仙根を荆州へ派遣し、大兵の糧餉を督理させた。勅では、多諾に糧餉・撫民事務の総理を、勒布・李仙根にその協理を命じ、糧餉の支給や輸送に滞りなきよう督撫以下を監督し、功ある者は挙奏し、民を苦しめ糧餉を遅滞させた者は直ちに参奏・治罪すること、湖広地方の駅逓事務も兼理することを命じた。
庚午 華善の安南将軍任命と京口鎮守
- 和碩額駙華善を安南将軍とし京口鎮守を命じた。副都統馬思文・楊鳳翔・内閣学士薩海も同行した。出発にあたり皇帝は内廷に召し、京口が要害の地であり近隣に警あれば応援すること、軍の往来・駐防にあたっては民への騒擾を固く禁じ、これまで兵の通過先で騒擾が多かったことを戒めとするよう諭した。
壬申 勒爾錦らへの進兵督促
- 皇帝は大将軍順承郡王勒爾錦らに、巴爾布・伊勒都斉・額司泰・碩岱らが八月に進兵し疆土を回復すると上奏していることについて、雲貴への進軍は四川平定後とすべきだが、湖南は南は粤西、東は江右に連なり、長沙の副将もすでに賊に降り兵船も奪われた以上、まず常徳を速やかに取って長沙の後路を断ち、尼雅翰・珠満の兵で長沙に迫れば賊は降るか逃げるほかなく、雲貴進取の軍にも大いに益すると諭した。攻略を怠れば賊勢が増し、民の耕作を妨げ、兵站もいっそう困難になるとして、八月まで待つことなく、まず常徳・長沙を取って賊の気勢を挫くべきだと衆議を集めて決するよう命じた。
- あわせて、呉三桂が自ら常徳に至ったとの報を受け、常徳・澧州攻略にあたり将軍尼雅翰・都統珠満と進軍の時期を密かに調整し、荆州・武昌両地の軍機を互いに連絡しつつ武昌にも配慮するよう命じた。ほどなく巡撫張朝珍からは、呉三桂軍が水陸並進で岳州を犯そうとしており、賊の間諜二人が城内に潜入し参将李国棟が内応を約したとの上奏があった。
乙亥 勒爾錦の荆州到着
庚辰 耿精忠の反乱と范承謨の拘禁
- 靖南王耿精忠はもとより凡庸で乱を好み、呉三桂の煽動もあって湖南の用兵に乗じ福建を制圧しようと異志を抱いた。この日、総督范承謨を軍議と偽って呼び出し拘禁して挙兵した。范承謨は賊を罵り屈しなかったため幽閉され、巡撫劉秉政は賊に従った。杭州将軍図喇がこの月三十日にこの状況を上奏した。
甲申 人材推挙の命
- 皇帝は吏部に、大兵の進勦により地方が回復すれば直ちに官を置いて民生を治める必要があるとして、漢軍のうち堪用の人員をすでに軍前に発したことに加え、清廉・才能ある漢人官員を大学士以下三品堂官以上に推挙させ、漢軍官員と併用することを命じた。
根特巴図魯らの江西援兵と趙国祚の南昌駐防
- 巡撫董衛国の上奏により、長沙の賊が江西の袁州・吉安を犯す危急が伝えられ、大兵の江西急行が求められた。皇帝は南昌駐防の副都統根特巴図魯に、袁州・吉安に警あれば満漢官兵を率いて勦禦するよう命じ、根特巴図魯が出動すれば南昌が手薄になるため、提督趙国祚に南昌駐防を命じた。
乙酉 彛陵での賊軍撃破
- 逆賊一万余が水陸から彛陵を犯し、長江両岸に五営を布陣させたが、この月四日に官兵が力戦してこれを撃破し、船を鹵獲して賊は宜都へ逃走した。大将軍順承郡王勒爾錦がこの戦果を上奏した。
壬辰 希爾根の定南将軍任命と江西出兵
- 内大臣希爾根を定南将軍、礼部尚書哈爾噶斉をその副として江西へ出兵させた。護軍統領桑格が軍務参賛、吏部侍郎舒恕が署前鋒統領となり、先に江西へ遣わされていた副都統根特巴図魯・席布も軍務に参与した。
- 総督蔡毓栄の上奏により、襄陽総兵官楊来嘉が十五日に穀城で叛き穀城官兵を挟んで西山へ逃げ込もうとしたこと、南漳遊撃李文忠に会兵を命じたが応じず文書で報告したことが伝わった。皇帝は李文忠の対応を嘉し副将の職銜を授けた。
緑旗官兵の賞格制定
- 皇帝は兵部に、緑旗官兵で戦功のあった者には官職・賞賚を与えるべきと諭していた。部臣の議では、陣亡・殉難の官員について千総から兵丁までの恤銀規定はあるが提督以上には規定がなかったため、大小の官に等級に応じて子弟への蔭位と恤銀を与え、堅陣に先登した者・敵船に躍り込んで功のあった者にはそれぞれ守備・千把総・都司僉書などの官と賞銀を段階的に与えることとし、これを制度として定めた。
巴爾布らの武昌急行
- 武昌に警急があったため、都統覚羅巴爾布・護軍統領伊勒都斉に、文書到達次第速やかに武昌へ向かうよう命じた。
甲午 李林隆の襄陽出兵と瓦爾喀の陽平関攻略
- 副都統李林隆に漢軍官兵を率いて襄陽へ赴かせ、都統范達礼と協守させた。范達礼を総統とし、鄖陽方面に警あれば酌量して応援することとした。
- 将軍瓦爾喀の上奏により、逆賊一万余が陽平関に拠り伏兵を布いていたところ、この月十八日、瓦爾喀・署前鋒統領穆占らが野孤嶺から陽平関に進撃し、賊三千余人を撃斬して陽平関と三寨を奪還したことが伝えられた。